第四章 もうひとつの世界
第29話 データにない世界
俺たちは、空の裂け目を越えた。
視界を焼く光の激流に包まれ、一瞬だけ身体がデータとなって引き裂かれるような感覚が走ったが、気づけば俺は地に立っていた。
……そこは、俺の知るどんなデータにも存在しない世界だった。
空は淡い銀色に染まり、雲は薄氷のように透き通って、その向こうに巨大な惑星の輪のようなものがうっすらと見えている。
大地は滑らかな草原がどこまでも平らなまま続き、そこを流れる無数の金色の川が、まるで巨大な回路基板の配線のように美しく輝いていた。
風はひどく静かで、鳥も獣もいない。ただ、時折足元で咲く水晶の花が、共鳴するように澄んだ音色を響かせている。
まるで世界全体がまだ未完成のまま、俺たちを待っていたかのような、不思議な静寂に満ちた場所だった。
「ここは……」
思わず声が漏れる。
俺の知る〈ラミアズ・テンペスト〉には、こんなマップは存在しなかった。
開発中にボツになった未実装エリアか、あるいは、まだ誰も到達していないテストマップの類か。
しかし、地面を叩いてもテクスチャのズレもなく、この空間は異様なほどに安定している。今の運営が作ったバグだらけの世界とは、明らかに“造り”のレベルが違った。
俺は、まるで芸術品に触れるかのように、そっと水晶の花に指先で触れてみた。
すると、花びらが淡い光を放ち、ポロロン、と澄んだ音色を奏でた。それは、ただの音ではなかった。
(このメロディ……まさか……)
それは、〈ラミアズ・テンペスト〉が発売された初期バージョン、そのタイトル画面でだけ流れていた、数秒のフレーズ。バグの修正パッチと共に、いつの間にか削除されてしまった、今では古参プレイヤーですら誰も覚えていないであろう、幻のメロディだった。
脳裏に、電撃が走った。
この世界の美しさ。この安定したプログラム。そして、この懐かしいメロディ。
バラバラだったピースが、頭の中でぱちぱちと音を立てて組みあがっていく。
(……そうか。この世界の丁寧な造りと、俺たちが今まで見てきた、あの強引で歪んだ世界の修正の仕方……。創った人間が、まるで違うんだ。あの神を名乗る存在は、この世界を創った本当の神なんかじゃない。あいつは、この美しい世界を理解できずに汚しているだけの、ただの……今の“運営”だ)
(だとしたら……この場所は、今の運営が作ったものじゃない。ここは……数年前に亡くなった、
「ラミア、わかったぞ……!」
俺は興奮を抑えきれずに叫んだ。
「ここは、俺たちを追ってきた神――いや、あいつの正体は神なんかじゃない。今の〈ラミアズ・テンペスト〉の運営だ――そいつが管理している世界じゃない! このゲームを最初に創った、天才開発者の“聖域”なんだ!」
「……何?」
「今の運営は、彼の死後に事業を引き継いだだけだ。だから
「……ふっ。実に奇妙な景色だと思っていたが、そういう絡繰りか」
ラミアは俺の説明に納得したように頷くと、改めて周囲を見渡した。
「ならば、ここは余と貴様を受け入れるためだけに造られた聖域、というわけだな」
「ああ……! 少なくとも今は、追っ手がいない。それだけでも十分すぎる」
胸の奥から、心の底からの安堵と、それを上回るほどの興奮が込み上げてきた。
ここはただの避難場所じゃない。反撃の拠点だ。開発者が遺したこの場所になら、きっと、あの“神”を名乗るくだらない運営を倒すための手がかりが眠っているはずだ。
だが、そんな俺の高揚とは裏腹に、ラミアの表情はどこか冴えなかった。
彼女は自分の手のひらを見つめ、指を開いたり閉じたりしながら、低く呟く。
「……ルーカス。この世界、魔力の流れが
「どういうことだ?」
「分からぬ。だが……この世界では、余は魔王として正常に機能できぬやもしれぬ。力が弱まるのか、それとも……暴走するのか。それすらも、分からぬ」
彼女の顔に浮かぶのは、最強の存在である彼女が初めて覚える「力の制御が効かないかもしれない」という未知への不安だった。
その表情を見て、俺は腹の底からこみ上げてくる、ある確信に満たされていた。
「ラミア、それでいいんだ。いや、それがいいんだ」
「何?」
「ここは、奴らが作った
俺の言葉に、ラミアは驚いたように目を見開く。
「ここは、運営の監視が届かない聖域だ。そして、俺のRTA知識にもない、全く新しいマップ……。つまり、この世界のどこかに、俺たちが奴に対抗できるだけの“何か”が隠されているはずなんだ。開発者が遺した、運営も知らないデバッグアイテムか、あるいは、
そうだ。ここはただの避難場所じゃない。反撃の拠点だ。
ラミアの過去を知り、固めた決意が、今、確かな目標となって俺の胸に燃え上がった。
「決めたよ、ラミア。俺は、この世界で奴らを倒すための力を探す。そして必ず、お前を魔王なんていうくだらない
それは、以前彼女に告げた決意の再確認だった。
だが、今度の俺の言葉には確かな勝算と希望が宿っていた。
ラミアはそんな俺を見て、ようやくふっと微笑んだ。
「……ならば、余も共にあろう。貴様のその無謀が、なぜか心地よい」
銀色の空が、どこまでも広がっている。
地平線の先には、見たことのない山々や、光の海が果てしなく続いていた。
ここから先は攻略情報ゼロ、完全な未知の世界。
誰も走ったことのない、真の意味での、俺たちの
俺は胸を高鳴らせながら、高らかに叫んだ。
「さあ、行こう! ここからが本当の冒険だ!」
その声は、どこまでも澄み渡る銀の空に吸い込まれていった。
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