終わらない恋の先

穂摘すずめ

終わらない恋の先

 本当は言うつもりなんてなかった。頭の中で言い訳を繰り返しても、一度言葉にしてしまった気持ちを取り消すことはできない。この子を困らせることだけはしたくなかった。それなのに、何故。これがお酒の力だとするなら、もう二度とお酒なんて飲まない。

 目の前にいる友人――私の拗らせすぎた片思いの相手は、困ったように笑って、「ごめんなさい」と言った。


 無機質なアラームの音で目を覚ます。昨日のことはどうやら夢ではないらしい。最悪だ。

 気怠い身体をベッドから無理やり起き上がらせて、脱衣所で香水やら焼肉やらのにおいのする服を脱ぎ捨てる。もう十月だ。足の裏からじわじわ広がる冷たさから逃げるように、浴室に入りシャワーの蛇口をひねった。

 昨夜は、高校時代の友人たちとの久しぶりの集まりだった。高校を卒業して五年、県外に就職していた香織が帰省するという話を聞いて、久しぶりに。と、集まったのだ。

 都合がついたのは私を入れて五人。香織、麻実、侑子、それから波瑠。波瑠は、私の初恋の相手であり、八年間の片思いの相手である。高校を卒業したら諦めきれると思っていた。大学生になって、毎日顔を合わせることがなくなれば感情に変化があると。結果として、大学を卒業して社会人になった現在も、波瑠が好きだ。一緒にいた時間よりも離れていた時間の方が長くなったというのに、どうしてこんなに好きなのか。と、自分でも不思議に思うくらいに、好きだという気持ちがある。

 それでも、伝えるつもりはなかったのだ。この気持ちは私の中だけで完結させるつもりだった。それなのに。

 ……やめよう。現実は変わらない。習慣というものは素晴らしい。考え事をしていても、両の手は髪を洗い身体を洗い、すっかり昨日のにおいを洗い流していた。

 適当にタオルで髪を乾かしながらベッドに戻ると、携帯端末にメッセージアプリの通知が来ていた。「たのしかったね」「また集まろう」「次はスイーツがいいな」と並ぶメッセージに目を通していく。送信者には波瑠の名前もあった。「四人と久しぶりに会えてうれしかった」私も同じ気持ちだ。でも、私の不用意な告白もどきのせいでせっかくの嬉しい気持ちに水を差してしまった。申し訳なさで胃が痛くなってくる。勝手に好きでいさせてもらえたらそれだけでよかったはずなのに、どうしてこの口は好きだと言ってしまったのだろう。「お肉おいしかったね! またみんなで会いたい」当たり障りのない言葉を選んで端末の画面を閉じた。と、同時に電話が鳴った。

「もしもし」

『もしもし、起きてた?』

「起きてた。なに、突然」

 電話の主は大学時代の友人、亜樹だった。亜樹とは同じ学部で学籍番号が前後ということもあって入学当初からの付き合いだ。

『突然も何も夜中にいきなり電話してきたくせに。昨日あんた泣きながら電話してきて寝落ちたんだからね』

「うそ、覚えてない」

 本当に、もう二度とお酒には手を出さない。いままでもお酒を飲む機会はあったのに、どうして昨夜に限って失敗続きなのだろうか。

『別にいいけどさ。話を聞く限り失恋したってことしかわからなかったんだけど何があったの?』

「いや、もうそれがすべてだよ。酔った勢いで告白してフラれた」

『そっか、まぁ、話なら聞くから』

「ありがとう」

 亜樹は、私が波瑠に長い片思いをしていることを知っている唯一の人である。はじめてお泊り会をした夜に、なんとなく話した私の面白くもない片思い話を、亜樹はそうなんだ。と、ただうなずいて聞いてくれた。

 それから何度も話を聞いてもらったりしていたが、まさか泣きながら電話をするなんて。

「本当に迷惑かけてごめん、お詫びに今度おごらせて」

『気にしなくていいのに。志穂は変に溜め込むからなぁ、今回のことも溜め込みすぎて爆発したんだよ』

 八年分でしょ。という言葉に今更ながら長いよなぁ。と、思った。二十四年間の人生の、ほぼ三分の一だ。はじめて恋をしてから、ずっと。

『それじゃ、また近いうちに』

「ありがとう」

 亜樹からの通話を切ってベッドに横になる。明後日は祝日だから今日から三連休だ。やりたいことは山ほどある。社会人になってからひしひしと、一日が二十四時間しかないことの残酷さを感じていた。


