あの日、僕らの夏は終わった
舞夢宜人
友情は終わり、背徳が始まった。
#### 第1話「いつもの夏、予感の夏」
じりじりと肌を焼く八月の日差しが、大学のキャンパスに容赦なく降り注ぐ。夏休みだというのに、図書館に通う真面目な学生や、サークル活動に勤しむ者たちで、構内はそれなりの活気を保っていた。僕、佐藤秀一は、そのどちらでもなく、ただ時間を潰すためだけに、行きつけのカフェテリアでアイスコーヒーのグラスをぼんやりと眺めていた。この眩しい光景の、隅に置かれた石ころのような存在。それが僕だった。
「でさ、その時の大輝のシュートがマジで神ってて!」
弾むような声の主は、鈴木夏希。目の前で身振り手振りを交えながら、自身の彼氏である田中大輝の武勇伝を語っている。その隣では、高橋涼介の彼女である山本静香が、控えめな微笑みを浮かべて相槌を打っていた。そして、話の主役である大輝は満更でもないといった表情で腕を組み、涼介は興味なさそうにスマホの画面をなぞっている。いつもの光景。僕たちの幼馴染グループの、夏の日のありふれた一コマだ。
スポーツ万能で誰からも好かれる大輝。成績優秀でクールな涼介。二人はいつも輪の中心にいて、眩しいほどの光を放っている。そして、その隣には、華やかな夏希と清楚な静香が当たり前のように座っている。まるで、出来の良いフィギュアを完璧な配置で並べたジオラマのようだ。そして僕は、そのジオラマの隅に置かれた、取るに足らない石ころのような存在だった。
不意に、大輝と涼介が「サークルの後輩に呼ばれたから」と席を立った。途端に、テーブルの上の空気がふわりと軽くなる。残されたのは、僕と夏希、そして静香の三人。
「もー、あいつら自分たちの話ばっかり」
夏希はそう言って頬を膨らませると、いたずらっぽい笑みを僕に向けた。
「ねえ、秀一。今度の週末、空いてる?」
「え? あ、うん。特に何もないけど」
突然話を振られて、僕はどもりながら答える。夏希の真っ直ぐな視線が、少しだけ心臓に悪い。
「実はさ、みんなで海に一泊旅行行こうって話してるんだ。秀一も一緒にどうかなって」
「……え、でも、それって……」
カップル二組の旅行だろう。僕が行ってどうするんだ。お邪魔虫以外の何者でもない。断ろうとした僕の言葉を、隣に座っていた静香が遮った。
「秀一君も一緒の方が、私たちも心強い、かな」
小さな声だったが、その言葉には妙な説得力があった。夏希がそれに大きく頷く。
「そうそう! それにさ、なんていうか、今回ってちょっと……特別だから。色々と、初めての場所だし……ねえ、静香?」
夏希が意味ありげに静香に目配せすると、静香は顔を赤らめてこくりと頷いた。「初めて」という言葉の響きに、僕は何か得体のしれない胸騒ぎを覚える。彼女たちの会話の端々から、この旅行がただのグループ旅行ではないことが微かに滲み出ていた。それは、彼女たちがこれから迎えようとしている、何か大切な儀式のような……。
僕の返事を待たずに、夏希たちは楽しそうにパンフレットを広げ始めた。その無邪気な笑顔を見ていると、僕の中で黒い感情が渦を巻く。どうせ僕が行っても、大輝と涼介はあからさまに嫌な顔をするだろう。「なんで来たんだ」と、そう言われるのが目に見えている。惨めな思いをするだけだ。
だが、同時にこうも思う。夏希と静香が、僕を誘ってくれている。この二人からの誘いを、僕が断れるはずがない。そして何より、僕を見下しているあの二人に、ほんの少しでも抗ってみたいという、幼稚な対抗心が頭をもたげた。
「……うん。僕も、行っていいなら」
僕がそう呟くと、夏希は「やったー!」と声を上げて喜び、静香もほっとしたように微笑んだ。
数日後、僕は約束の時間よりずいぶん早く、集合場所である海辺の駅に着いていた。潮の香りが混じった生温い風が、肌を撫でていく。まだ誰もいないホームのベンチに座り、どこまでも青い空と海の境界線を眺める。
どうせ、また惨めな思いをするだけだ。そう思う一方で、心のどこかでは期待していた。この夏、何かが変わるかもしれない、と。僕の燻り続ける劣等感も、あの二人への嫉妬も、すべてこの青い海に溶かしてしまえるような、そんな出来事が起きるかもしれない。
根拠のない予感を胸に、僕は静かに決意した。この旅行で、ただの石ころで終わるのだけはやめよう。たとえ惨めな思いをすることになったとしても、あの二人を、そして彼女たちを、僕だけのやり方で見返してやるのだ、と。遠くから聞こえる電車の接近音が、僕の新たな夏の始まりを告げているようだった。
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#### 第2話「海辺の惨劇、予期せぬ雨」
改札を抜けると、むわりとした潮風が僕の肌を撫でた。太陽がアスファルトを焦がす匂いと、微かな磯の香りが混じり合う。駅前のロータリーには、既に四人の見慣れた顔があった。僕の姿を認めると、夏希と静香が小さく手を振ってくれる。しかし、その隣に立つ二人の男の表情は、真夏の空とは対照的に、凍てつくように冷え切っていた。
「……ちっ、マジで来たのかよ」
聞こえるか聞こえないかの声で、大輝が舌打ちをする。その視線は、僕という存在を汚物でも見るかのように蔑んでいた。隣の涼介は何も言わない。だが、その無関心こそが、僕の心を抉る最も鋭利な刃物だった。分かっていたことだ。それでも、昨日芽生えたばかりの淡い決意が、早くも萎えていくのを感じる。
彼らの態度は、いつもの「冴えない幼馴染」に対するものではなかった。そこには、もっと切実で、剥き出しの苛立ちが込められていた。まるで、人生の一大イベントを僕という存在に台無しにされた、と言わんばかりの敵意。彼らがこの旅行に懸けていた「計画」の邪魔者。それが、今の僕に与えられた役割だった。
