水音が紡ぐ恋歌

あげいも

第1話 時の人

──つめたい。


 ぼんやりとした意識の底で、最初に感じたのはそれだけだった。

指先か、足先か。あるいは、全身。記憶が混濁し、己の輪郭さえはっきりしない。

 ゆっくりと瞼を開けようとするが、体に力が入らない。


──そうだ。俺、滑り落ちたんだっけ。


 趣味のトレッキング中、鳥の羽音に驚いて足を踏み外した。それが何時間前のことかは、もう曖昧だ。

 ツアーの参加者の悲鳴と添乗員が何か叫んでいた記憶はあるが、自分は動けず、冷たい地面に横たわっている。救助が来ないのは、厄介な場所に落ちたせいか。それとも──。


 思考が途切れかけた、その時。

 せせらぎが聞こえた。


 ──川?……近くにそんなのあったっけ……?


 上から見た時はわからなかっただけ?それとも、自分が思うより長い距離を転がり落ちた?

 ぼんやりした意識のままで考える。浮遊感というか、身体が浮いている気がする。落ちた時に頭を強く打ったのだろうか。

 そんなことを考えている間も冷たさが手足の感覚を奪っていく。リュックサックの中のアルミ毛布が、今はひどく遠い。

「……つめた」

 絞り出した声は、誰にも届かないはずだった。


「もう少しの辛抱だ。じきに着く」


 頭上から響いた静かな声に、心臓が跳ねた。

声の主を探そうにも、首は動かない。重くなる瞼に抗いながら、必死に言葉を紡ぐ。

「おれ、滑り落ちて……助けて、ください」

 姿は見えない。だが、誰かがいる。その事実だけが、切れかけた意識を繋ぎとめる。

 何かを掴もうと彷徨った指を、そっと握られた。


「ああ。だからもう、眠れ」


 握り返してきた指もまた、氷のように冷たかった。

 それなのに、不思議な温かさが体の芯に広がっていく。彼は、ゆっくりと意識を手放した。


        ◇◇◇◇◇◇◇


───転落した大学生、奇跡の生還


 そんな見出しが新聞やテレビを騒がせてから数か月。大物俳優の熱愛が発覚するまではそこそこに騒がれてはいたが、今はすっかり忘れられた……と思いたい。

「は~~……美味い」

 学食の日替わり定食を頬張り、穂積遠夜ほづみとおやは満足のため息を漏らす。今でも時折「あの山の人?」と遠巻きに囁かれることはあるが、ようやく平穏な日常が戻ってきた。


 このままそっとしておいてほしい、と遠夜は心から願った。


 テレビや雑誌に顔を晒され、大学の門前にまで記者が群がった日々は悪夢だった。

 知らない人間に質問攻めされ、カメラを向けられるたび胃が軋んだ。

 特別に許可を得て大学を休み、部屋に閉じこもったほどだ。

 今はようやく、二つのことに集中できる。

 一つは、滞った学業を取り戻すこと。

 そして、もう一つ。


──あの声の主を探し出すこと。


 意識が戻ったのは、病院のベッドの上だった。

「捜査隊と一緒に山を登ろうとしたら、宿の入り口近くに倒れていた」

 添乗員はそう語った。 眠っている間に医者が体を調べたが、擦り傷がいくつかあった以外は目立った外傷もなく、まさに奇跡と呼べるほどの軽傷だったとのこと。

 ただ、不可解な点があった。

 倒れていた彼の周囲だけが、雨も降っていないのにびっしょりと濡れていたらしい。

「山神様のご加護だって騒いでましたよ」

 数日後、看護師がこっそり耳打ちしてきた。

「昔から言い伝えがあるんです。困った人が山奥の滝に願うと、神様の使いが助けに来るって。ただし、お礼を怠ると、今度は大事なものを奪われる……って」

 笑いながらそう話したが、遠夜には笑えなかった。氷のような指先で感じた、不思議な温もり。あれは確かにあった。


 退院した後、道の駅で購入した野菜をもって、山の神様──と言われている滝へとお参りに向かった。案内してくれた地元の人には

「野菜をそのまま放置すると、野生動物に食い散らかされるから持って帰ってくれ」

と言われたので、滝の水につけた後、持ち帰った。

 言われた通り、食卓で「神様もご一緒に」と呟いてはみたものの、その言葉はどこか空々しく響いた。「神様の使い」などという伝承を、本気で信じているわけではないのだ。

 通りすがった誰かが運んでくれたのだろう──そう考えてはいるが、地元の人に尋ねても、誰も心当たりがなかった。


 テレビや雑誌を見て、助けたのは自分だと名乗り出る人もいたが、どれも本物ではなかった。

 高額な礼金などは難しいが、せめて誰が助けてくれたのか知りたい。そして一言だけでも、礼を伝えたい。


 何よりもあの指の冷たさ。

 退院してからも、あの感触は何度も夢に現れた。夜中に目を覚ますと、自分の指が誰かを求めるように宙を彷徨っていることさえある。


 だからこそ、探さずにはいられない。


 我知らず溜息が出てしまう。食べ終えた食器を返却するため、トレイをもって立ち上がった。

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