 脱ぎっぱなしのコートを拾い上げたところで、ピンポーン。と、間延びした音が来客を告げた。適当なハンガーにコートをかけて玄関に向かう。扉を開いた先にいたのは波瑠だった。

「こんにちは」

「こんにちは」

 少し緊張したように言う波瑠に、こちらも緊張してしまって声が上ずる。昨日会ったばかりなのに、懐かしさに似たせつない気持ちで胸がぎゅっと締め付けられた。何を思っても、私はこの子がどうしようもなく好きなのだと実感する。

「ごめんね急に」

「大丈夫、寝てただけだし」

「今日って、時間あるかな」

「うん。とりあえず、あがってく?」

 なんとなく外で話をするような雰囲気でもなくて、波瑠を部屋に招き入れる。よく晴れていたが外の空気は冷たく感じた。


「お邪魔します」

「ごめん、散らかってて」

 ベッドの下に投げ置かれたままのバッグを拾ったりテーブルの上に置いたままのメイク落としを片付けながらソファーの方へ案内する。

「いきなり来ちゃってごめんね」

 駅に着いたときに電話したんだけど、ちょうど話し中だったみたいで。と、いう波瑠の言葉に携帯端末を確認すると、確かに着信履歴があった。五分前にはメッセージも来ている。

「本当に寝てただけだし気にしないで、いろいろ気づかなくてごめん」

 いやいや私が。と、お互いごめんを何度か繰り返したところで、波瑠と目が合う。

「今日はね、話があってきたの」

 緊張しているのか波瑠はきゅっと下唇を噛んで、だけどまっすぐにこちらを見て言った。下唇を噛むのは高校時代にも何度も見たことがある緊張しているときの波瑠の癖だ。

「話って、昨日のこと?」

「うん」

「ごめん」

 反射的に謝罪の言葉を口にする。テーブルの下、膝の上の拳を強く握っていると、あたたかな波瑠の手が重ねられた。

「謝らないで、私、本当に嬉しかった」

「ありがとう、そう言ってもらえると救われる」

 重ねられた手を握ったりなんかてできるはずもなくて、だけど、その手のあたたかさと目の前にある波瑠の微笑んだ顔に、深く息を吐きだした。

「あのね、私も言いたいことがあるの」

 するりと波瑠の掌が離れて、その手は胸の前でぎゅっと握りしめられた。

「うん」

 何を言われても受け入れられる。もしも彼氏がいるとか好きな人がいるとかそういう話だったとしても、笑って受け入れられる覚悟を決めた。

 しかし、私の耳に届いた言葉は予想していたどの言葉とも違っていた。

「私、天使なんだ」

「天使」

「そう、天使」

 思わず聞こえた言葉を繰り返してしまう。向かいに座る波瑠は真剣そのものだ。嘘なんてつくはずがないし、こんなときに揶揄うような子でもない。

「それは、天使のようにかわいいとか、そういう話じゃなくて?」

 それなら十分理解できるのだけど。と、なんだか言っていて恥ずかしくなっている私をよそに、波瑠は勢いよく来ていた白のセーターを脱いだ。

「うん、見てて」

 そう言って波瑠が背中を向けると、一瞬チカッと何かが光って、目の前には一対の羽があった。

「羽だ」

「ちっちゃいから恥ずかしいんだけど」

 えへへ。と、波瑠が照れたように笑う。白い肌、なだらかな肩甲骨のつづきは触り心地のよさそうな真白の羽。

「きれいだ、すごく」

 素直な感想を口にすれば、波瑠はもごもごと唇を動かした。これは波瑠が照れているときにする癖だ。

「照れちゃうな」

「いつも天使みたいだなって思ってたけど、本当に天使だったなんて」

 天使のような波瑠が天使じゃないわけがないな。と、納得する自分がいる中で、好奇心が顔を出す。

「触ってもいい?」

「ちょっとだけ、くすぐったいから」

「失礼します」

 向かいの席から隣の席に移動して、そっと羽に触れる。

「高い羽毛布団だ」

「ふふふ」

「ありがとうございました」

 天使の羽を触る機会なんて人生でそうあることではない。貴重な体験をさせてもらった。自分でも驚くくらいに波瑠が天使であることにすんなり納得してしまっている。