ぎこちない空気のまま、僕たちは砂浜へと向かった。ビーチパラソルが点在し、楽しげな声が響く海岸で、僕たちの周りだけが不自然に静まり返っている。大輝と涼介は、示し合わせたように僕を無視し、自分たちの世界を築いていた。
「おい、大輝。いい加減にしてよ」
沈黙を破ったのは夏希だった。その声には、怒りの色がはっきりと浮かんでいる。
「あ? 何がだよ」
「秀一に対して、その態度は何なのって聞いてんの! せっかくみんなで来たんじゃん!」
「……“みんな”ね。俺は、お前と二人で来たかったんだけど」
大輝の言葉に、夏希が息を呑む。そのやり取りを見ていた静香が、おずおずと涼介に話しかけた。
「涼介君も、何か言って……」
「俺も大輝と同意見だ。空気が読めない奴がいると、こっちが疲れる」
涼介が吐き捨てるように言うと、静香は悲しそうに俯いた。彼女たちの心の内では、計画が崩れたことへの残念な気持ちと、僕を仲間外れにできない優しさが、激しくせめぎ合っているのだろう。僕のせいで、この場の空気が壊れていく。罪悪感が、鉛のように僕の胃に沈んでいった。
結局、夏希と静香は彼らと距離を置き、僕の隣にいることを選んだ。砂浜には、くっきりと亀裂が走っていた。男二人と、女二人と、その間に挟まれた僕一人。それは、あまりにも歪な構図だった。
その時だった。燦々と輝いていた太陽が、にわかに厚い雲に覆われたのは。空気が急速に冷え、大粒の雨がぽつり、ぽつりと砂浜を叩き始めた。それは瞬く間に激しさを増し、僕たちの身体を容赦なく濡らしていく。夕立だ。
「最悪だ……! 全部こいつのせいだ!」
大輝はびしょ濡れになりながら、忌々しげに僕を睨んだ。もう我慢の限界だったのだろう。彼は踵を返し、「俺は帰る!」と叫んで走り去っていく。涼介も無言でそれに続いた。
「ちょっと、待ちなよ!」
夏希が叫ぶが、二人は振り返らない。嵐のような雨の中で、僕たち三人は取り残された。絶望的な状況の中、静香が遠くを指差した。
「あそこ……旅館、みたい」
彼女が指差す先には、丘の上に立つ古い木造の建物から、温かな光が漏れていた。僕たちに残された選択肢は、そこしかなかった。
古びた旅館の一室は、畳の匂いと雨の匂いが混じり合っていた。女将さんから借りたタオルで濡れた髪を拭きながら、僕たちは窓の外を眺める。叩きつけるような雨音だけが、部屋の沈黙を際立たせていた。
大輝たちとの喧嘩。予期せぬ夕立。そして、三人だけで過ごすことになった旅館の一夜。非日常的な出来事が立て続けに起こり、僕たちの間には奇妙な連帯感と、それ以上に濃密な緊張感が漂っていた。もう、いつもの幼馴染の関係ではいられない。この雨が、僕たちの夏を、そして僕たちの関係を、取り返しのつかない場所へと流し去ろうとしている。そんな不穏な予感が、湿った空気と共に、部屋の隅々まで満ちていくのだった。
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#### 第3話「背徳の温泉宿」
貸し切りだった露天風呂から上がると、火照った身体に旅館の古びた廊下の空気が心地よかった。女将さんが用意してくれた部屋は、い草の匂いがする静かな和室で、窓の外では相変わらず雨が降り続いている。僕たちは、それぞれ旅館の浴衣に身を包み、所在なく座っていた。先程までの喧騒が嘘のように、部屋には気まずい沈黙が流れている。
「……なんか、飲もっか」
沈黙を破ったのは、やはり夏希だった。彼女は小さな冷蔵庫から瓶ビールを三本取り出すと、僕と静香に手渡す。栓を開けると、ぷしゅ、という軽快な音が妙に大きく響いた。
「とりあえず、お疲れ様ー……ってことで」
夏希が無理に明るくそう言うと、僕と静香もグラスを合わせた。風呂上がりの渇いた喉に、冷えたビールが染み渡っていく。アルコールが身体に回るにつれて、張り詰めていた緊張の糸が少しずつ緩んでいくのを感じた。頬が熱い。それは温泉のせいか、それとも酒のせいか。
「あはは、秀一、顔真っ赤じゃん。昔からお酒弱いもんね」
ほろ酔いになった夏希が、無邪気に僕の顔を指差して笑う。その隣で、静香もくすくすと肩を揺らしていた。その屈託のない笑顔は、まるで幼い頃に戻ったかのような錯覚を僕に与えた。
「ねえ、覚えてる? 小学生の時、秀一の家で枕投げして、秀一が障子破っちゃったこと」
夏希がけらけらと笑いながら、手元の座布団を僕に軽く投げつけてくる。子供の頃のじゃれ合い。その懐かしい感触に、僕もつい笑顔になり、座布団を投げ返した。
「あったな、そんなこと。あれ、夏希がけしかけたんじゃんか」
僕たちのやり取りを微笑ましげに見ていた静香も、いつの間にかその輪に加わっていた。座布団が部屋の中を飛び交い、三人の笑い声が響く。それは、今日の昼間にあった亀裂を、一時的に埋めてくれるかのような、温かくて、そしてどこか刹那的な時間だった。
じゃれ合いがエスカレートし、いつしか僕たちは畳の上でもつれ合っていた。夏希が僕の脇腹をくすぐり、静香が僕の足を押さえる。僕は笑いながらも抵抗するが、二人掛かりでは敵わない。浴衣の合わせが乱れ、彼女たちの白い首筋や、汗ばんだ肌がすぐそこにあった。シャンプーの甘い香りと、ほのかな酒の匂い、そして彼女たち自身の匂いが混じり合い、僕の理性をじわじわと侵食していく。これは、もう子供の遊びじゃない。
僕が畳の上に押さえつけられ、夏希と静香が僕の身体を上から覗き込む。彼女たちの火照った頬、潤んだ瞳、そして無防備に開かれた浴衣の襟元が、僕の目に焼き付いた。
その瞬間、僕の脳裏に、大輝と涼介の顔が浮かんだ。僕を蔑む、あの傲慢な笑み。僕からすべてを奪っていく、あの自信に満ちた姿。長年、僕の心に澱のように溜まっていた劣等感と嫉妬が、目の前の光景と結びつき、どす黒い欲望へと姿を変えた。
――こいつらは、あいつらのものだ。
――でも、今、こいつらを無防備にさせているのは、俺だ。
――奪ってしまえ。お前が見下してきた男に、すべてを奪われる気分はどうだ?
