6話 『シルエラ様が他の男の下で乱れるのが』

「って、聞いてたのかお前ら!?」

「そんなことだろうと思ったわ。アリコはともかく、ガロフまで……。もう、立ち聞きは行儀良くないわよ」


 言葉ほど非難する風でもなく、シルエラが呆れた顔をしている。

 ガロフはなにやら泣いていた。黒いハンカチで顔面を覆っている。


「これで晴れてハッピーエンド……と。うれしゅうございます。お母様もお喜びのことでしょう。使用人一同で宴でも開きましょう」

「恥ずかしいやめろ」

「ね、ね。ガロフ」


 シルエラが、何やら期待を込めた表情でガロフに近寄った。


「それで、クロードが私にくれるつもりで買ったものなんだけど……」

「もちろんですとも。シルエラ様、坊っちゃんの秘蔵のプレゼント集を今こそ公開することといたしましょう」

「ありがとう!」

「だから俺の許可を取れそこ!」

「いいじゃない、私にくれるつもりだったんでしょう?」

「おっまえ、さっきは俺がくれるって言わない限りは受け取れないとか言ったくせに……」


 しかしシルエラは聞いた風もなく、ガロフと一緒にクロードの部屋の棚を眺めている。童女のように目を輝かせるシルエラは、楽しそうだ。クロードの口元に苦笑が漏れる。

 代わりに(?)、クロードに近づいてきたのはアリコだった。クロードと頭ひとつ分以上違う使用人は、裏も表も感じさせない軽やかな微笑みを浮かべている。


「良かったですわね」

「ん? ああ。……まあ、礼を言う」

「なんのことでしょう?」


 きょと、アリコが黒い瞳を瞬かせた。

 なんだか出鼻をくじかれた気分で返す。


「なにって……、俺の言ったこと、あいつに伝えてくれたの、お前だろ?」

「お嬢様の頼みでしたから」

「頼み?」

「あなたの真意を知りたい、と。……あれでも一応、向き合っていらっしゃいますのよ」

「へえ……」


 と、言いながらシルエラの背中を見ていれば、突然、アリコはエプロンのポケットに手を入れた。黒いタバコケースのようなものを取り出し、カチ、とボタンを押す。

 聞こえてきたのは、ガロフと自分のやり取りだった。


『それでも耐えられなかったのでしょう?』

『………ああ』

『シルエラ様が他の男の下で乱れるのが』


 ──クロードは問答無用で録音機をアリコから奪い取った。

 アリコは笑顔のままだ。


「これはお返しいたしますわ」

「まさかとは思うが、これまでシルエラに聞かせてないだろうな……?」

「とんでもない」

「ならいいが……」

「まあ、この先も色々あると思われますけれど、これからも、がんばってくださいませ。この調子ではキスも遠そうですし」

「え?」

 

 クロードは聞き返した。

 これはアリコも意外だったようで、不意打ちをまともに受けたようなその表情に、少しだけ溜飲が下がる──のも、つかの間。


「そう申されましても……。わたくしとしては、紙切れ一枚で社会的に夫婦になったとはいえ、シルエラ様とのご関係そのものは以前とあまり変わらず、というより、クロード様の告白で、ようやくスタートラインに立ったようなものと思っていたのですが……って、クロード様?」


 埒外のことを言われた気がして、クロードはふらふらと歩き出した。

 先ほどのやり取り。シルエラは共同体と言っていたとは言え、その気が一切ないわけでもない、とクロードは踏んでいたのだが──

 それどころか、クロードの告白をそれなりに受け入れてもらえたのだと思ったのだが──


「どうしたの?」


 きょとん、と。無垢な少女に見えるような顔でシルエラが聞き返してくる。


 ──それは、クロードの勘違いで、違うのか?


 確認せずにはいられない。呆然と口にする。


「シルエラ……、お前、俺とキス……できるよな?」

「………は?」

「は?」


 ぽかん、と。まったく寝耳に水といった様子だった。が、全く同じ反応を返したのはクロードも同じだ。

 次の瞬間、シルエラが心底驚いた風に叫んでくる。


「なんで、そういうことになるの!?」

「なんでって、お前、結婚するって、するって……そういうことだろ!?」

「そういうことじゃないわよ! なに、そういうことをするために私と結婚するわけ!?」

「違う! いや、違わなくもない! こっちは告白してんだぞ! そういうわけがないわけあるか!」

「それでも、わたしに今はまだそういう気持ちがなくても、あなたは受け入れてくれたものだと思ってたんだけど違うの!?」


 ぐ、と、とっさ返答に窮する。そう言われてしまえば、確かにそうである。そもそも、シルエラの気持ちが自分に向いていないのを理解した上で、シルエラの家を買収して、婚姻を断れない状況に持ち込んだのはクロード本人だ。