 波瑠が身支度を整えている間にキッチンで飲み物を用意する。突然の来訪に動揺しすぎて飲み物すら出していなかったことにいまのいままで気が付かなかった。

 波瑠の好きなココアをマグカップに注いでリビングに戻る。向かいの席に座ると、居住まいをただした波瑠が口を開いた。

「少し長くなっちゃうんだけどいいかな」

「うん」

 今日の本題はどうやらここかららしい。ココアを一口飲んで、波瑠の言葉の続きを待った。

「私たち天使はね、人間の恋を叶えるためにこの世界に生まれてくるんだ」

 波瑠が話してくれたところによると、天使は人間の子供として生まれることで天界から人間界にやってくる。そして、人間と人間の恋の仲介人としての役割を果たして天寿を全うすることで天界に戻れるのだそうだ。

「そうだったんだ……」

 なんというかざっくりしたシステムである。なるほど。と、うなずいていると、ここからが言いたかったことなんだけど。と、波瑠が話をつづけた。

「天使の仕事は恋のお手伝いだから、自分が恋されたり恋したらいけないんだ。そうするとね、」

 消えちゃうの。と、確かに波瑠は言った。

「まって、つまり、波瑠は」

「さよならだね」

 消えてしまう。と、さよなら。と、信じたくないことがいま目の前にある。

「それって私のせいだよね、私が波瑠を好きになったから、好きって言っちゃったから」

 目の前が真っ暗になっていくとはこういうことを言うのだろう。呼吸の仕方すらわからなくなりそうだ。

「志穂ちゃんのせいじゃないよ」

 ほんの少し声を荒げて波瑠が私の言葉を否定する。だけど、勝手に好きでいた間に波瑠に何もなかったということは、言葉にしてしまったことで何かが変わってしまったということだ。私が好きだと言ったことで、波瑠は。

「私も志穂ちゃんのこと大好き。これはきっと恋とは違うかもしれないけど、私のことを好きって言ってくれた志穂ちゃんと、最後まで一緒にいられたらいいなって思う」

 テーブルを挟んだ向かい側、波瑠がこちらに身を寄せて微笑んだ。

「今日はそれを言いに来たんだ」

 いま、私の目の前には八年間好きだった相手がいる。そしてその相手は、この恋心のせいで消えてしまうのだという。そして、その最後に私の隣を選んでくれた。

なんてかなしいしあわせなんだろう。ぽたり。と、頬を伝い落ちて言った涙は、嬉し涙のはずだ。


 それからぽろぽろ泣き続けた私が落ち着くまで波瑠は隣にいてくれた。

 消えてしまうというのも、いますぐにというわけでもなく少し猶予はあるのだという。波瑠にしか見えないようだがカウントダウンの時刻表示が波瑠の頭上にあるらしい。今朝目が覚めて消えていないことを不思議に思い、鏡を見て気が付いたのだという。猶予は二日程。今日は実家の片づけ等予定を片付けて残りの時間を私のそばで。と、言ってくれる波瑠に、私は勇気を出して言った。

「明日、デートしませんか」

「うん、もちろん。喜んで」

 みっともなく声は震えていたけれど、はにかむ波瑠の表情に私はまた恋をしていた。


 午前九時三十分。逸る気持ちを抑えきれずに待ち合わせより早く駅に着いてしまった。目印は駅を出てすぐの大銀杏だ。黄色く色づいた揺れる葉をぼんやり見つめながら、高校時代もこんな風に皆で待ち合わせをしたものだと思いをはせる。

 もしも、どこかのタイミングで、例えば文化祭の帰り道だとか、クラス替えをした日の次の日だとか、あの頃「好きです」と言いかけたときにそのまま言葉にしていたなら、今日はやってこなかったのだと思うとぞっとする。そして、明日が最後だということにも。

 いやだ。会いたいのに、会いたくない。吸い込んだ空気はとても冷たくて、心臓をそのまま凍らせてくれたらいいのにと思った。それでも、足音に顔を上げれば待ち望んだ姿がそこにあって、泣きたいくらいの愛おしさで胸がいっぱいになる。

