第四話:せせらぎのような朝に
……チチッ、ピルル……。
柔らかな鳥のさえずりが、意識の深い海の底にまで届いてくるようだった。
ゆっくりと瞼(まぶた)を開くと、見慣れないはずの木目の天井が、なぜかとても懐かしいもののように目に映る。身体が、羽のように軽い。昨夜まで胸のあたりに靄(もや)のようにかかっていた重石が、嘘のように消え去っていた。
僕はゆっくりと上半身を起こした。
ギシィ……。
ベッドがきしむ音さえも、昨夜とは違って温かく、穏やかな響きに聞こえる。窓の外からは、朝の光が木漏れ日のように差し込み、部屋の中の塵(ちり)をきらきらと聖なる粒子のように輝かせていた。
枕元に目をやると、あの翠色(すいしょく)の小瓶が、静かに朝日を浴びている。コルクの栓は開いたままだが、昨夜あれほど強く香っていた芳香は、今はもうほとんど感じない。ただ、心の奥に、あの安らぎの記憶だけが、確かに残っていた。
こんなに深く、穏やかに眠れたのは、一体いつぶりだったろうか。
寝間着のまま、そっと部屋のドアを開ける。
工房へと続く石造りの廊下は、朝の光で満たされ、ひんやりとしながらもどこか優しい空気をたたえていた。
工房のドアは、少しだけ開いていた。隙間から、心地よい香ばしい匂いが漂ってくる。暖炉の中では、薪がパチッ、パチパチッと歌うように燃えていた。
足音を忍ばせて中を覗くと、セレスティアが暖炉の前に屈みこんで、火の番をしているところだった。彼女の銀色の髪は、朝の光を受けて透き通り、まるで光そのものを紡いだ糸のようだった。
「……おはようございます」
僕が声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。その紫色の瞳が、僕の姿を認め、ふわりと春の蕾がほころぶように優しく細められる。
「おはようございます。……ふふ。よく眠れたようですね。あなたの心の音が、とても穏やかで、澄んだせせらぎのようです」
彼女は立ち上がると、僕のそばにやってきた。
シャラ……。
彼女のドレスの裾が床を擦る音だけが、静かな工房に小さく響く。いつもの、ラベンダーとカモミールの香りに混じって、焼きたてのパンのような、甘く香ばしい匂いがした。
「ありがとうございます。あなたのおかげで……本当に、ぐっすり眠れました」
「いいえ。あなたの心が、魔法を受け入れてくれたからです」
彼女はそう言うと、僕の顔をじっと見つめ、不意に、くすりと笑みをこぼした。
「どうか、しましたか?」
「あなたの髪に、可愛らしいお客さまがついていますよ」
彼女は僕にすっと顔を近づけた。そして、その細く白い指先で、僕の髪に優しく触れる。ぞくっとするほど近くに彼女の気配を感じて、僕は思わず息を詰めた。彼女の吐息が、耳たぶをくすぐる。
サリ、サリ……。
彼女の指が、寝癖のついた僕の髪を、梳(す)くように直していく。その規則正しいリズムと優しい感触に、僕はまた身体の力が抜けていくのを感じた。
「きっと、素敵な夢の欠片(かけら)でしょうね。……はい、取れました」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、僕から少しだけ身体を離した。その近さに、心臓がトクン、と一つ大きく跳ねる。その熱が、顔に集まっていくのを感じた。
「さあ、朝食にしましょう。お腹が空いているでしょう?」
彼女は僕の手を引くでもなく、ただ穏やかな眼差しで、作業台の隣に設えられた小さなテーブルへと僕を促した。テーブルの上には、湯気の立つハーブティーと、こんがりと焼かれたパン、そして小さな瓶に入った蜂蜜が用意されている。
カチャリ、とティーカップがソーサーに触れる、澄んだ音がした。
「今日は、一日何をしましょうか。あなたのことを、もっとたくさん知りたいのです」
そう言って微笑む彼女の瞳は、どこまでも優しく、そして少しだけ、僕の知らない深い色をたたえているような気がした。僕は、その吸い込まれそうな瞳から目をそらせないまま、ただ静かに頷くことしかできなかった。
窓の外では、鳥たちの歌声が、新しい一日の始まりを祝福するように、いつまでも続いていた。
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