薬師
目を閉じていてもグラグラと揺れているような感覚がする。体に全く力が入らない。更に体の内側から襲い来る強烈に焼け付くような痛みはいつまで経ってもジクジクと全身を蝕んでいる。
初めは分からなかった。自分が飲んだのは何の味も匂いもしない、ただの水。
竹筒から口を離した瞬間に目を逸らした男の悲痛な面持ちを見て、すぐには分からなかったが激しい痛みと夥しい血の量を見た瞬間に自分は「死ぬんだ」と理解した。水を飲んで死ぬとは何とも不思議な話だと思いもした。ただ思い至らなかったのは、毒を盛られたのだと言う認識に辿り着けるほど、毘天は大人ではなかった。
遠退きかける意識の片隅でどうせ両親もいなくなって、子供の自分がこれからどうやって生きて行けばいいのかなんて皆目分からなかったのだから、このまま死んだところで惜しくないとさえ思った。
「あ、動いた」
ふとどこかで人の声が聞こえる。
毘天はゆっくりと瞼を押し上げると、目の前に見た事も無い少女が一人こちらを覗き込んでいた。
「お父さん、目が覚めたよ」
少女はすぐ傍にいるであろう父の方へ振り返りながらそう声をかけると、慌ただしく駆け寄って来る初老の男性の顔が少女の後ろから覗き込んでくる。
「良かった! 大丈夫かい?」
「……」
「いや~、びっくりしたよ。薬を取りに山に入ったら君が倒れていたからね。正直もう助からないかと思ったけど、ほんとに良かった」
男性は人懐っこそうに笑いながら、優しく大きな手で毘天の頭を撫でてくる。
「君は毒を飲んでいたみたいだね。誤って毒草でも口に入れたのかな? 吐血量も多かったからしばらくは安静にしていなさい」
「……」
「
男性はそう言うと、他の場所にいる娘の紗詩に「後は頼んだよ」と声をかけてどこかへ行ってしまった。
毘天は声を出すことも体を動かすことも出来ず、ただ唯一動く目だけを周りに巡らせた。見た事の無い部屋。嗅いだことのないニオイ。
ここは一体どこなのだろうかと、上手く働かない頭でぼんやりと考えていると紗詩と呼ばれた先ほどの少女が再び顔を覗かせる。
「初めまして。私、紗詩って言うの。あなたは……まだ喋れないだろうから、元気になったら色々聞かせてね」
紗詩はそう言うと慣れた手付きでテキパキと毘天の傍で仕事を片付けて行く。
「お父さん、仕事は出来るのに後片付けとかが全然ダメでね。使ったら使いっぱなしにする事が多くて困ってるの。ほんとに、私がいなかったらどうするつもりなのかしら」
紗詩の口ぶりは、およそ娘と言うよりも女房という言葉が合いそうな言葉遣いだった。
内臓や気管支、声帯、食道が毒のせいで爛れてしまっている毘天はただ黙っている事しか出来ないが、そう言った事にも慣れているのだろうか。お構いなく彼女のペースで沢山の話をしてくれる。そんな日々がしばらく続く事になった。
毘天は、看病されている中でいつもとは違う事に気が付く。朝日が昇りそして時間と共に夜がやってくる。その間隔が自分が知る間隔とはまるで違っている。一日の流れがこんなに早い事に強い違和感を覚えたが、身動きも出来ず声も出せないのではどうすることも出来ない。ただこの違和感をじっと受け入れる事しか今の自分には出来ないのだ。
日が昇り、同じ時間になると紗詩が顔を覗かせて仕事をこなしながら独り言とも取れる紗詩の話は、毎日のように尽きることがない。
話しながら一人で怒って、一人で笑って、一人で落ち込んで……。ただ見ているだけでも飽きないくらいくるくると良く表情が変わる活発で可愛らしい少女だと言う事が日々の中で分かった。
「私、明日誕生日なの。17になるのよ。あなたはいくつなのかしら? 私と同じくらいなのかなって思ってるんだけど」
「……」
ある日、微笑みながらそう明かした言葉に毘天は驚いた。自分よりもずっと年上の女性だと思ったからだ。
紗詩は大きなため息を吐いて、困ったように笑う。
「私ももう17なんだし、そろそろ嫁の貰い手を探さないとってお父さんずっと思ってるみたい。年頃の娘が薬の調合や薬草摘みばかりしてるのはおかしいって、よく言われるわ。でも、私この仕事が好きなの。出来るならずっとここで働いてたい……」
「……」
「なんてね。私の今言った事お父さんには内緒にしてね? さ、私はちょっと薬の補充してくるわ。薬の時間になったらまた来るわね」
紗詩はそう言うとぽんと膝を叩いて椅子から立ち上がり、部屋を後にする。
