5話 「あなたとなら、私もこの先、一緒に歩いていけると思った」

 ──結婚するなら好きな人と。そう思って、金にものを言わせて愛する女性を手に入れる。ご立派ではありませんか。


 アリコの声がクロードの脳裏に蘇る。


 ──そんな方法で愛する人を手に入れてなんの意味があると意地を張り、窮地に陥った愛する人になにもせず、使える手段を使わず、他の男に攫われるのを指を加えて見ている殿方よりよほど好感が持てるというもの。


 先ほど、気まぐれのようにクロードの私室にやってきた使用人は、滑らかな嫌味を言って去って行った。机に脚を投げだした横柄な態度で、悪態をつく。


「あのやろ、人の気も知らないで、言いたい放題……」


 正直、後ろ暗さを見透かされた気分だった。また、アリコはわかっていて、言ったのかもしれない、とも。


 世俗めいた言い方をすれば、家ごと買い取って惚れた女を、なんていうのは、ここ外交都市では珍しくもなんともない。この都市では、金銭を対価にあらゆるものが交渉の場に乗る。物も、事も、人も。外交都市イリー・イー。希望と欲望、そして感情の清濁を飲み込んだ魔都。


 クラスメイトや取引先の実業家から、そういった話を聞くたび、口では相手の婚姻を祝福しながら、そのぐらい自分でなんとかしろよ、と、どこか冷笑さえしていた。


 そんな自分も、金で女を手に入れた男の仲間入りを果たしたというこの皮肉。おめでとう、過去の自分。言ってやりたい。その冷笑は未来の自分に返ってくるぞ、と。テーブルの上に残された紙片を、視界の片隅におさめながら、つくづく頭を抱える。


 シルエラが本気でクロードとの婚姻を突っぱねてきたら、自分はどうするか。目下、悩みの種だ。

 シルエラの気持ちが自分に向いていないことなんて、最初から承知の上だった。承知の上で、それでもと思い切った。

 だが、本気で嫌がられて強行できるかと問われると──最初はそのつもりだったのだが、ここへ来て意志が急激に揺らいできている。


 だからといって、シルエラを男の元へ、というのは論外なわけで──

 もう少し他にやりようはあったのでは──

 シルエラが同級生やら友人を避けていて──


 などと、思考がループに陥りかけたとき。


「入るわよ」


 かちゃ、と正面、扉の隙間から金髪を揺らしていたのは、シルエラだった。


「シルエラ?」


 クロードは足を机から下ろすと、顔を上げた。

 室内に入ってきた金髪の幼馴染は、クロードの仕事机の前まで来ると、こざっぱりと言ってくる。


「ノックしたんだけどね、聞こえてなかったみたいだから、勝手に入らせてもらったわ」

「それはいいんだが、どうした? お前んとこの使用人に用があるんなら、さっき出ていったぞ」


 俺に盛大な嫌味をくれたあとで、と内心で苦く付け足してやる。


「ううん。アリコを探してるんじゃなくて。……クロード、さっきのペン貸してもらえる?」

「貸してって……、貸してもなにも、あれはもうお前のものだろうが」

「あげるって、言われてないもの」

「なんだその理屈は」

「ガロフが勝手に取り出してきただけじゃない。あなたがくれるって言わない限りは、私も受け取れないわよ」


 そう言う彼女は、先ほどと打って変わってすっきりした様子だ。

 その変化を怪訝に思いながら、クロードは机に置かれたままになっていた木箱の中を見た。紅いペンを手の平に乗せ、シルエラに差し出す。


「……じゃあ、いるか?」

「じゃあ、いらない」

「おい!」

「あげる、でいいじゃない。誕生日プレゼントなんだから。素直じゃないわね」


 まるで姉かなにかのように腰に手を当て、説教めいたことを言い出す。

 クロードは、面倒な女だな、と息を吐くと、表情を改めた。

 

「……二年遅れの誕生日プレゼントになるが、受け取ってもらえるか?」


 もちろん、とシルエラは笑ってクロードの手からペンを受け取った。


「ありがと」


 どこかくすぐったそうな、だが、無邪気な嬉しさがあふれた微笑み。あまり見たことのない類のシルエラの笑顔に、不意を突かれていれば、彼女は客用のテーブルへ向かった。置かれていた紙にさらさらとペンを走らせたあと、戻ってきて、その紙をクロードに差し出してくる。


