第28話 忘れられし霊峰

 冷たい風が頬を打つ。

 イリアが創り出した闇の帳に守られ、俺とラミアは人間の連合軍の追撃を振り切り、一路、北の霊峰へと駆け込んだ。


 ――「忘れられし霊峰」。


 ゲームではクリア後の高難度やり込みマップとして配置されていた場所だ。その名をイリアの口から初めて耳にした時から、ここが単なるイベントマップでは終わらないという予感がしていた。


 天を突き刺すかのように切り立つ岩壁。視界を奪う雪混じりの猛吹雪。凍てついた足元は滑りやすく、一歩でも踏み外せば奈落の底に飲み込まれるだろう。

 だが、俺たちに引き返すという選択肢は、もうどこにも存在しなかった。


「ルーカス、来るぞ」


 ラミアの鋭い声が響いた。

 吹雪の向こう、黒い影が雪煙を切り裂き、咆哮と共に俺たちに迫る。


 ――灼熱龍プロメテウス。


 そのドラゴンは巨大な翼を広げ、その鱗は黒曜石のように硬質な輝きを放っている。口元からは、押さえきれない灼熱の炎が絶えず漏れ出ていた。

 この霊峰の番人だとでも言わんばかりに、その咆哮が空気を震わせる。

 

 その圧倒的な威圧感に、思わず息が詰まった。ゲームで幾度となく戦ったはずなのに、今目の前にいるそれは、モニター越しとは桁違いの、生命そのものが放つプレッシャーを宿していた。


「構えろ、ルーカス。ここを越えねば頂上には辿り着けぬ」


「わかってる!」


 俺は竜殺しの剣を抜き、ドラゴンの動きを凝視する。

 鋭い爪が雪原を抉り、次の瞬間、巨大な火球が轟音と共に吐き出された。

 咄嗟に身を翻す。直後、俺がいた場所の雪が爆音と共に蒸発し、熱風が背中を焦がした。

 心臓が警鐘を打ち鳴らす。だが同時に、帝国での戦いで得た確かな昂ぶりが、全身を駆け巡っていった。


 ラミアが両手を広げ、魔力を解き放つ。


「――《冥府黒槍めいふこくそう》!」


 彼女の周囲に生まれた黒い魔力の塊が、幾本もの鋭い槍となってドラゴンに突き刺さる。黒紫の光が鱗を焦がし、ドラゴンは苦悶の声を上げた。

 

 だが、それでも怯む様子はない。

 むしろ怒りを増幅させ、巨翼の一撃で大地を揺るがせてきた。


 衝撃波に吹き飛ばされそうになりながらも、俺は地面を蹴った。

 ――この戦いを、もう恐れてはいけない。

 俺はもう、ただのプレイヤーじゃない。この世界に生きる者として、ラミアと肩を並べて戦うと決めたんだ。


「はあああッ!」


 剣に魔力を込め、渾身の一撃を叩き込む。刃が硬い鱗を裂き、鮮血が熱い湯気と共に飛び散った。

 ドラゴンが怒り狂い、その口腔の奥に、先ほどとは比較にならないほどの炎が灯る。


「ルーカス! ブレスの後は尻尾で薙ぎ払うぞ!」


「下がれ!」


 俺の警告と同時に、ラミアが掌を振り下ろす。俺たちの前に漆黒の結界が展開され、ドラゴンのブレスを呑み込んだ。

 炎と闇の衝突が巨大な爆発を生み、雪原を白と黒の閃光が染め上げる。


 すごい。

 彼女の力は、俺とは比べ物にならないほど、やはり桁違いだ。

 けれど、それだけじゃない。今の俺の剣が、この伝説級の竜に確かに届いている。

 この旅で、俺は確かに強くなっているんだ。


 戦いは長引いた。

 ドラゴンは何度も空へ舞い上がり、炎の雨を降らせる。

 俺とラミアは互いの背を預け、炎を避け、爪を弾き、牙を叩き返した。

 体中が痛みで悲鳴を上げても、止まるわけにはいかなかった。


 そして――。


 ラミアの放った闇の鎖がドラゴンの翼を縫い止め、動きが止まった、その一瞬。

 俺の剣が、がら空きになった喉元を深く穿った。


 断末魔の咆哮が霊峰にこだまし、巨体はゆっくりと傾ぎ、地面を震わせながらその命を終えた。


「……やった、な」


 荒い息を吐きながら、俺は膝に手をついた。

 ラミアも肩で息をしていたが、その瞳は鋭く前を見据えていた。


「まだ終わりではない。頂はもうすぐそこだ」


 その言葉に背を押され、俺は剣を握り直す。

 竜の血に濡れた雪を踏みしめ、俺たちはさらに上を目指した。



 

