3話 「好きだが」

「素晴らしいタイミングだわアリコ!」

「お待たせいたしました、お嬢様。あとはこのアリコにお任せください」


 そう言って、アリコは仰々しくシルエラに一礼した後、きっ、とクロードを強く睨んだ。強気の態度。頼もしい。


 だが、クロードは露も動じず、席に着いたまま下からアリコを見上げるだけだ。


「アリコ・シラサギ、か。……お前、今までシルエラん家からいくらもらってた?」

「そのようなこと、あなた様に教える義理はございません」

「そうよ。っていうか、いきなりいくらもらってたとかあなた失礼──」

「わかった。じゃあ賃金は今までの倍出すから、俺の使用人になれ。業務内容は今までと同じ。そこのシルエラの世話」

「え?」

「何なりとお命じくださいクロード様」

「変わり身早っ! って、アリコォッ! 裏切ったわね!?」

「何も裏切っておりません、お嬢様」


 きっぱりと忠義に満ちた声でアリコは言い切ってきた。既に、クロードの前、仕事机を挟んでひざまずいたまま、続けてくる。


「わたくしはお嬢様を敬愛しております。そして、お嬢様のお世話をするのが好き。また、そんなお嬢様をお世話をして愛するお給金がもらえる……ああ、なんてハッピーな生活」

「ハッピー……」


 思わずシルエラはつぶやくも無視された。

 アリコは立ち上がり、シルエラの方へ向き直ると、細い指を組んだ。祈りの形を取る。微笑みは満ち足りた聖母のようだった。


「愛するお嬢様のお世話をさせていただける上に、わたくしのお給金は今までの倍になってハッピー。お嬢様も今まで通り、わたくしの世話を受けられる。何か問題でも?」

「問題……って聞かれると、ないような気もするけど」

「ならばよろしいではありませんか」

「よ、よくない! よくないわ!」


 大慌てでクロードと──正確にはクロードの仕事机とアリコの間に割って入り、大声を張り上げる。


「心配することはありません、お嬢様。今まで通りアリコはお嬢様のおそばにおります」

「そこを心配してるわけじゃなくて!」

「まあっ、使用人に過ぎないわたくしの心配をしていただけるというのですね! ですが、ご心配にはおよびません。今後のお給金はクロード様が出してくださいますので、お嬢様は今までどおりわたくしの世話を受けて愛玩動物のようにごろごろしていればよろしいのです」

「そんな風に思ってたのあなた!? じゃなくて、違う! なにかが違うわ!」

「さっきからよくないだの違うだの、アレも違うコレも違う……いつからお嬢様はそんな我儘になられたのですか?」

「これ私がお説教される流れなの!?」

「ご安心ください。このアリコ、今まで以上に誠心誠意、尽くさせていただきます。お給金倍ですし」

「話はまとまったな」

「なんにもまとまってないと思うんだけど!?」


 クロードが呆れともつかない息を吐いた。不機嫌にも見える顔で、首をかしげてくる。


「じゃあ、何が問題なんだよ」

「何って……」


 いきなり冷水をかけられた気分で、シルエラは口を閉ざした。

 今度はクロードに身体ごと向き直り、落ち着いた口調で返す。


「……結婚なんだから、好きな人とって思うじゃない」


 浮かない顔で答える。なんとなく気分は憂鬱だった。


「あなただって、好きでもない女性と結婚なんてしたくないでしょう?」


 それは単なる反発のつもりだったのだが。


「好きだが」

「──え?」


 言われたことを理解するのに五秒かかった。

 盛大な聞き違いをした気がして、シルエラが固まる。


「あの…、ごめんなさい、えっと、なんか、あたしの頭がおかしくなったかもしれないから、もう一度聞かせて欲しいんだけど、誰が誰のことが好きって……」

「お前のことが好きだった。三年前、お前が家のことで大変になったとき、なんで頼ってくれないんだと憤った。頼るだけの甲斐性が俺にはないのかと自分にも憤った。でも、お前はどの友人とも距離を置こうとしてて、それなら仕方ねぇって思いながら、でも、お前が時折、誤魔化すように苦しそうに笑うのを見るのは嫌だった」