「はい、どうぞ」

「え」

「結婚してあげる」

「は?」

「っていう言い方も、おこがましいかもしれないんだけど……」

「って言われても……」


 書簡でいっぱいの仕事机の上、ゆっくりと載せられた紙片を見やる。婚姻届には確かにシルエラの名前がサインされていた。冗談ではないらしい。

 喜ぶより腑に落ちず、クロードは問いかけた。


「……どういう心境の変化だ?」


 その質問に、シルエラは答えなかった。代わりに別の質問を投げかけてくる。


「ねえ、先輩のこと、覚えてる?」

「先輩? どの先輩だ」

「カユス先輩」

「ああ、いたな」

「カユス先輩が結婚する前、お相手の男性と話したことがあったんだけど、そのとき思ったの。ああ、こういう人と一緒になれる人は幸せだろうなって」

「……それは今、俺に聞かせる必要のある話か?」


 本気で苛立ちを覚えれば、シルエラが慌てて手を振ってきた。


「ち、違うわよ。別にその人のことが好きだったとかそういうんじゃないわよ? ただ、私も結婚するなら。こういう人に愛されたら素敵だろうなって思える人がいいなって思ったのよ」

「それで?」


 シルエラの話の着地点がいまいち見えない。いらいらと先を促す。

 しかしシルエラは、静かな表情で言ってくる。


「……同じ目線で物事を見れると思った。似てる部分があると思ったから。シルエラの傍なら、肩肘張らずに呼吸がしやすそうだと思った」

「お前……」


 薄っすらとクロードは目を見開いた。


 ──なぜ、お嬢様なのですか。


 アリコに嫌味を言われたあと、そう問われたときのことだ。


 同じ目線で物事を見れると思った。似てる部分があると思ったから。

 シルエラの傍なら、肩肘張らずに呼吸がしやすそうだと思った。

 シルエラにとっては大したことじゃなかったとしても、あいつが俺を受け入れてくれたように、俺もシルエラの欲するものを与えたいと思った。守りたいと思った。

 平等とか自由が好きなくせに、商家のトップとして立場的に何かを飲み込まなきゃいけないときと、飲み込んではいけないときとで、

 そんなあいつと、この先も一緒に歩んでいけるならそうしたいと。そう思った。


 クロードは、アリコの質問にそう答えた。


 自分はきっと、あの慈善家業を営む友人のように平等にもきれいにはなれない。

 だからといって、もうひとりの男のように屑にもなれないだろう。

 一番上の兄のように優秀になれず、二番目の兄のように快楽に興じることもできない。

 ならせめて、素直に生きようと思っても、金と欲望が渦巻く外交都市で生きるには、クロードは少しばかり打算と小利口がすぎたきらいがあった。うまく立ち回る処世術ばかり身についてしまった。

 気の置けない友人もいるが、隣にいるのは息がしやすい女性がいいと思った。

 彼女がいてくれるのなら、魔都と揶揄されるこの都市で踊るのも悪くない──そう、思った。


「私もいいなって思ったのよ。あなたを見てて、あなたにもそういうことを思った。あんたみたいな人に好いてもらえたら幸せだろうなって」

「シルエラ……」


 思わず名を口にし、はたと気づいてクロードは半眼になった。


「って、それを俺から告白されたお前が言うか?」

「あっははは、ごめん」


 無邪気に笑ったあと、シルエラは背筋を伸ばした。面を真っ直ぐ前へ上げ 、クロードを見つめてくる。


「だから、それで心が決まったわ」


 澄んだような揺るぎなさ。


「あなたとなら、私もこの先、一緒に歩いていけると思った」


 そう言ってから、シルエラは少しばかりおどけた調子で。


「それに、少しばかり周囲に味方が欲しいっていうその気持もわかるから。そこは同じ経営者として共感するわ。あなたもここでは変わり者でしょうから、風当たりが強そうだし」


 そう言って、シルエラがすっと手を差し出してきた。

 そのか細いが、見た目よりずっと頼れる手であることをクロードは知っている。


「だから、ここから先は共同体。それでどう?」


 差し出された手をふと見つめ、ふっ、とクロードは柔らかく微笑んだ。その手を、ゆっくりと握り返す。


「……悪くはない、返事だな」

「言い方がひねくれてるわね」

「違うっ。なんでそうお前は噛みついてくるんだ」

「だって素直じゃないんだもの」

「……思ってたよりいい返事をもらえたなっていうだけだ。そんな風に前向きにサインしてもらえるとは思ってなかったからな。さっき、本気で突っぱねてきたらどうするか考えてたぐらいだ」

「あなたって謙虚なのか尊大なのかわからないわ。だって、私の気持ちがどうだろうがサインするしかないのに、なんで突っぱねるとかそんな風に考えるのよ」

「ビビリなだけだ。お前が思ってるよりずっとな」


 ふうん?と曖昧な生返事。

 どうやら繊細な男心は伝わらなかったらしい。


「んじゃ、頼むぜ、相棒」

「……ええ!」


 と。


「おめでとうございます!」

「おめでとうございます」


 ばん!と扉が開いた。アリコとガロフ、二人が同時に入ってくる。

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