 幼馴染、同級生、と地続きの関係もあれば、告白もしたとはいえ、正直、シルエラのこの対応は破格と言えるだろう──と思いかけ、はっ、と気づいた。思わず口にする。


「……って、まさかとは思うが、お前、夫婦なのに寝室は別とか言い出すつもりか?」

「そ、それでもいいんじゃないかしら?」

「あほか───ッ!」


 うっ、とさすがのシルエラもうろたえる。


「結婚したその日から別室とか妾か! お前もだけど、俺まで後ろ指刺されるわ!」

「三男とはいえヴァリアンテ家と結婚っていう時点で、あちこちから後ろ指刺されるでしょうから今更よ!」

「それならそれでなおのこと世間体や体裁を少しは考えろっていうんだ!」

「世間の体裁に合わせるあなたでもないでしょうが!」

「過度に気にしてないっていうだけだ! 立ち回りのこと考えたら、完全には無視できないっていうだけで──っていうか、だったらお前、式のときどうするんだ!」

「式?」

「結・婚・式!」

「あ」

「キスしない新郎新婦なんて聞いたことねぇわ! 前代未聞になるぞ!」


 そこでシルエラも黙った。

 彼女は目を閉じ、腕を組み、頭を捻り、うーん、と悩ましい声の後。


「……それはー、そのときはやるわよ。しょうがないもの」

「色々納得がいかね──────ッ!」

「ならどうしろっていうのよ!」

「うまくいかないものですわね」

「ですなあ」

「とにかく!」


 ばん!とクロードが机に手をついた。


「結婚したんだから、そういうことをするっていうのは理解しておくように!」

「お断りします。私はそういうことをするためにあなたと結婚したわけじゃありません」

「結婚したんだから、普通するだろそういうこと!」

「逆説的に考えないでちょうだい! だいたいあなたはせっかちなのよ!」

「んな……っ!」


 仕事机を挟んで、クロードとシルエラがにらみ合う。

 外から主二人の様子を眺めていたアリコが、自らの頬に手を置いて悩み始めた。


「ガロフ様……。これは、もしかすると、今後の二人については、使用人であるわたくしたちにかかっているのでは?」

「と申しますと?」

「お二人の結婚が叶った今、当面の目標はお二人のキス……」

「そこは普通逆じゃね?」

「そのためには、使用人であるわたくしたちの協力は必要不可欠……」

「そんな仕事はしなくていいのよ」


 三人が一言ずつ口を挟むも、しかし、アリコは聞いた風もない。


「嫌がるお嬢様を無理やり押さえつける鬼畜系クロード様になるか、それとも、お嬢様が心と身体を許すまでけなげに努力する純愛系クロード様になるか……それは、わたくしたち次第ではないかと。お嬢様のことになると人の言うことに流されやすそうですし。ご本人様いわく、ビビりとのことですし」

「言うに事欠いててめぇ!」

「僭越ながらアリコ様。坊っちゃんが今まで奥手でありましたことを考えますと、なし崩し的に残念な純愛になるのではと……」

「お前もお前で残念ってなんだ!」

「ガロフ様、それは主人を侮りすぎというものではございませんか? 取引した以上、大義名分もあればクロード様の方が力関係では上なのですから、それに便乗して力づく、というのも十二分にありえるのではないかと。お嬢様も口八丁で丸め込まれやすければ流されやすいようなところありますし」

「アリコも私のことをなんだと思ってるのよ!」


 だが、ガロフが真面目な顔で首を横に振ってきた。


「このガロフ、意義を唱えさせていただきます。確かに、ときには強引に奪われたいもの……、気遣っていただき意見を尊重されるより、遠くに行って離れ離れになったとしても、待っていて欲しい。その一言が欲しいときもあるものです」

「ジジィが訳知り顔で訳のわからない恋愛説いてきやがる」

「シルエラ様が望んで自らを差し出してくださる、それこそが真の喜び!」

「それはわかる」

「そうでございましょう、坊ちゃま」


 ふぅ、と息を吐く音。アリコが谷よりも深いため息を小さな口からこぼしている。


「わかっておられません。ガロフ様もクロード様も」


 淑女らしく手は前で合わせたまま、だが声だけは力強く、アリコがずばり言い切ってくる。


「多少の抵抗は強引に振り切ってこそ。愛する人に激しく求められ、奪われるという甘美──お嬢様は乙女で奥ゆかしいのです」

「んな……!?」


 あんぐりとシルエラが口を開いている。

 それが真実かどうかはさておき、クロードは反論した。


「あのなあ、簡単に言ってくれるが、女にやな顔されて押し切れるほど、普通の男が自意識過剰になれると思うなよ。そういうのは文学小説の恋物語の中だけにしてくれ」

「その割には、お嬢様の家を買収して断れない状況で結婚迫ってみたり、俺とキスできるよな、とか面白いことおっしゃいますのねクロード様」

「余計なお世話だ!」


 一瞬、沈黙が打たれ。


「なら肝心のシルエラはどうなんだよ」

「え?」


 クロードはシルエラに矛先を向けた。

 アリコが嬉々として乗ってくる。


「ほら、お嬢様。クロード様もこう言ってらっしゃることですし、お嬢様はクロード様からどのように言い寄られたいですか? 今なら聞いてくれそうですわよ」

「そうですぞ。後学のため、この年寄りにぜひともお聞かせ願いたく……」

「ちょ、ちょっと待ってよ!」


 三者から三者三様に見つめられ、シルエラが冷や汗を流す。

 やがて、シルエラは、耐えかねたような苦悶の表情でぎゅっと目をつむると、すぅっと、覚悟したように息を吸い。


「……解散ッ!」


 堂々と部屋から逃げていった。

 残された三人はそれぞれ好きに言い合う。


「ほら、奥手が急に本気を出すからこんなことになるんですよ、クロード様」

「あんまり追い詰めてしまいますと、シルエラ様が可哀想でもありますなあ」

「とりあえず、思ったよりいけそうなのはわかった」


 ──ここから先は、延長線。






(Fin)

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