 クロードが静かに椅子を引き、立ち上がる。目線がシルエラより頭ひとつ分高くなり、見上げる形になる。無意識に、シルエラは一歩後ろに下がった。


「お前の家を他の商家が買おうとしているっていう話を聞いたとき、腸が煮えくり返りそうになった。別の男のものなるぐらいなら、金でお前を手に入れようと思った」


 すらすらと、淀みなく。

 真っ直ぐ、一切の揺らぎもなく、クロードが正面から告げてくる。

 低く静かに抑えられた声が、逆に込められた感情の強さを物語っていて。

 本気、の二文字が脳裏に浮かんだ。こくり、と息を飲む。


「わ…たし……」


 仕事机を挟んで立つ彼に、何を言うべきかわからない。

 クロードのことをそんな風に考えたことがなかった。

 正確には、この三年、経営に明け暮れてそれどころではなかった。ただ、家のために奔走していた。

 距離をおいた友人たちには申し訳ないことをしたと思っていた。

 クロードも、その中の一人で、そんな彼から今こうして不意打ちで告白されている。

 しぃん、と部屋が静まり返る。

 かちこちと柱時計の音だけが、規則正しく刻む中、誰もが口を閉ざして黙りこくる。


「お嬢様……」


 と、アリコの声。いつの間にかシルエラの足元で膝をつき、見捨てられた小動物のような顔でシルエラを見上げている。。五つ年上のくせに、この妙に同情を誘う目は何なのか。やりづらさを覚え、シルエラは、うっ、と頬を苦く引きつらせた。


「どうか……」


 儚く、淡い色の唇が切なげに音を紡ぐ。吸い込まれる。


「どうか、わたくしのお給金のために」


 ぶつん、と堪忍袋の緒が切れる音がした。


「なに、よ。なによなによなによ……」


 肩を戦慄かせ、立ったままのクロードを勢いよく指差す。


「あなたが私のことが好きだとかそんなの知らなかったわよ知りもしなかったわよ! いきなりそんなこと言われたって──どうしろっていうのよ!」

「それは今まで坊ちゃまがあまりにも奥手だったばっかりに……返す言葉もございません」

「さっきからうるっせぇぞ、じじい」

「え、お嬢様、本当に気づいておられなかったのですか?」

「なんでアリコが気づいてるのよ!?」


 アリコはまるっきり意外な顔だった。後、当然とばかりに言い切ってくる。


「お嬢様の周囲にいらっしゃる方が、お嬢様にどのような感情を抱いてるかぐらい、このアリコ、当然把握しておりますとも。好意的な方はさておき、度を過ぎるほど非好意的な方には退いただいております」

「うっわ」

「今知りたくなかったわ、その情報」


 クロードと一緒に半眼になる。

 ご遠慮ではなく、ご退場。不穏な響きだ。アリコが何をしたのか、聞いてみたいような、聞くのが怖いような。

 一気に白けたような気分になったのは、向こうも同じだったらしい。クロードと一緒に、はー、と脱力して肩を落とす。

 と。


「……で、他にもまだ理由と言葉が必要か」


 出し抜けに放たれたクロードの言葉に、再び緊張が走る。

 クロードの声音はいくらか通常のものだが、アイスブルーの瞳は相変わらず研ぎ澄まされている。

 目を逸らしたら負けだ。きっと今、逸らしたら彼は追ってくる。そうしたら、たぶんシルエラは逃げられない。直感がそう言っている。どう逃げられないのかも、何から逃げたいのかもわからなかったが。


 一分、二分、三分……


 睨み合うように対峙し──

 ふっと、先に視線を切ったのはクロードだった。場の空気が軟化する。彼は目を閉じ、がしがしと適当に頭をかきながらぼやいてきた。


「まあ、いきなりすぎるっつーのはわかるからよ。お前も色々大変だっただろうから、しばらく時間をおいて考えてもら──」


 その頃には、シルエラはばたばたと部屋から逃げ出していた。

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