第26話 帝国

 帝国領に足を踏み入れたとき、俺はようやく安堵を得られると信じていた。王国と教会の勢力圏を抜けたのだから、あの白々しい聖騎士団の執拗な追跡からも、ようやく解放されるはずだった。

 だが――現実は甘くなかった。


「ルーカス、妙だな」


 隣を歩くラミアが、街道の先に視線を向けたまま低く呟く。その声音には、常の余裕が微塵もなかった。


「この帝都への道、兵の数が尋常でない。まるで……我らの到来を待ち受けているかのようだ」


 彼女の言葉通り、帝国の街道には無数の兵士の影がちらついていた。磨き上げられた鋼の甲冑に身を固め、長大な槍を携えた重装歩兵。風にローブをはためかせる魔導師の一団。

 そのどれもが、ただの警備兵ではない、歴戦の気配を纏っている。

 

 それだけならまだしも、帝国の大鷲の紋章が描かれた旗印の中央に、王国の獅子の紋章が併記されていたのを、俺は見逃さなかった。


「まさか……帝国と王国が、手を組んでるのか……?」


 俺の呟きに、ラミアが鋭く首肯した。


「ありえぬことだ。だが、実際に起きておる。つまり、この世界の物語シナリオは、既に貴様の知識を遥かに逸脱しておるということだ」


 やがて俺たちが帝都の門前にたどり着くと、そこには一人の威厳ある男が、数万の軍勢を背に待ち構えていた。

 

 赤黒の豪奢な軍装をまとい、毛皮のついたマントを翻すその姿。年齢は五十に近いだろうか。しかし、その瞳には炎のような覇気が宿り、この場にいる全ての兵士を従える、絶対的な王者の風格を纏っていた。

 

 あれは帝国皇帝ドミティアヌス。まさか皇帝自ら先陣に立つとは。


「異界より来たる勇者ルーカス。そして魔王ラミア。貴様らの存在は、この大地にとって脅威でしかない」


 響き渡る声は、まるで大砲の轟きのようだった。


「神託は既に下った。王国と帝国が手を携えるは必然。我が帝国軍の総力を以て、ここで貴様らを討ち果たす!」


 その宣告と共に、地鳴りのような足音が大地を揺るがした。槍を構えた歩兵の突撃、砂塵を巻き上げる騎兵の津波、そして後方からの魔導師たちの詠唱が交錯し、一瞬にして目の前の荒野が戦場と化す。


「余に任せよ! 《禍龍呑噬かりゅうどんぜい》!」


 ラミアが一歩前に出る。彼女の口から紡がれた呪文は空気を震わせ、大地そのものを爆ぜさせた。

 彼女の足元の影が、まるで生き物のように膨れ上がり、そこから巨大な黒炎の龍が姿を現す。禍龍は咆哮と共に帝国軍の先陣へと襲いかかり、数百の兵士をその顎で飲み込み、炎で薙ぎ払い、そのすべてを灰塵と化して吹き飛ばした。


 だが敵は退かない。第一波が消し炭になっても、第二波、第三波が尽きぬ大河の流れのように押し寄せてくる。


 俺は剣を握り締めた。

 帝国兵の刃が迫る。かつてなら、恐怖に足が竦み、反射的にラミアの背に隠れていただろう。だが、今は違う。

 ラミアの告白を聞いた今、俺は、もう彼女一人に戦わせるわけにはいかない。


 剣と槍が打ち合わさり、腕を痺れさせる衝撃が走る。

 頭上から振り下ろされる斧を必死に受け止め、がら空きになった胴を蹴り飛ばし、返す刃で喉元を突き裂く。返り血が頬を濡らす生々しい感覚に、一瞬吐き気を覚えた。


「はぁっ……!」


 声を上げなければ、恐怖に押し潰されそうだった。

 それでも、次々と押し寄せる敵兵を斬り払いながら、俺の胸の奥に、確かな熱が灯っていく。


 そうだ。俺はもうゲームのプレイヤーじゃない。

 RTAの走者として効率を突き詰め、タイマーとにらめっこしていたただの高校生でもない。

 俺は、彼女と共にこの理不尽な世界を戦い抜くと決めたんだ。


「……俺は、勇者ルーカスだ!」


 俺の叫びが、戦場の喧騒を切り裂いて響いた。


「この世界の誰が俺を偽物だと否定しようと関係ない! 俺は俺の意思で、今ここに立って戦う! ラミアの背中に隠れ続けるわけにはいかないんだ!」


 渾身の力を込めて、竜殺しの剣を振り抜く。

 鋼の甲冑ごと屈強な兵士を両断し、その勢いのまま数人をまとめて薙ぎ倒す。身体は悲鳴を上げていたが、不思議と心はどこまでも澄み渡っていた。


 ラミアがちらりと俺を見る。その金色の瞳に、驚きと、そして微かな笑みが浮かんでいた。


 その時、兵士たちの壁を割り、一人の巨漢が俺の前に立ちはだかった。帝国最強と謳われる将軍、ティトゥスだ。


「小僧が……! 皇帝陛下の御前で、これ以上好きにはさせん!」


 ティトゥスが振り下ろす巨大な戦斧を、俺は剣で辛うじて受け止める。だが、あまりの重さに膝が折れそうになった。

 

 一撃一撃が必殺の威力。まともに受ければ、骨ごと砕かれる。

 だが、俺の頭は冷静だった。RTAで培った、コンマ数秒の判断力。敵のモーション、攻撃の予備動作、硬直時間。それら全てが、スローモーションのように見えていた。


(大振りな縦斬りの後は、必ず左からの薙ぎ払い……。硬直時間は、1.2秒!)


 戦斧が空を切った、その一瞬の隙。俺はティトゥスの懐に潜り込み、がら空きになった脇腹に、竜殺しの剣を突き立てた。


「ぐ……おぉっ……!?」


 ティトゥスが驚愕に目を見開く。俺はそのまま、体重を乗せて刃を深く抉り込んだ。


 帝国最強の将軍が膝から崩れ落ちる。

 その光景を、玉座たる馬上で見ていた皇帝ヴァレリアヌスは、ただ無言で見つめていた。

 長き沈黙の後、彼はゆっくりと片手を挙げる。すると、あれほど猛然と押し寄せていた軍勢が、一斉に動きを止めた。


「……なるほど」


 皇帝は低く呟いた。

 

「ここまでとはな。我らは王国に嵌められたのか。それとも、教会などというものの甘言に従うほど、儂が耄碌したか。……いずれにせよ、これ以上の進軍は無意味だ」


 そして彼は、軍を退かせた。数万の兵が、まるで嵐が過ぎ去るように、静かに引いていく。

 残されたのは、焦げ付いた大地と、荒い息を吐く俺とラミアだけだった。


「……助かった、な」


 俺は剣を地に突き立て、その場に膝をついた。


「いや、まだ助かってはいないか」


 ラミアが俺の隣に立つ。彼女の顔にも、自動回復を上回る膨大な魔力を使ったことによる疲労の影が濃く刻まれていた。


「余の魔力も、ここまで消耗させられるとはな。だが……貴様が、己を勇者と認めた。それこそが、この戦いの唯一の収穫よ」


 俺は彼女の言葉に、小さく笑った。

 そうだ。逃げてばかりではない。ようやく、俺自身の覚悟を、この手で形にできた気がする。

 この世界で、彼女と共に、勇者として生きる覚悟を。

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