第2話 水溜まりはかく語りき

 午後の講義が終わった後は、友達と少しだべってから帰宅することが多い。

 今日はバイトもないし、いつもよりも話し込んでしまったが、夜中というにはまだ早い時間。

 いつも通りの帰り道──のはずだった。

「…………?」

 なぜか、音がしない。いつも聞こえるはずの車の走行音や、マンションの窓から漏れる生活音が妙に遠い。

 雨の気配はないのに、空気が肌にまとわりつくように重かった。世界に一枚、薄い膜が張られたような不快な静けさが、遠夜の歩みを鈍らせる。


──何か変な物食べたっけ……?


 昼は学食だった。可能性があるとすれば、朝食か昨日の夕飯か。思案しながら歩く足取りもなんとなく重くなる。考えてみても、心当たりが見つけられず、はぁ、と大きく息を吐き出した。

 嫌な感覚を振り払おうと足を速めたその時。

「──」

 びくりと肩が跳ねて動きが止まった。

 いつの間にいたのか、正面に一人。

 顔はフードを目深にかぶっていることもあり、年齢や性別も分からない。が、道の中央に立つ不審者に近付きたくなくて、少し脇へそれようとした。

「……っ……?!」

 喉が凍りついた。声を出そうにも、ひゅ、と息が漏れる音しかしない。

 人間は本当に驚くと声も出ないらしい、などと頭の冷静な部分が他人事のように分析している。

 それほど、目の前の光景は現実感を失っていた。


 先程まで道の中央に立っていたはずの『不審者』が自分のすぐ目の前にいた。相変わらず顔は見えない。性別も分からない。


 ──怖い。


 得体の知れない怖さが一瞬遅れてやってきた。だからといって、すぐに足が動く訳も、叫べる訳もなく。他人事のように、目の前の『不審者』を呆然と見詰めることしか出来なかった。

 自分に伸ばされる指先が触れるか触れないかの距離に来た時。反射的に目を閉じるのが精いっぱいで。


 ──誰か通りかかって通報とかしてくれたらいいな。


 情けない話だが、そんなことを願いながら体を堅くして目を閉じて暫く。

「……すまない。遅くなった」

 想像していたどれとも違う。落ち着いた声の響きにそっと目を開いた。

 まず目に入ったのは真っ白な髪。続けて、背中。

「……あれ?」

 先程までいた『不審者』はどこに行ったのか。

 きょろきょろと周囲を見回していると、視界の端に切れ端のようなものが宙に溶けていくように見えて動きを止める。

 同時に目の前の背中が動いた。ゆっくりとこちらへと振り返る。

「怪我は?」

 自分にかけられた声だと気づけず、返事が遅れる。へ、とか、あ、とか言葉にならない声を上げた後、首を左右に振る。

「……大丈夫、です」

 助けてくれてありがとうございます──

 と続けようとしたが、不審者と言う意味では目の前の男も同じだ。改めてまじまじと相手を見つめた。


 まず目につくのは真っ白い髪。腰の辺りまである長い髪は結ばず、伸び放題のようにも見えるが、不潔な感じはしない。

 続けて和装。成人式や卒業式といったイベント以外で着物を着ている人なんて珍しい。目の色も、一瞬、青に見えたが、今は暗く沈んだ緑色に見える。

 自分よりは少し年上か。伸びた前髪のせいではっきりとは見えない表情を読み取ろうと、自然と見詰める形になる。

「えっと──」

 何と問いかければいいのか。言葉を選んで視線を彷徨わせる遠夜を見かねたのか、白髪の男は口を開いた。

「約束。君を助けると、あの時約束した」

 あの時?

 何のことかつかめずに困惑したまま。ゆるゆると頭を振って、改めて男を見た。

「あの……ごめんなさい。俺、貴方の事を覚えていないです」

 こんなに目立つ髪と目の人は、一度見れば忘れることはないだろう。

 それに、誰かと何かを約束した記憶もない。とはいえ、『不審者』がいなくなったのは、この人のおかげだろう。

 そう思うと、知らない人だから、と走って逃げ去るのも憚られて。歩き去る事も出来ず、ただ困惑したままに立ち尽くす。

「──君の声を聴いたあるじが、俺に助けろと命じたからここにいる。本当に覚えていないのか?」

 今度は白髪の男が困ったように問いかけてくる。いたずらや、からかっている風ではない。

「君があの時、助けて、と言ったから。俺は君の手を握った」

「あ……」


 漸く頭の中で繋がった。


「あの時……俺を運んでくれた人?本当に?」

 頷き返されて、困惑が一気に解けた。緊張が解け、その場にへたり込んでしまう。

「……ごめんなさい。気が緩んでしまって」

 視線を合わせるように、その場にしゃがむ白髪の男に情けなく笑いかける。

「思い出したか?」

「はい」

 今度はしっかりと頷いた。

 助けてくれた人にお礼がしたいとインタビューに答える時に、秘密にしていた事。


 ──意識を失いかけた自分にしてくれたことはなんですか?