 ◇



 

 やがて吹雪が嘘のように止み、分厚い雲の切れ間から光が差し込む。

 霊峰の頂――そこに辿り着いた時、俺は目を疑った。


 空が、裂けていた。


 天頂から大地へ向かって、巨大な亀裂が走っている。

 そこから零れ落ちるのは、ただの光ではなかった。

 数字や文字列が混じり合う“コードの断片”のような光の粒子が、雪のように静かに降り注ぎ、世界そのものを侵食している。


 現実と虚構の境界が混ざり合い、俺の視界が一瞬、ノイズが走ったゲーム画面のように乱れた。

 空の裂け目――あそこに、この世界の真実がある。


 俺は言葉を失ったまま、その光景を見上げていた。

 それはあまりにも異様で、畏ろしく、同時にRTA走者だった俺にとっては、奇妙な懐かしさを感じさせる光景だった。


「……見えるか、ルーカス」


 ラミアが低く問う。その声音には、いつもの傲慢な響きではなく、慎重に言葉を選ぶような迷いがあった。


「ああ。見える。これは、一体何なんだ……?」


 彼女はしばし沈黙し、空の裂け目を見上げたまま言葉を紡いだ。


「この光……いや、これは光ではないな。理の歪み……とでも言うべきか。余にも理解は及ばぬ。だが……あの光の先は、神の視線が届いておらぬようだ」


 神の視線が、届かない場所。

 この世界そのものを覆い尽くす、目に見えぬ支配。教皇ベネディクトが語った“神の物語シナリオ”の外側。


「もしや……これが、外へ通じる道なのか?」


 思わず口にした俺の問いに、ラミアはゆっくりと頷いた。


「可能性はある。あの裂け目こそ、神の意志から逃れる唯一の手掛かりやもしれぬ。だが――」

 

 そこで言葉を切り、彼女は苦く笑う。

 

「その先に何が待つか、余にも想像がつかぬ。虚無か、あるいは……」


 不安げな沈黙が落ちた。

 けれど、俺の心は恐怖と同じくらい、激しく高鳴っていた。


 ――コードの断片。

 ゲーマーとしての本能が告げていた。あれは、ただの背景じゃない。

 ゲームの世界を形づくる“根幹”そのものだ。

 もしもあれに触れられるなら、俺はこの世界の理を、物語シナリオそのものを、変える力を手にできるかもしれない。


 俺は震える手を握りしめた。

 これまで幾度となくバグを使い、窮地を切り抜けてきた。その経験が無駄じゃないと初めて思えた。


「ラミア」


 俺は彼女を振り返った。氷雪の光に照らされたその横顔は、魔王というよりも、ひとりの旅の仲間の姿だった。


「俺はもう決めた。逃げ場なんてどこにもない。だったら、あそこに飛び込むしかない」


「……本気で言っておるのか」


「ああ、本気だ。神に決められた物語シナリオの上で踊らされるくらいなら、俺は俺自身の物語ストーリーを選ぶ。たとえ待っているのが虚無だとしても、進まない理由にはならない」


 ラミアはしばらく俺を見つめ、それからわずかに目を細めた。

 その眼差しには、戦場でさえ見せたことのない、柔らかな光が宿っていた。


「貴様は……本当に変わったな。余と出会った頃は、ただの小僧であったものを」


「俺だって……少しは成長したんだよ」


 笑い合うことはできなかった。

 だが、言葉の裏にある互いの信頼は、これまでのどんな勝利よりも確かなものだった。


 空の裂け目は、いまもなお世界を蝕むように、静かに光を零し続けている。

 あれはきっと罠でもある。神の監視の目を逃れるはずがない。

 けれど、俺たちに残された道は、もう他にない。


 ラミアがゆっくりと歩み寄り、俺の隣に立つ。

 冷たい風に彼女の長い黒髪が揺れ、その瞳には、俺と同じ決意の色が宿っていた。


「ならば進もう、ルーカス。貴様と共に、余もまた運命を選び取ろう」


「……ああ」


 俺たちは並んで、空の裂け目を見上げる。

 その先に何があるのか、誰にもわからない。

 けれど確かに、俺たちはもうこの世界の決められた物語シナリオを歩むだけの駒ではなかった。


 二人は頷き合うと、眩い光が降り注ぐ世界の裂け目へと、同時に一歩を踏み出した。

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