僕の中で、何かがぷつりと切れる音がした。必死に押さえつけていた衝動が、堰を切ったように溢れ出す。僕の表情から笑みが消えたことに、夏希が気づいた。
「しゅう、いち……?」
不安げに僕の名前を呼ぶ彼女の声は、もう僕には届かなかった。
僕は、残っていたすべての力を使って、身体を捻った。驚く彼女たちの抵抗は、もはや意味をなさない。一瞬で立場は逆転し、僕は夏希の華奢な身体の上に、覆いかぶさっていた。
「え……?」
困惑に見開かれた夏希の瞳が、至近距離で僕を映す。その隣で、静香が息を呑むのが分かった。部屋の空気は張り詰め、もはや後戻りはできない。窓の外で激しさを増す雨音だけが、僕たちの罪を洗い流そうとするかのように、ただ、鳴り響いていた。
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#### 第4話「境界線の夜」
時間が、止まったようだった。僕の腕の中で、夏希の華奢な身体が微かに震えている。驚きと困惑に見開かれた瞳が、至近距離で僕を捉えていた。部屋の隅では、静香が息を呑んだまま固まっている。世界から切り離されたこの和室で、僕たち三人の心臓の音と、窓を叩く雨音だけがやけに大きく響いていた。
「しゅう、いち……?」
掠れた声で僕の名を呼ぶ夏希の声は、懇願のようにも、非難のようにも聞こえた。僕が知っている快活な彼女の面影はない。そこにいるのは、未知の状況に怯える一人の女の子だった。僕の目には、どんな風に今の自分が映っているのだろう。いつもみたいに、情けなく、おどおどして見えているのだろうか。いや、違う。僕の本能がそう叫んでいた。夏希の瞳に映るのは、恐怖。そして、その奥に揺らめく、ほんの僅かな好奇の色。
僕の行動は、大胆さを増していく。彼女の手首を押さえる指先に、ゆっくりと力を込めた。抵抗できないと悟ったのか、夏希の身体からふっと力が抜ける。彼女がいつも弟のように扱ってきた「ぼーやん」ではない。紛れもない「男」の力で、彼女は完全に支配されていた。その事実が、僕の身体の奥底から、得体のしれない熱を呼び覚ます。普段の僕とは違う、低く、掠れた声が喉から漏れた。
「……夏希」
ただ名前を呼んだだけ。それなのに、夏希の肩がびくりと跳ねる。彼女は、僕のこの変化に戸惑いながらも、どこかで抗いがたい魅力を感じ始めている。そんな確信にも似た感覚が、僕をさらに大胆にさせた。
僕の中で、二人の自分が激しくせめぎ合っていた。一人は「やめろ、元に戻れなくなるぞ」と叫び、もう一人は「ここで引いたら一生後悔する」と囁く。長年僕を苛んできた劣等感と、大輝たちへの復讐心。それが今、夏希への歪んだ欲望と結びつき、僕という人間の境界線を破壊しようとしていた。
夏希もまた、激しい葛藤の渦中にいた。その瞳が、僕と、部屋のどこか一点とを、不安げに行き来する。彼女の頭の中には、きっと大輝の顔が浮かんでいるのだろう。「初めては、大輝と」。そう心に誓っていたであろう神聖な約束と、目の前で剥き出しの欲望を向ける僕への、背徳的な好奇心。貞淑と好奇。罪悪感と期待。そのすべてが彼女の中でごちゃ混ぜになり、思考を停止させている。どちらに転んでも、もう僕たちの関係は、二度と元には戻れない。
やがて、僕の中の囁き声が、理性の絶叫をかき消した。もう、迷わない。僕はゆっくりと顔を夏希のそれへと近づけていく。汗と、風呂上がりの石鹸と、甘いアルコールの匂いが混じり合う。数センチ先にある彼女の唇が、小さく開いて、震えていた。抵抗する素振りはない。いや、抵抗できないのだ。彼女自身も、この先に何が待っているのかを、確かめずにはいられないのだから。
僕たちの唇が触れ合う、その寸前。部屋の隅から、静香が息を詰める、か細い音が聞こえた。その音が、この背徳的な夜の、始まりの合図だった。
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#### 第5話「欲望の解放」
静香のか細い息遣いが、僕と夏希の間にあった最後の躊躇いを断ち切った。僕は、目の前の震える唇に、自分のそれを重ねる。それは、およそキスとは呼べない、貪るような行為だった。驚きに見開かれた夏希の瞳から、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちる。
「ん……っ、やめ……しゅう、いち……」
くぐもった声で、彼女は懇願する。僕の胸をか細い力で押し返そうとするが、長年抱えてきた劣等感を燃料にして燃え盛る僕の欲望の前では、あまりに無力だった。僕は彼女の抵抗を力でねじ伏せ、そのか細い手首を片手で畳に押さえつける。もう、引き返せない。引き返すつもりもなかった。これは、僕が僕であるための、初めての闘争だった。
僕は夏希の唇から離れ、その白い首筋に顔を埋める。彼女がびくりと身体を震わせ、抵抗の力が僅かに弱まった。その隙を見逃さず、僕は彼女の浴衣の合わせに指をかける。するりと解けた帯が、これまで誰も触れたことのない、彼女の聖域を露わにした。
「いや……っ、だめ……!」
夏希の悲鳴に近い声が、部屋に響く。彼女の頭の中では、絶望的な現実が渦巻いているのだろう。愛する彼氏である大輝と迎えるはずだった、甘くて優しい、初めての夜。その夢は今、弟のように思っていた幼馴染によって、荒々しく踏みにじられようとしていた。恐怖と混乱、そして裏切られた未来への絶望が、彼女の心を支配していた。
だが、身体は心とは裏腹に、正直な反応を示し始めていた。僕の指が、彼女の柔らかな肌をなぞるたびに、予期せぬ熱が彼女の身体を駆け巡る。僕が与える刺激は、大輝が与えるはずだった優しい愛撫とは違う。もっとずっと貪欲で、相手のすべてを支配しようとする、暴力的なまでの熱を孕んでいた。
僕の熱が、ついに彼女の最も柔らかな場所へと触れた時、夏希の身体が大きく弓なりにしなった。痛みと、そしてそれ以上の驚きと快感に彩られる彼女の表情。処女を奪われる屈辱と、初めて知る身体の奥底からの歓喜。その二つの相反する感情の狭間で、彼女は喘ぐことしかできない。
「あ……ぁっ……んぅっ……!」
その声は、僕が今まで知っていた夏希のものではなかった。それは、僕だけが引き出した、彼女の本当の声。その声を聞くたびに、僕の中で燻っていた劣等感が浄化されていくような、倒錯した喜びが湧き上がってくる。大輝、涼介、お前たちには決して見せることのない姿だ。こいつは今、俺の下で、俺だけに感じている。
夏希の身体は、もはや完全に僕の支配下にあった。僕が腰を動かすたびに、彼女は甘い悲鳴を上げ、シーツを固く握りしめる。その身体は、僕の優位性を認めざるを得ない反応を、何度も、何度も繰り返していた。
長い時間が過ぎたのか、それとも一瞬だったのか。窓の外で降り続いていた雨が、いつの間にか少しだけ弱まっている。僕の動きが止まった時、夏希はぐったりと脱力し、浅い呼吸を繰り返すだけだった。その潤んだ瞳は虚空を彷徨い、もはや僕を映してはいない。