「志穂ちゃん!」

「走らなくていいのに」

 はぁ、と小走りでやってきた波瑠が息を吐く。

「待たせてごめんね」

「いや、いま来たところだし」

「ほんとに?」

「……三十分くらいかな」

 じっと見つめられると本当のことしか言えなくなるのは単に私が正直者なのか惚れた弱みか、あたたかい波瑠の右手が私の左手をぎゅっと優しく握る。

「暖かいところにいたらいいのに」

「だって」

 早く会いたかったから。と、繋いだ手を握り返せば、波瑠は少し照れたように笑った。繋いだ手を引いて歩きだす。

「い、行こっか。開館時間十時だよね」

「うん、いまちょうどだね。行ってみようか」

 ふたり揃って躓きながら、駅から歩いて十分程の水族館に向かう。ずっと気になっていたけれど来る機会のなかった場所だ。波瑠は水族館自体がはじめてだと言っていた。なんとなく、はじめてを共有できるのがうれしい。


 十月だからだろうかハロウィーン仕様に装飾されたエントランスを抜けて、順路の通りに進んでいく。最初の展示では、並んだ小さな水槽それぞれに色とりどりの魚たちが泳ぎライトアップされていた。揺れる光と、魚たち。きらきらと色鮮やかな世界で、ふと左手の中にある波瑠の手のあたたかさを感じる。この夢のような空間で、世界で一番好きな人が隣にいる。それはとても幸せなことだった。

「ちいさくてかわいいね」

「うん、かわいい」

「あの黄色いの志穂ちゃんに似てるよ」

「そうかな?じゃあ、あの赤いのは波瑠」

 右に左に水槽の中を覗き込みながら進んでいく。次の展示はカフェも併設しているようで全体の空間が広く、大きな水槽の中には先ほどよりも大きな魚も混じって泳いでいた。

「食べちゃったりしないのかな」

 大きな魚の周りを泳ぐ小さな魚を指さして波瑠が言う。

「お腹が減ってれば食べちゃうかも……」

「えっ」

「ごめん、適当にしゃべった」

 志穂ちゃんひどい。と言いながらも波瑠は楽しそうに笑っている。

順路の通りに進み、イルカのショーやアシカのお散歩を見て、一生分かと思うくらいの魚を見た。最後の展示は、くらげの水槽だった。

「わぁ、すごい」

「くらげがいっぱいいる……」

 くらげを見たのなんて、小学生の時に家族で海水浴に行った時以来かもしれない。海の中、ぷかぷかと浮かぶ半透明のものから刺されないようにそっと逃げた思い出がある。大きな水槽の中でゆったり動くくらげの姿はとても幻想的で、見つめていると時間が止まってしまったかのような気がした。

「きれいだね」

 隣で水槽を見つめる波瑠が、このきれいな空間でいちばんきれいだと思った。


 ほんの少し名残惜しい気持ちで出口から外に出た。太陽の光が眩しくて、魔法が解けたような気持ちになる。

「水族館ってこんなに楽しい場所だったんだね」

「楽しかったなら良かった」

「でもお腹すいちゃった」

 少し照れたように笑う波瑠がかわいい。水族館の感動が一瞬で隠れてしまうのだから、恋というのは恐ろしい。

「あそこでご飯食べていこうか」

 すぐ目の前にあるカフェを指させば、波瑠はぱっと表情を輝かせた。

 波瑠はハンバーグ、私はオムライスを注文して一息つく。向かいって座る際に離した手がなんだかさみしい。そんな私に気づいたのか、波瑠が優しい瞳で微笑んでいる。

「志穂ちゃんかわいいね」

「恥ずかしい」

 それから、運ばれてきた料理を食べながら私たちはたくさん話をした。高校時代の思い出、子供の頃の話、卒業してからの話、知っているようで知らなかったことがたくさんあって、時間はあっという間に過ぎていった。

 カフェを出て、そういえば水族館に行くこと以外何も決めていなかった。と、気づく。どうしようか。と、隣を見ると、少し得意そうな顔で波瑠が言う。

「ここまで来る途中に可愛い雑貨屋さん見つけたんだ」

「いいね、行きたい」

 行こう。と、どちらともなく繋いだ手に胸がまたぎゅっとしめつけられるような気持ちになる。うれしいのにせつなくて、しあわせなのにくるしい。

 波瑠に手を引かれて訪れた雑貨屋さんは、へんてこな置物や壁飾り、精巧な作りのアクセサリーやらなにやら色んなものが置かれていた。この髪飾りは波瑠に似合う。とか、この時計は私の部屋にちょうど良いだとか、他にお客さんがいないのをいいことに店内を端から端まで満喫してしまった。結局、私は腕時計を、波瑠はブローチを買って店を出た。


