Atexa、バッハを流して
夜澄大曜
第1話
着信音で目を覚ました。
枕元にあるスマホを手探りで取ると、もう5年も会っていない友人の名が画面に映っていた。
こんなに朝早く、なんだろう。
まだ7時――7時?
今日は早朝ミーティングがある!
「……!」
僕は跳ね起き、寝室を飛び出した。
リビングでは妻が食卓に朝ごはんを並べていた。
コーヒーのいい匂いがする。
「おはよう。パンに何つける?」
「ごめん、朝イチで仕事がある日だった! ごはん、いいや」
のんびりと訊いてきた妻に、少し早口で返事をした。
「そう……。忙しいパパでちゅね~」
妻が自分の大きなお腹に向かって語りかける。
いま、妊娠27週目だ。
僕は洗面室に行き、ざぶざぶと顔を洗った。
リビングから妻の声が聞こえてくる。
「
スマートスピーカーがそれに答えて、曲を再生した。
平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第1番 ハ長調。
バッハは胎教にいいらしい。
クラシック音楽を聴くことは、妻と僕の共通の趣味だ。
歯磨きを終え、手櫛で髪を整えてからリビングに戻った。
妻は窓際に置いた観葉植物に、霧吹きスプレーで水をやっていた。
「そういえば、さっき、バイトの時の同僚から電話があったよ」
「なんて?」
「時間がなくて出られなくて。後でかけ直す」
「そっか。……あのお店、懐かしいね。入口の鈴の音、好きだったな」
妻がしみじみとした口調で言う。
僕と妻の出会いは、クラシック音楽が流れる純喫茶だった。
僕がアルバイト店員で、彼女が客。
常連として認識はしていたけれど、あまり強い印象もなかった。
ある日、喫茶店の店長が営業時間中に失踪し、警察もやってきて、大騒ぎになる。
そのとき、「何があったんですか」と彼女から声をかけられた。
店はそのまま閉店になってしまうのだけど、僕と彼女は連絡先を交換して、会うようになったのだった。
寝室に戻り、クロゼットを開けてスーツに着替える。
ベッドに置きっぱなしのスマホに、メッセージの着信通知。
バイトの元同僚からだった。
『店長が見つかったぞ!』
プッシュ通知のメッセージが見えて、思わずスマホを手に取った。
記事のリンクが貼られていた。
ビルの解体工事で、白骨化した死体が見つかった。
当時の喫茶店の店長と思われる――
まさか、そんな。
すぐに着信履歴から電話を折り返した。
「見たよ、記事」
「びっくりだろ?」
彼は開店から夕方まで、僕は夕方から閉店時間までシフトに入ることが多かった。
互いに大学生だから気が合って、一時期は毎週のように飲みに行っていた。
「店長って、あの日、彼女とお金を持ち逃げしたんじゃないの?」
僕が質問すると、質問が返ってきた。
「それさ、なんでそういう結論になったんだっけ?」
「僕が事務所のドアが開く音を聴いて……」
そう言いながら、記憶をたどる。
店長がなかなか休憩から戻ってこなくて、僕がホールとドア一枚を隔てた事務所に様子を見にいくと、誰もいなかった。金庫の鍵が開けられ、中が空になっていた。
店長に電話をしたが、電源が切られていて連絡がつかず、警察に通報した。
喫茶店にはオーナーが別にいて、店長は雇われの立場だった。
店長はいつも年下の彼女の話ばかりしていた。だから店長が姿を消し、金庫が空になっていたとき、僕を含めた店の関係者全員が、「ああ、そういうことか」と思ったのだ。
僕の説明を聞きながら、相手も当時のことを思い出してきたようだった。
「そうだった、そうだった。いま思うと、そのドアが開く音ってさ、店長が外に出て行ったんじゃなくて、誰かが入ってきた音だったんだな」
「いや、でも――変だな。2回目は聴こえなかった」
「おかしいだろ。それだと、犯人が店の外に出てないことになっちまう。聞き逃したんじゃないの?」
「いや、それはない……と思う」
事務所のドアを開けると、必ず大きな鈴の音がした。
お洒落な風鈴みたいに、鉄の筒の束がぶら下がっていて、
ちりん
と騒々しく鳴った。
……鈴の音?
背筋を冷たいものが走った。
裏口。
店の入口じゃない、事務所の裏口のドアに鈴がついていた。
なぜ、その音を客だった妻が知っているのだろう。
気配を感じた。
妻が寝室の入り口に立ち、じっと僕を見つめていた。
いつの間にか、バッハが止まっている。
「また後で、かけ直す」
僕は古い友人との通話を切り、妻に問いかけた。
「……店長のこと、何か知ってるの?」
妻は静かに微笑んで、
「Atexa、バッハを流して。音量を上げて」
と言った。
Atexa、バッハを流して 夜澄大曜 @yasumi-taiyo
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