僕は、彼女の身体からゆっくりと離れた。汗ばんだ身体に、部屋の空気がひんやりと感じられる。長年僕を縛り付けていた劣等感という名の重い鎖が、音を立てて砕け散った後のような、不思議な解放感が全身を包んでいた。僕はもう、かつての僕ではない。夏希を支配し、彼女のすべてを奪ったという絶対的な快感が、僕という人間を根底から作り変えてしまったのだ。
僕は、汗に濡れた前髪をかきあげ、部屋の隅に目をやった。そこには、布団の端を固く握りしめ、この背徳的な行為の一部始終を、恐怖と羨望の入り混じった瞳で見つめていた、もう一人の共犯者がいた。
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#### 第6話「共犯者の眼差し」
時間の流れが歪んでしまったようだった。部屋の隅で、私、山本静香は息を殺す。目の前で繰り広げられている光景が、現実のものだとは到底信じられなかった。これは悪い夢だ。きっと、さっき飲んだお酒が見せている幻に違いない。そう思おうとしても、耳に届く親友の悲鳴と、畳を擦る衣擦れの生々しい音が、それを許してはくれなかった。
夏希が、秀一に、犯されている。
その事実を脳が理解した瞬間、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。助けなきゃ。止めなきゃ。そう思うのに、身体は金縛りにあったように動かない。親友の夏希が、あんなにも好きだった大輝君ではない、別の男に、しかも私たちがずっと弟のように見てきた秀一に、その純潔を奪われている。その衝撃的な光景は、私の思考能力を完全に麻痺させていた。
夏希の表情が、苦痛と屈辱に歪む。涙が彼女の綺麗な頬を伝っていく。その姿を見ているのが、たまらなく辛かった。けれど、私は目を逸らすことができなかった。恐ろしいのに、見てはいけないと分かっているのに、私の視線は、もつれ合う二人の身体に釘付けになっていた。
やがて、信じられない変化が訪れる。夏希の抵抗が、徐々に弱まっていく。苦悶の声に、微かな甘さが混じり始めたのだ。最初は気のせいだと思った。でも、それは間違いなく、彼女の身体が感じている悦びの声だった。涼介君と付き合っている私にも分かる。それは、女が快感の淵でしか漏らすことのない、切なくて、どうしようもなく淫らな響きをしていた。
強い衝撃と、背徳的な好奇心が、私の心をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。涼介君との関係は、穏やかで、安心できるものだ。彼との初めての夜も、きっと優しくて、ロマンチックなものになるだろうと、そう信じて疑わなかった。でも、今目の前にあるのは、そんな生易しいものではない。支配と服従。暴力的なまでの熱情。剥き出しになった、雄と雌の本能。そんな、私が今まで知らなかった世界の情動が、私を強く揺さぶった。
涼介君は、私にあんな顔をさせてくれるだろうか。
ふと、そんな考えが頭をよぎり、私は自分で自分に驚愕した。私は、夏希に嫉妬している? この、悪夢のような状況の中で、親友の苦しみを、羨んでいる? 罪悪感で胸が張り裂けそうになる。けれど、一度芽生えた禁断の感情は、もう消すことができなかった。
もし、あそこにいるのが、夏希じゃなくて、私だったら――。
その想像は、恐ろしいほどの熱を帯びて、私の身体の芯をじんと痺れさせた。涼介君と迎えるはずだった「初めての夜」。その神聖な儀式が、目の前の背徳的な光景に、ぐにゃりと塗り替えられていく。
その時だった。すべての嵐が過ぎ去ったかのように、秀一の動きが止まった。部屋には、二人の荒い息遣いと、夏希の嗚咽だけが響いている。そして、ゆっくりと、汗に濡れた身体を起こした秀一が、こちらを向いた。
その瞳と、視線が絡み合う。
もう、そこに私の知っている気弱な「ぼーやん」はいなかった。そこにいたのは、獲物を喰らい尽くした獣のような、鋭い眼光を放つ雄だった。その射抜くような瞳は、私に問いかけているようだった。「お前も、欲しいんだろう?」と。
心臓が、喉から飛び出しそうなくらい激しく高鳴る。恐怖と、期待。相反する感情が渦巻き、私の呼吸を奪っていく。逃げなければ。そう本能が警鐘を鳴らすのに、私の足は畳に縫い付けられたように動かなかった。私は、彼の無言の誘いを、拒むことができなかった。
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#### 第7話「静かなる共鳴」
獣の視線に射抜かれ、静香の身体は縫い付けられたように動かなかった。私のすぐ側では、夏希が小さく嗚咽を漏らしている。この世の終わりのような光景の中で、私と秀一、二人だけの時間が流れていた。彼の瞳は、私に選択を迫っている。このまま背を向けて日常に逃げ帰るのか、それとも、共犯者としてこちらの世界に足を踏み入れるのか。
一瞬だけ、涼介君の顔が脳裏をよぎった。誠実で、優しくて、私を大切にしてくれる人。彼を裏切ってはいけない。頭では分かっているのに、私の心は、目の前の雄が放つ、危険で、抗いがたい引力に引き寄せられていた。さっきまで私の中で渦巻いていた、羨望と嫉妬と、そして禁断の好奇心。それが、彼の視線という鍵によって、ついに心の扉をこじ開けてしまった。
私は、自らの欲望に抗うことを、やめた。
ゆっくりと、震える脚で立ち上がる。一歩、また一歩と、畳を踏みしめる私の足取りは、まるで自らの意思ではないかのように、彼のもとへと向かっていた。夏希がいた場所へ、破滅へと続く祭壇へ、私は自ら歩み寄っていく。
私のその大胆な行動を、秀一は唇の端を歪めて見つめていた。夏希を衝動のままに組み敷いた時とは違う、もっと深い、確信に満ちた征服感が彼の表情には浮かんでいた。彼は、私が来ると分かっていたのだ。
彼の前にたどり着いた私は、何も言わず、ただその場に膝をついた。そして、震える指先を伸ばし、彼の汗ばんだ頬にそっと触れる。その瞬間、びり、と微かな電気が走った。もう、後戻りはできない。私たちは、静かに共鳴し合っていた。
秀一の力強い腕が、私の身体を引き寄せる。夏希との激しい交わりとは対照的に、私とのそれは、息詰まるほど静かに始まった。言葉はない。ただ、互いの呼吸と、肌の熱だけが、この行為が現実であることを告げていた。
これは、涼介君と迎えるはずだった、私の「初めて」。その神聖な儀式は今、親友がすぐ側で涙を流すこの部屋で、おぞましくも官能的な、背徳の儀式として執り行われていく。痛みよりも、内に秘めていた欲望が解放されていく、未知の快感が勝っていた。物静かで、控えめな私。その仮面の下に隠されていた私自身の本当の姿が、秀一の熱によって暴かれていく。私は、心のどこかで、ずっとこうした剥き出しの情熱を求めていたのかもしれない。
行為を終えた後、部屋には完全な沈黙が訪れていた。雨音だけが、遠くで響いている。