「すっかり陽が落ちるのが早くなったよね」

「この前まではまだ明るかったのに」

 駅に戻る頃にはすっかり陽は落ちていて、頬を撫でる風には冬のにおいも混じっているような気がした。

 改札を抜けて構内を進んでいく。普段は億劫に感じるホームまでの距離が、今日はやけに短いような気がした。乗る電車は反対方向だ。繋いだ手ももう離さなければならない。

 繋いだ手を放そうとしたのに、左手に力を込めてしまう。

 隣に立つ波瑠と目が合う。波瑠は瞬きを一つして、柔く微笑んだ。

「ごめん、帰したくない」

 口から零れ落ちた言葉は紛れもない本心だ。明日が最後なのだ、一分一秒だって離れていたくない。

「うん、帰さないで」

 うなずいた波瑠が繋いだ手からも答えるようにぎゅっと強く力をこめた。

 抱きしめてしまいたい。


 電車に乗って最寄駅から十五分。お互い無言のまま家までの道を歩く。早く着いてほしいような、着いてほしくないような、どっちつかずの気持ちで歩を進めた。

 鍵を開けるために繋いだ手を離す。掌に感じた冷たい空気を嫌だと思った。ガチャ。と、音を立てて扉が開く。部屋の中に入った瞬間、背中からぎゅっと抱きしめられた。

「はる」

「寒くなっちゃったから、ちょっとだけ」

 とくとく。と、心臓が鳴る音が背中越しに聞こえる。確かにここに波瑠はいる。そっと、まわされた腕に手を重ねる。

「中入ろうか」

「うん」

 夕飯をつくっている間も離れがたいような気持ちがして、夕飯は買い置きのカップラーメンをソファーに並んで食べた。テレビを見ているよりもふたりで話していたくて、順番にシャワーを浴びて寝る準備を整える。波瑠には客用布団を敷いて、電気を消した。


「ねぇ、そっちにいってもいいかな」

「せまいよ?」

「よいしょ、お邪魔します」

 ふわりと香るシャンプーのにおい。我が家にあるものを使ったのだから同じにおいのはずなのに、波瑠の髪からはもっとやさしいにおいがした。

「天使のにおい?」

「もう寝ぼけてるの?」

 しあわせボケしてる。と、正直に言えば、くすぐったそうに波瑠は笑う。

「明日の朝ごはんどうしようか」

「冷蔵庫の中何があるの?」

「卵とベーコン、牛乳は賞味期限明日だった気がする。あと冷凍庫に肉」

「ご飯炊く? パンあったっけ?」

「食パンがあるはず……あ、スライスチーズもある」

「じゃあパンにのせてオーブンにいれちゃお、肉はカレーとか、また次に」

「そうだね、次……」

 そういえば、おやすみ。を言っていなかったな。と思いながら重たい瞼を閉じる。布団の中で繋いだ手はあたたかかった。


 目を覚ますと、目の前に波瑠がいた。昨日一緒に寝たことを思い出して、急に恥ずかしいような込み上げてくる感情から逃げるように掛布団の中に潜り込む。落ち着かなくて身じろぎを繰り返していたせいか、気が付くと波瑠が眠たげに瞬きを繰り返していた。

「おはよう」

「おはよう、なんだか照れちゃうね」

 ふふ。と、はにかむ笑顔に心臓がぎゅっと音を立てたのを感じる。

「……なんか、泣きそう」

 再び掛布団を頭から被ると、その上から抱きしめられたような気がした。

 なんとなくそのままベッドでごろごろするのも時間が惜しくて揃って起き上がる。顔を洗って歯を磨いて同じ朝食を食べるのは、くすぐったくてしあわせだった。


 昨夜のようにソファーに並びながらぽつりぽつりと話をしていると、波瑠が私の名前を呼んだ。

「ねぇ、志穂ちゃん」

「なに?」

「すきだよ」

 一瞬、世界からすべての音が消えたような気がした。それから、隣にいるはずの波瑠の顔がぼやけて見えなくなって、頬を伝うものの熱さに、泣いているのだと気が付いた。

 息がうまく吸えなくて、しゃくりあげる自分の声を聞いた。

 左手にそっと波瑠の右手が重ねられる。そうだ、昨日もこんな風に、この手のぬくもりを感じていた。

 もうだめだ。抑えていた感情がすべて涙と一緒に溢れてくる。波瑠が好きだ。この世界でいちばん好きだ。離れたくない。ずっとそばにいたい。もう一生会えないなんて絶対に嫌だ。こんなに好きなのに、好きで好きでどうしようもないくらい好きなのに、忘れることなんてできるはずがない。