「……」
一人部屋に残された毘天は、紗詩が去った方を見つめ視線だけを下に向ける。その時ふと、自分の手が視界に入った。その自分の手が、今まで見て来たものとは違っている事に驚く。
この時の毘天はまだ自分が9つと言う年齢だと疑っていなかったが、およそその年回りの子供がしている手ではない。どちらかと言われれば紗詩の父親と同じように大きく、少し骨ばっている。
毘天は混乱した。一体自分の体に何が起きているのか理解が出来ない。
確かにここで過ごした時間は、自分が知る時間軸よりも早いとは感じていた。だがそれにしてもこの体の大きさはどういう事なのだろう。紗詩や彼女の父親の対応を見ている限り、突然この大きさになったわけではないようだが……。
体を自由に動かす事も喋る事も出来ないことがあまりにももどかしい。
「……っ」
何かを話そうとしても、喉の奥からは乾いた空気しか出てこなかった。
しばらくの間もぞもぞと体を動かそうとしていたが、思い通りにならなずにやがて諦めて動くことを諦めた。
長い溜息を吐き、すぐ傍の窓に視線だけを送る。
窓の外には、薬を貰いに来た初老の女性と子供の姿と紗詩の父の姿が見えた。
毘天は、外部の人間と関わったことがあまりない。あるとすれば家で寝込んでいた時に家に様子を見に来てくれていた友達二人くらいだ。ましてや、こんな風に人間と関わった事などなかった。大人たちからは「何かあればすぐに争い、奪い合うのが人族だ」ともっと幼い時に聞かされていたが、紗詩を含め彼女の父や時折この家を訪ねて来る人間たちは皆一様に優しい。昔聞いたあれはみんな、ただの思い違いなのだろうと思った。
そう言えば、毎日のように様子を見に来てくれていたあの二人は今どうしているのだろう。突然いなくなって、もしかしたら心配してるかもしれない。そう思うと、武の部族とはまた違う場所で生きているあの二人にも久しく会いたくなってくる。
もうどれくらい会ってないだろうか……。気付けば紗詩に助けられてもうしばらく経ったように思う。
何気なく窓の外に視線を向けたまま寝ていると、いつの間にか紗詩が薬の入った白い器を手に部屋に入って来る。
「お待たせ。はい、今日の分の薬湯。ゆっくり飲んでね」
そう言いながら器を手に持たせて来る紗詩を、毘天は思わずじーっと見つめてしまう。
「ん? どうしたの?」
「……」
不思議そうに首を傾げて微笑む紗詩。
思えば、彼女と出会っていなければ自分は本当に死んでいたかもしれない。今こうして、不自由ながらも復活する事が出来たのは全て彼女のおかげだった。屈託なくいつも微笑みかけてくれる彼女に惹かれるのは、もはや必然だったと言っても良い。
毘天はどうしても彼女と話をしたくて、出ないと分かっている声を出すために口を開く。
「……う」
「え?」
「……あ……う」
喉の奥から空気と共に漏れる音は、今まで自分が発していた音とはまるで違う。以前はもっと、それこそ女児と同じくらいの声の高さだったと思ったが、今漏れ出た音はしゃがれた老人のような低い声だった。
所々消えてしまう言葉に加えて小さく頭を下げると、毘天が何を言いたかったのかを察知した紗詩はパッと表情を輝かせ、心底嬉しそうに微笑んだ。
「凄い! 凄い凄い! ちゃんと分かったよ! ありがとうって言ってくれたんでしょ!?」
彼女があまりにも嬉しそうに歓喜の声を上げるものだから、毘天は急に恥ずかしくなり顔を僅かに染めながら小さく頷き返す。
「治療始めてまだ半年くらいなのに、凄いね! もっと練習したらまた元のように喋れるようになるかもしれない! あ、でも無理はしたらダメだからね? 無理して傷めたら、今度こそ声が出なくなっちゃうかもしれないってお医者様も言っていたもの」
その言葉に、毘天はこくりと頷き返した。
彼女に支えて貰いながら、いつものように持たされた器の中の薬を飲み込む。
初めこそ飲み込む行為に怖さを覚えていたが、今ではそれも払拭されている。
「じゃあゆっくりしてて。これ片付けてくるわね」
器を手に紗詩が離れて行く。もう少し傍にいて欲しいと思っても、まだ体が痺れて思うように動かない為に彼女の着物の袂をとる事さえ出来ず、ただ見送る事しか出来ない事に歯がゆさを覚えた。
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