畳の上には、壊れてしまった夏希と、共犯者になることを選んだ私、そして、私たち二人を支配した秀一がいた。もう、ただの幼馴染ではいられない。この一夜の過ちは、私たち三人を固く、そして歪に結びつけてしまったのだ。
私は、隣に横たわる秀一の横顔を静かに見つめた。もう、彼に対して恐怖は感じなかった。ただ、この抗いがたい存在に、自分は逆らえないのだという、冷徹なまでの自覚があるだけだった。この罪深い夜が、決して元には戻れない道への、忌まわしい入り口であることを、私は静かに予感していた。
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#### 第8話「夜明けの告白」
障子の向こうが、白み始めている。長く、獣のようだった夜が終わりを告げ、静かな朝が訪れようとしていた。僕の腕の中と、そのすぐ側では、二人の幼馴染が疲れ果てたように寝息を立てている。乱れた浴衣、シーツに残る昨夜の痕跡、そして部屋に満ちる生々しい匂いが、僕が犯した罪の重さを物語っていた。
やがて、夏希が小さく身じろぎし、ゆっくりと瞼を開いた。その瞳が僕を捉えた瞬間、彼女の身体が恐怖に強張る。それに続くように、静香も目を覚ました。部屋には、息が詰まるほどの気まずい沈黙が流れる。
僕は、弾かれたように布団から抜け出すと、彼女たちの前に正座した。そして、畳に額をこすりつけるように、力いっぱい頭を下げる。
「ごめん……本当に、ごめん……! 調子に、乗りすぎた……っ」
喉から絞り出した声は、無様に震えていた。謝って済む問題ではない。分かっている。けれど、僕にはこうすることしかできなかった。
長い沈黙の後、僕はゆっくりと顔を上げた。僕の頬を伝う涙を見て、二人が息を呑むのが分かった。もう、取り繕うことなんてできない。僕は、心の奥底にしまい込んでいた、醜くて、どうしようもない本心を、すべて打ち明けることにした。
「……ずっと、好きだったんだ」
ぽつりと漏れた言葉は、自分でも驚くほど素直な響きをしていた。
「小学生の時から……太陽みたいに明るくて、いつも輪の中心にいた夏希と、月みたいに静かで、でも、いつも俺のことを見ててくれた静香が……二人とも、ずっと、特別だった。なのに、お前たちは、大輝と涼介の隣で笑うんだ。それが、苦しくて、羨ましくて……俺は、どうにかなりそうだった」
言葉は、次から次へと溢れ出した。それは、僕がこれまで押し殺してきた、十数年分の愛情と劣等感の叫びだった。
「昨日のことは、本当に最低だった。許されないって分かってる。でも、あれは……俺の、歪んだけど……本当の気持ちだったんだ」
僕のあまりに純粋で、しかし身勝手極まりない告白に、夏希と静香は言葉を失っていた。憎むべき相手のはずの僕が、ずっと自分たちに焦がれていたと知って、彼女たちの心は激しく揺れ動いている。
最初に口を開いたのは、夏希だった。その声は、怒りよりも戸惑いの色を濃く含んでいた。
「……最低だよ、秀一。大輝との、大事な、初めてだったのに……」
そう言って僕を睨みつける彼女の瞳から、再び涙がこぼれ落ちる。だが、その言葉は続いた。
「……でも、悔しいけど……あんなの、知らなかった。身体の奥が、熱くなって、どうにかなっちゃいそうで……。大輝とは、きっとこうなれないって、分かっちゃった……」
それは、紛れもなく彼女の正直な感想だった。続いて、静香が静かに口を開く。
「私も……怖かった。けど、秀一君の指が触れた時、身体が震えたの。涼介君に抱かれることを、ずっと夢見てたはずなのに……秀一君の、全部を支配するような激しさに、私……逆らえなかった。ううん、逆らいたくなかった……」
二人の告白は、僕の罪を許すものではない。だが、僕が与えたのがただの苦痛だけではなかったという事実が、この場の空気を奇妙に変えた。
僕の長年の想いと、彼女たちが初めて知った快楽。それが、この罪深い一夜を、単なる暴行ではなく、歪んだ愛情の交歓だったのかもしれないと、三人に錯覚させるには十分だった。
夏希は、そっと僕の涙を自分の指で拭うと、困ったように微笑んだ。それは、許しと、諦めと、そして共犯者になることを受け入れた笑顔だった。
「……もう、しないでね。……今日だけ、だからね」
その曖昧で危険な約束だけが、夜が明けたばかりの静かな部屋に、重く、そして甘く響いていた。
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#### 第9話「秘密の果実」
あの嵐の夜から、季節はゆっくりと移ろいでいた。僕たちの関係も、夏休みが終わる頃には、奇妙な安定を見せ始めていた。表向きは、元の幼馴染グループに戻ったように見えた。大輝と涼介は、旅行中の諍いを水に流し、それぞれ夏希と静香との関係を修復していた。だが、水面下では、僕たち三人だけの、熱く、そして罪深い関係が続いていた。
ある週末の夜、大輝は夏希を、涼介は静香を、それぞれ高級なレストランでのディナーに誘った。あの旅行で果たせなかった「特別な夜」を、改めて設けようという魂胆は明らかだった。そして、その夜、二人はそれぞれ、恋人たちの前で重大な嘘をついた。
「ごめん、大輝……。実は、私、初めてじゃないんだ。高校の時の、彼氏が……」
「涼介君……。黙ってて、ごめんなさい。私も、もう経験、してるから……」
その嘘を聞かされた大輝と涼介の反応は、対照的でありながら、どこか似ていた。一瞬、驚きと失望に顔を歪ませ、けれど、すぐにそれを取り繕うように「なんだ、そうだったのか」と笑ってみせたという。彼らのプライドが、それ以上の追及を許さなかったのだ。
後日、その話を僕に打ち明けた二人の表情は、罪悪感と、そしてどこか誇らしげな、奇妙な色を浮かべていた。秀一との秘密を守るために、私たちは過去さえも作り変えたのだと。その嘘は、僕たち三人の共犯関係を、もはや誰にも壊せないほど強固なものにした。
だが、そんな歪んだ関係が、いつまでも続くはずがなかった。大学のキャンパスで、大輝や涼介と仲睦まじく歩く夏希や静香の姿を見るたびに、僕の心は鈍く痛んだ。そして、彼女たちもまた、一人でいる僕を見るたびに、罪悪感に苛まれているようだった。
「ねえ、秀一。今度、みんなで飲み会しない?」
ある日、夏希がそう切り出した。そして、その飲み会に、僕たちが誰も知らなかった、一人の女の子が混じっていた。
「こちらは、渡辺葵ちゃん。私と静香の、同じゼミの子なんだ」
渡辺葵は、静香と同じような、物静かで清楚な雰囲気を持つ子だった。彼女たちは、明らかに僕と葵を二人きりにさせようと、不自然なくらいに席を外したり、話を振ったりした。この歪んだ関係を清算するために、僕に「普通の幸せ」を与えようとしているのだ。その魂胆に気づきながらも、僕は葵の真面目で、純粋な優しさに、少しずつ惹かれていく自分を止めることができなかった。
僕と葵が連絡先を交換し、何度か二人で会うようになった頃、運命の歯車は、決定的な音を立てて回り始めた。