 片手で乱暴に涙を拭って、不器用に波瑠を抱き寄せた。

「波瑠、好きだよ。何百回でも何万回でも、波瑠に好きだっていう。言うから、行かないでよ、そばにいてよ」

 拭っても拭っても零れ落ちてくる涙が嫌になる。鼻を啜りながら、いま腕の中に波瑠の体温があることに安堵すると同時に、失う恐怖が襲ってくる。

「離れたくない、それができないなら、いまこのまま消えてしまいたい」

「離さない、消えるなんて言わないで」

「だいすきだよ」

 そう言って笑った波瑠の顔は、いままでの記憶の中でいちばんきれいだった。


 どれくらい抱き合っていただろう。あれ。と、腕の中の波瑠が首を傾げたのと、同時に玄関で物音がした。

「なんだ、カギ開いてるじゃん。不用心だなぁ」

 突然聞こえた良く知った声に顔を上げる。そこにいたのは亜樹だった。

「亜樹、なんで」

「『近いうちに』って言ったでしょ」

「確かに言ってたけど、」

 いきなりすぎるのにも程がある。波瑠は突然の乱入者に呆然としているし、私自身何が何だかわからない。抱き合った格好のまま、私たちが揃って呆けている間に突然やってきた乱入者は、ひどい顔だなぁ。と言いながらふたりぶんの濡れタオルを用意してくれた。

「何しに来たんだって思ってるでしょ」

「思ってる」

 間髪入れずに答えると、亜樹は声をあげて笑った。

「困ってる頃だろうから教えてあげようと思ってね」

 亜樹の視線の先にいるのは波瑠だ。波瑠はきょとんとして固まってしまっている。

「カウントダウン、止まって見えなくなったんでしょ」

「どうして」

 カウントダウンとは、言葉の通り残り時間の話だろうか。何故、亜樹がそれを知っているのだろう。その疑問に答えるように、亜樹はにっと笑った。

「私は元天使だからね」

「うそでしょ」

「本当だって、もう羽も何もないから証明はできないけど」

 あなたも、いまは羽出せないんじゃないの。と、亜樹が波瑠に尋ねる。

「出せない」

 驚きながらもうなずく波瑠と揃って、亜樹に視線をやる。

 亜樹の説明によると、天使は人間に恋をされると消えてしまうのは本当だが例外もあり、その人間と互いに心底想い合っている場合人間として生きていくことができるらしい。ただしもう二度と天界に戻ることはできない。数日の猶予は、天使として人間界から消えて天界に戻るか人間として恋をした相手と生きていくかを決めるためのものらしい。亜樹も、想い合った人がいて人間として生きてきたという。

「つまり、両想いになると人間になるってこと?」

 問いかける私に亜樹が、そういうこと。と、うなずく。

「私、志穂ちゃんのそばにまだいられるんですか?」

「うん。だって、愛しあうふたりはハッピーエンドじゃないとね」

 亜樹の言葉に波瑠の目からも再び涙が零れ落ちる。ぼやけていく視界に自分も泣いていることに気づくが、いまは涙を拭うよりもまず目の前に波瑠がいることを確かめたかった。

「波瑠」

「志穂ちゃん」


 今度こそ両腕でしっかりと波瑠の身体を抱きしめる。消えたりなんかしない、離さずにいられる。うれしくて、これ以上のしあわせなんてないと思った。

 ぎゅっと抱き返してくれる体温が愛おしい。好きになってよかった。ずっと叶わない恋だと思っていた。突然やってきたふたりで過ごせる時間はまるで夢のようだった。

 こんな終わり方をするくらいなら、好きにならなければよかったと少しだけ思った。それでも、いま、波瑠は腕の中にいる。消えたりなんかせずに、目の前にいる。


 終わらない恋の先を、私たちは一緒に歩いていく。

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終わらない恋の先 穂摘すずめ @hodumisuzume

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