 手を握ってくれたことを答えられた人は今までいなかった。今更のことだが、先程から彼が発する落ち着いた声音。確かにあの時に聞いた声──のように思える。

「──手を、握ってもいいですか?」

 ためらいなく差し出される指先。おずおずと握り返すと同時、遠夜は嬉しそうに笑った。冷たいがあたたかい。記憶に残る不思議な感触と一致したそれを、しっかりと握り締めた。

「……あの時」

 思わず両手でしっかりと握ってしまう。そのまま深々と頭を下げた。

「助けてくれてありがとうございました!……俺、ずっとお礼が言いたくて」

 道端で座り込んだまま手を握り締められても、白髪の男は気にする様子はない。ただ、どこか安心したような雰囲気を漂わせて遠夜を見ている。

「礼ならもう貰っている」

「え?」

 いつ?どこで?

 相手を「あの時助けてくれた人」と認識したのは今が初めて。いや、もしかしたら、運んでくれた最中にお礼を言っていたのかも知れないが──

「野菜を持ってきてくれただろう?主も喜んでいた」

 山の神様と言われる滝に野菜を備えに行った時、周囲には案内してくれた地元の人しかいなかった。

 隠れて様子を窺っていたのだろうか?それにしても、見ていただけでは「貰った」とは言わないのでは?

「それより……腰が抜けたか?」

 ある意味容赦ない問いかけ。う、と言葉に詰まる。

 実のところ、先程から立ち上がろうとは思っていたのだが、どうにも力が入らない。見栄を張っても仕方ないので、正直に頷いた。

「ごめんなさい……さっきのでびっくりしちゃって」

 立ち上がるために手を貸して欲しい。

 と続ける前に体が浮いた。

「なら、運ぼう」

 いわゆる「お姫様抱っこ」。予想外の体勢に慌てて腕を回し、必死にしがみついた。

「あ、自分で歩きますから……」

「俺が運ぶ方が早い」

 でも──と続けようとした遠夜の声が途切れた。しがみつく腕に自然と力が籠る。


 ──浮いていたから。文字通り、空中に。


 自分を抱いた白髪の男は、とん、とん、と軽い足取りで空中を歩く──というより、跳んでいる。

 何もない空を軽やかに踏みしめ、跳ぶたびに街の景色が滑るように後ろへ流れていく。

 風が頬を叩き、髪を乱す。夢か幻かと錯覚するほど、現実離れした光景。

 こんな空中浮遊──ならぬ跳躍をしていたら、誰かが騒ぎそうなものだが、静かなままで。

 白髪の男と自分だけが別の空間にいるような。そんな感覚にしがみつきながら、男の顔を見上げる。


 ふわりと風が長い髪を煽って顔がはっきりと見える。光の当たり方で色を変える目が、月明りを反射するのに息を飲む。

 吸い込まれそうなほどの深い色。その美しさの奥に、ぞっとする底知れなさを感じた。

 

 そのまま、何も言えずに空中散歩は終わり、遠夜の住む部屋の前へと「着地」した。

 なぜ、彼は自分のマンションを知っているのだろうか。

 なんて疑問は、今の超跳躍に比べれば些細なことで。ゆっくりと下ろされ、地面に足をついて立ちながら、遠夜は深呼吸した。

「……あなたはいったい……」

 白髪の男はゆっくりと首を傾げる。改めて自分の胸に手を当てると、軽く頭を下げた。

「長い年月。主の傍で人の言葉を聞いてきた水溜まりの一つ」

 通常であれば、何を言っているのかと眉をひそめたかも知れない。だが、実際に今、自分を抱いて空を跳んだ男の言葉を、聞き捨てる事も出来なくて。

「君の願いを聞き入れた主が、俺を選んだ──だから」


 君を守る。


 真っ直ぐに告げられる言葉に、黙ってうなずくことしか出来なかった。

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