一本の電話が、夏希からかかってきた。声が、震えている。
「……できた、みたい」
そして数日後、静香からも。
「……どうしよう、秀一君。私、妊娠、しちゃった……」
僕の頭の中は、真っ白になった。時期を考えれば、父親が大輝や涼介である可能性は万に一つもない。二人の子どもの父親は、紛れもなく、この僕だった。
やがて、夏希は大輝に、静香は涼介に、それぞれ「子どもができた」と告げた。二人は、何も疑うことなく、その事実を諸手を挙げて喜んだという。
僕は、遠くからその様子を眺めることしかできなかった。僕こそが、二人の子どもの本当の父親だという、決して口にしてはならない秘密を抱えて。あの夜、彼女たちがついた「嘘」によって守られた、二つの新しい命。その秘密の果実の重さを、僕は一人、静かに噛み締めていた。
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#### 第10話「大きな家族」
あれから、七年の歳月が流れた。僕、佐藤秀一は、大学を卒業して地元の企業に就職し、あの頃の劣等感が嘘だったかのように、穏やかな日々を送っている。僕の隣で微笑むのは、妻となった葵(旧姓:渡辺)だ。僕たちの間には、長男の陽太と長女の結衣という、二人の可愛い子どもたちがいる。
夏の終わりの週末、僕たちは三家族合同でキャンプに来ていた。川のせせらぎと、木々の葉が風に揺れる音、そして子どもたちのはしゃぐ声が耳に心地よい。
「秀一、ぼーっとしてないで、肉焼くの手伝えよ!」
そう言って僕の背中を叩くのは、逞しい父親になった大輝だ。彼の妻となった夏希の隣では、長男の陸斗と長女の莉子が元気に駆け回っている。少し離れた木陰では、相変わらずクールな涼介が静かに本を読み、その傍らには、妻となった静香と、長男の蒼介、長女の詩織が寄り添っている。
三組の夫婦と、六人の子どもたち。総勢十二人の、大きな家族。傍から見れば、それは幼馴染たちが築き上げた、幸せそのものの光景に映るだろう。
「パパー、お魚とれたよ!」
川で遊んでいた息子の陽太が、小さな魚の入ったバケツを手に、僕のもとへ駆け寄ってくる。僕は「すごいじゃないか」と、息子の頭を優しく撫でた。
その時、すぐ側で遊んでいた大輝の息子、陸斗が石につまずいて転び、膝を擦りむいてしまった。わっと泣き出した陸斗は、なぜか父親である大輝を通り過ぎ、僕の足元にしがみついてきた。
「ようたパパ、いたいよぉ」
僕は、慣れた手つきで陸斗を抱き上げ、葵が差し出した絆創膏を貼ってやる。「男だろ、泣くなよ」と笑う大輝は、自分の息子が僕に妙に懐いていることを、少しも不思議に思ってはいない。
木陰から、静香の娘である詩織の視線を感じた。あの子は、物事をじっと観察する、僕とよく似た癖を持っている。僕と目が合うと、はにかむように母親の影に隠れた。
夕食の準備の途中、僕と夏希、そして静香は、三人で川辺に薪を拾いに行くという口実で、皆の輪からそっと離れた。二人きりならまだしも、三人で抜け出す僕たちを、誰も怪しむことはいない。
川のせせらぎだけが聞こえる場所まで来ると、夏希が僕の腕にそっと自分の腕を絡ませてきた。
「陸斗ったら、最近ますますあなたに似てきたわ。やんちゃなところも、意地っ張りなところも」
「詩織も、ですよ。本を読んでいる時の横顔が、秀一君にそっくりで、時々どきりとします」
静香が、悪戯っぽく微笑む。僕たちの歪んだ関係は、あの一夜限りでは終わらなかった。終わらせることが、できなかったのだ。
僕たちは、薪を拾い終えると、何事もなかったかのように皆の元へ戻った。夜の帳が下り、キャンプファイヤーの暖かな光が、僕たちの「大きな家族」を照らし出す。
大輝と涼介は、ビールを片手に、昔話に花を咲かせている。自分たちが育てている四人の子どもたちの、本当の父親が誰なのかも知らずに。彼らは、僕が与えた「秘密の果実」を、自分たちの手で慈しみ、愛している。
僕は、妻の葵の肩を抱き寄せながら、燃え盛る炎の向こうにいる夏希と静香に、そっと視線を送った。二人は、僕だけが分かる、微かな笑みを返してくる。
あの夏、僕たちの純粋な関係は終わった。そして、一つの巨大な嘘の上に成り立つ、歪で、しかし、誰にも壊すことのできない、僕たちだけの家族が始まったのだ。その残酷な真実を、彼らが知る日は、永遠に来ない。
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#### 外伝:夏希にとっての秀一との思い出
私の人生は、一つの大きな嘘でできている。
リビングの窓から、庭で遊ぶ夫と子どもたちの姿を眺めながら、ふとそんなことを思う。夫である大輝は、昔と変わらない快活な笑顔で、息子の陸斗とキャッチボールをしていた。その側では、娘の莉子が、私の自慢の小さな花壇に水をやっている。完璧な、幸せな、理想の家族。誰もが羨むような、私の日常。
でも、みんな知らない。この幸せが、たった一つの秘密の上に成り立つ、脆い砂上の楼閣だということを。そして、私の心が、本当は誰を想っているのかを。
秀一との思い出は、いつも「ぼーやん」という、少し間の抜けた愛称と共にある。泣き虫で、気弱で、いつも私たちの後ろをついてくるだけのかわいい男の子。それが、私の知っている佐藤秀一だった。小学生の時、転んで膝を擦りむいた秀一の手当てをしてあげたのは、いつも私だった。「なつきちゃん、ありがとう」と涙目で笑う彼を見て、この子は私が守ってあげなきゃ、なんて、お姉さんぶっていたのを覚えている。大輝や涼介とは違う、放っておけない母性本能のようなものが、彼に対してはいつも働いていた。
そんな彼が、ただの「ぼーやん」ではないのかもしれない、と初めて思ったのは、大学に入ってすぐの頃だった。サークルの新歓コンパで、一人馴染めずにいた女の子に、彼がそっとお冷やのグラスを渡しているのを見かけたのだ。誰にも気づかれないような、ささやかな優しさ。でも、その時の彼の横顔は、私が知っている気弱なそれとは違って、どこか芯の通った、大人の男の顔をしていた。ドキリ、と心臓が鳴った。だから、あの夏の旅行に、私は彼を誘ったのだ。ただの同情からじゃなかった。彼の、まだ誰も知らない一面を、私だけは見てみたい。そんな、独占欲にも似た気持ちがあったことを、今なら正直に認められる。
そして、あの旅館の夜。私の知っていた「ぼーやん」は、完全に死んだ。
大輝との初めての夜になるはずだった、私の淡い夢。それを打ち砕いたのは、獣のような瞳をした、知らない男だった。恐怖と、屈辱と、絶望。なのに、彼の力強い腕に抱きしめられ、その貪るような唇に塞がれた時、私の身体は、心とは裏腹に熱く疼いた。大輝がくれるはずだった優しい愛撫とは違う、すべてを支配するような激しい快感。私は、あの夜、初めて「女」になった。秀一の手によって、無理やりに、けれど、どうしようもなく鮮烈に。
翌朝の、彼の涙ながらの告白。歪んでいたけれど、それは紛れもなく、十数年分の純粋な愛情だった。最低なことをされたはずなのに、私は彼を許していた。ううん、違う。私は、あの瞬間に、完全に彼に堕ちていたのだ。
庭で、陸斗が投げたボールが、あらぬ方向へ飛んでいく。それを見ていた秀一の息子さん、陽太君が、慣れた様子でボールを拾って、陸斗に優しく投げ返してあげていた。その光景に、自然と笑みがこぼれる。
私の人生は、嘘でできている。でも、後悔なんてしていない。だって、私はすべてを手に入れたのだから。世間が認める「幸せな家庭」と、愛する夫。そして、私のすべてを奪い、私を本当の女にしてくれた、たった一人の男。
窓越しに、キャンプの準備をしている秀一と目が合った。彼は、誰にも気づかれないように、ほんの少しだけ、私に微笑みかける。
――私の愛しい、共犯者。
私も、夫と子どもたちには見えない角度で、そっと微笑み返した。この秘密は、私たちの、永遠の宝物だ。
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#### 外伝:静香にとっての秀一との思い出
私の夫、高橋涼介は、とても穏やかで、知的な人です。休日のリビングで、息子に本を読み聞かせている彼の優しい声は、私の心を安らぎで満たしてくれます。私たちは、きっと周りから見れば、理想の夫婦なのでしょう。何一つ不自由のない、静かで満ち足りた毎日。
けれど、私の心の奥底には、夫さえも知らない、私だけの秘密の庭があります。そこには、穏やかな陽光ではなく、嵐のような情熱の花が、今も狂おしいほどに咲き誇っているのです。
幼い頃の私にとって、秀一君は、言葉を交わさなくても隣にいられる、唯一の男の子でした。いつも元気な夏希と大輝君が太陽の下で駆け回っている時、私と秀一君は、決まって木陰で本を読んだり、ただ黙って空を眺めたりしていました。彼の隣は、不思議と居心地が良かった。彼の沈黙は、空っぽなものではなく、たくさんの言葉や感情で満たされていることを、私は子供ながらに感じ取っていました。彼は、私と同じ種類の人間なのだと、ずっと思っていました。
その静かな湖のような彼の中に、激しいマグマが煮えたぎっていることに気づいたのは、いつのことだったでしょうか。大学の講義で、理不尽な教授の意見に、クラスの誰もが黙って従う中、彼だけが、静かに、しかし、決して揺るがない瞳で反論の言葉を述べたことがありました。その姿に、私は釘付けになりました。彼のか細い身体の奥に、誰よりも強い情熱が燃えている。その炎に、私は少しだけ、触れてみたいと思ってしまったのです。
そして、あの運命の夜。私は、見てしまいました。親友の夏希を組み敷く、獣と化した彼の姿を。
恐怖よりも先に私を襲ったのは、激しい羨望でした。夏希の、苦痛と快感に歪む、見たこともない表情。それは、涼介君との穏やかな関係の中では、決して見ることのできない、生の情動でした。ああ、羨ましい。私も、あんな風に、誰かに心をかき乱され、すべてをめちゃくちゃにされてみたい。
だから、彼が私に視線を向けた時、私は逃げませんでした。むしろ、この時を待っていた、とさえ思ったのです。彼に抱かれた時、私は痛みと同時に、パズルの最後のピースがはまった時のような、完全な充足感を覚えていました。涼介君の前で演じ続けてきた「物静かで良い子」の仮面が、彼の熱で溶かされていく。ああ、これこそが、本当の私なのだ、と。
私の子供たち、蒼介と詩織には、秀一君の面影が色濃く宿っています。特に、考え事をする時の詩織の真剣な眼差しは、彼そのものです。夫の涼介は、娘のその知的な雰囲気を、自分に似たのだと喜んでいますが。
時折、三家族で集まった時に、ふと秀一君と視線が絡み合うことがあります。言葉は交わしません。ただ、互いの瞳の奥に、あの夜と同じ、共犯者だけの静かな炎が揺らめくのを確認するのです。
私の人生は、完璧な虚構です。でも、私はこの上なく満たされています。穏やかな日常を与えてくれる夫と、そして、私の心の奥にある秘密の庭に、今も激しい嵐を呼び起こしてくれる、たった一人の男。
私にとって、佐藤秀一は、私の本当の姿を暴き、そして、静かに愛し続けてくれる、唯一の存在なのです。
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#### 外伝:葵にとっての秀一との思い出
私の夫、佐藤秀一は、とても優しくて、誠実な人です。リビングのソファで、娘の結衣を膝に乗せて絵本を読んでいる彼の横顔を見つめながら、私は静かな幸福を噛み締めています。彼と私を引き合わせてくれた二人の親友、夏希と静香には、どれだけ感謝してもしきれません。
――ええ、本当に。感謝、しているのです。
ただ、私の心には、一本だけ、どうしても抜けない棘が刺さっています。結婚して何年経っても、時折ずきりと痛む、小さな棘。それは、夫の愛情を疑っているからではありません。彼が一番愛しているのは、他の誰でもなく、この私だと、確信を持って言えますから。
問題は、彼が今でも、夏希と静香との交際を続けていること。そして、彼女たちが産んだ四人の子どもたちが、すべて秀一の子どもだという事実です。そのことは、ずっと前に二人から直接聞きました。彼女たちは、親友である私にだけは、嘘をつけなかったのです。
だからこそ、悔しい。どうしようもなく。もっと早く、私が秀一君と出会っていれば。あの夏の旅行の前に、ううん、もっとずっと前に出会ってさえいれば。彼のすべてを、私が独り占めできたのに。そんな、叶わぬ夢想が、今でも時々、胸を締め付けるのです。
それでも、私は夫を愛しています。なぜなら、彼は私に、たった一つの、そして何よりも尊いものをくれたから。それは「真実」です。
あれは、彼が私にプロポーズをしてくれる、少し前のことでした。いつになく真剣な顔で、彼は私にすべてを告白してくれたのです。あの夏の旅行で何があったのか。夏希と静香の「初めて」を奪ったこと。そして、彼女たちのお腹にいる子どもの、本当の父親は自分なのだと。
聞いている間、心臓が張り裂けそうでした。目の前が真っ暗になるほどの衝撃と、裏切られたという悲しみ。彼のもとを去るという選択肢が、頭をよぎらなかったと言えば、嘘になります。
けれど、彼は、泣きながらすべてを打ち明けた後、震える声でこう言ったのです。
「最低な俺だけど、これだけは信じてほしい。俺が、心の底から愛しているのは、生涯を共にしたいと願うのは、葵、君だけなんだ。君が、俺の一番なんだ」と。
その言葉を聞いた時、私の中で何かが決まりました。この人は、私を、嘘で塗り固めた偽りの幸福の中に閉じ込めるのではなく、すべての罪を正直に告白し、その上で私を選んでくれた。その誠実さこそが、私が彼を愛した理由でした。
その夜、私は、初めて彼に身体を捧げました。それは、単なる情交ではありません。彼の罪も、彼の弱さも、そして、彼の私への愛も、そのすべてを、私が受け入れるという、決意の儀式でした。彼の腕の中で感じた温もりと、彼が何度も囁いてくれた「愛している」という言葉。あの日々を、私は今でも、宝物のように時々思い出します。
私の人生は、私が夢見ていたものとは、少しだけ違う形になりました。でも、棘の痛みさえも、彼への愛おしさに変えてくれる、あの宝物のような思い出がある限り、私はきっと大丈夫。
だって、私は世界で一番、彼に愛されている女なのだから。
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#### 外伝:大輝にとっての「最高のダチ」
キャンプファイヤーの火が、ぱちぱちと音を立てて爆ぜる。俺はビールを片手に、目の前の光景に満足のため息をついた。妻の夏希が、楽しそうに他の嫁さん連中と笑い合っている。俺の自慢の息子、陸斗は、なぜか昔から秀一の息子と妙にウマが合うらしく、二人で虫かごを覗き込んで大騒ぎだ。
最高の週末。最高の家族。そして、最高のダチ。これ以上の幸せが、他にあるだろうか。
ふと、薪をくべている秀一の背中が目に入った。昔に比べたら、ずいぶん逞しくなったものだ。俺の記憶の中の秀一は、いつだって俺と涼介の後ろを、おどおどとついてくる気弱な「ぼーやん」だった。正直、ガキの頃はうっとうしいとさえ思っていた。なんで夏希や静香が、あんな奴の面倒を見るのか、さっぱり理解できなかった。
特に、あの夏の旅行の時は、本気で腹が立った。「カップル旅行に、なんでお前が来るんだよ」と。俺と夏希にとって、最高にロマンチックな思い出になるはずだったのに、あいつのせいで全部台無しだ。あの日、土砂降りの中で夏希たちを置いて帰ったことは、今でも少しだけ後悔している。まあ、俺も若かったってことだ。
結局、あの旅行の直後、夏希から「初めてじゃなかった」と告白された時は、頭を殴られたような衝撃だった。俺以外の男に、先に夏希を……。プライドはずたずただったし、一瞬、別れようかとさえ思った。でも、結局は、それ以上に夏希を愛してたんだよな。「過去は過去だ」なんてカッコつけて、俺は夏希を受け入れた。今となっては、笑い話だ。
そんな俺たちの間に、息子の陸斗が生まれた。俺に似てやんちゃで、夏希に似て笑顔が可愛い、自慢の息子だ。不思議なことに、陸斗は赤ん坊の頃から、なぜか秀一にだけはすぐに泣き止んで、よく懐いた。秀一の奴も、自分の子どものように陸斗を可愛がってくれる。
「父親同士、何か通じるもんがあんのかもな」
涼介にそう言うと、「さあな」なんてクールに返されたけど、きっとそうなんだと思う。昔は頼りなかった秀一も、今では葵ちゃんっていう最高の嫁さんをもらって、立派な父親になった。あいつが、俺たちと同じ目線で、家族や子どもの話をしてくれるのが、俺はなんだか嬉しいんだ。
燃え盛る炎の向こうで、秀一が妻の葵ちゃんの肩をそっと抱き寄せた。それを見て、俺も隣に座る夏希の腰に腕を回す。夏希は、一瞬だけ秀一のほうに視線をやったように見えたが、すぐに俺に寄り添って微笑んでくれた。
あの夏、俺たちの間には確かに溝があった。でも、時が経って、こうして三家族で集まれるようになった。昔みたいに、いや、昔以上に強い絆で結ばれた「大きな家族」だ。
――なあ、秀一。お前もそう思うだろ?
俺は、最高のダチになった幼馴染に、心の中でそう問いかけた。もちろん、返事が聞こえるはずもない。ただ、キャンプファイヤーの暖かさだけが、この完璧な幸せを、静かに祝福してくれていた。
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#### 外伝:涼介にとっての「完璧な構図」
木陰に置いたキャンプチェアに深く身を沈め、俺は読んでいた文庫本を閉じた。聞こえてくるのは、川のせせらぎと、子どもたちの屈託のない笑い声。そして、妻たちが交わす、穏やかな会話。すべてが調和し、完璧に計算された一枚の絵画のようだ。俺はこの、静かで満ち足りた光景を、何よりも好ましく思っていた。
俺にとって、かつての佐藤秀一は、絵画の隅に描かれた、取るに足らない石ころでしかなかった。意識することさえ稀な、風景の一部。彼が何を考え、何を感じていようと、俺の世界には何の影響も及ぼさない存在。それが、俺の彼に対する認識だった。
だから、あの夏の旅行に彼が来ると聞いた時、俺が感じたのは怒りというより、むしろ不快感だった。完璧な構図に、意図しないインクの染みが一つ落ちたような。俺の計画を、俺の世界の調和を乱すノイズ。排除すべき対象でこそあれ、感情を向ける価値すらなかった。
旅行の後、静香から「経験がある」と打ち明けられた時も、俺の心は驚くほど冷静だった。もちろん、多少の動揺はあった。だが、それ以上に、「彼女の過去ごと受け入れる自分」という、より完璧な構図を完成させるための、一つの要素として受け入れた。物静かで、一途に見える彼女が秘めていた過去。それはむしろ、彼女という存在に深みを与えるスパイスですらあると、当時の俺は結論付けたのだ。
だが、いつからだろうか。この完璧な絵画に、ごく僅かな違和感を覚えるようになったのは。
きっかけは、些細なことだ。三家族で集まった時、妻の静香が、ふとした瞬間に秀一に送る視線。夏希が、秀一と話す時にだけ見せる、一瞬の少女のような表情。そして、秀一が、彼女たちに向ける、すべてを理解し、支配しているかのような、静かな眼差し。
それは、ただの幼馴染が交わす類のものではない。もっと深く、濃く、そして、俺たちが決して立ち入れない領域で結ばれた、共犯者たちの合図。考えすぎだ、と何度も頭を振る。だが、一度生まれた疑念の種は、俺の心の中で静かに根を張り始めていた。
俺の娘、詩織は、俺に似ず、物事をじっと観察する癖がある。その真剣な横顔が、時折、今の秀一のそれと不気味なほど重なって見えることがある。まさか、な。そんな馬鹿げた偶然があるはずがない。
川辺で、秀一と夏希と静香、三人が話している。遠目には、薪を拾っているだけだ。だが、俺の目には、それがまるで、神聖な儀式を執り行っているかのように見えた。俺と大輝には決して見せない、三人だけの世界。
俺は、そっと目を閉じた。
真実が何であるか、俺はまだ知らない。だが、もし、この完璧な絵画の下に、俺の知らない別の絵が隠されているのだとしたら。それを暴くことは、このすべてを破壊することに等しい。
だとしたら、俺の取るべき行動は一つだけだ。
――俺は、何も知らない。何も、気づいていない。
俺は、この完璧な虚構を、夫として、父親として、守り抜く義務がある。たとえ、その絵画が、誰かの残酷な嘘によって描かれたものだったとしても。俺は、静かに、賢明な傍観者であり続けよう。そう、心に決めた。
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あの日、僕らの夏は終わった 舞夢宜人 @MyTime1969
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