河嶋隼人の独白
──母を、愛していた。
優しく名を呼んでくれる。目が合えば微笑みかけてくれる。いろんな話をしてくれる。左目の下にある泣きぼくろが印象的な、美しい母。
幼い頃から、母が父に接しているところを見ているだけで何故か苛立っていた。河嶋にするように優しく父を呼び、微笑みかけ、話をする母。特別なのは自分だけでいいはずなのに、何故父にまでそうするのかと。
一度、母に問いかけたことがあるが「お父さんも隼人も愛しているからだ」と答えられてしまった。母から愛されているのは、自分だけではなかったのだ。
その日から、河嶋は父のことが嫌いになった。早く死ねばいいのにと、思うようになった。父が死ねば、母が自分だけのものになるからだ。インターネットが手軽にできる時代であれば、殺し方を検索していたことだろう。それくらいに、父の死を望んでいた。同時に、母に抱くこの感情は何なのかを模索していた。
独り占めしたい。愛されたい。特別でいたい。
あれは、中学生の頃だっただろうか。ようやく答えに辿り着くことができた。一人の女子生徒に好きだと告白されて、初めて母への感情に名が付いた。
この感情の名は、愛だ。母を一人の女性として愛しているのだ。
そう自覚してから、河嶋の苛立ちはますます膨れ上がるようになった。母を独り占めしたくても、愛されたいと願っても、特別でいたくても。父が邪魔をする。
この苛立ちをとにかく発散したかった。考えた末、河嶋は気に入らない父をとにかく殴り飛ばすことにした。
父が母に触れたら殴る。父が母に話しかけたら殴る。
成長して体格も良くなったからか、昔は大きく見えた父が今は小さく見え、抵抗されても痛くも痒くもない。苛立ちの発散にはちょうどいいと、父が母に何かするたびに殴った。
そうしているうちに、今度は母が河嶋を恐れるようになってしまった。
優しく名を呼んでくれなくなった。目を合わせてくれなくなった。話をしてくれなくなった。
こんな母は、母ではない。
母は優しく名を呼んでくれなければならない。
母は目を合わせて微笑んでくれなければならない。
母はいろんな話をしてくれなければならない。
「俺は母さんを愛しているよ。母さんも俺を愛しているんだろう? だったら、母さんはどうするべきかわかるよね?」
母が怯えながら名を呼ぶたびに叩いた。目を逸らすたびに叩いた。話をせずにどこかへ行こうとするたびに叩いた。
そうやって、叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて。母とはこうあるべきなのだと、正しい方向へと導いていった。母もわかってきたのか、元に戻ってきた。
だが、それでも一日に一回は母ではない行動を取る。何度も何度も何度も何度も何度も教えこんでやったのに。
気が付けば、河嶋は母を殴り倒していた。起きあがろうとする母に馬乗りになり、何がいけなかったかを延々と話しながら殴った。髪を掴み、床に頭を打ち付けた。間違ったらどうなるかをその身にわからせるために。染み込ませるために。
飛び散る血。抜けた歯。形が変わってしまった鼻。指に絡みつく何十本もの髪の毛。河嶋の気が済んだ頃には、母の美しかった顔は原型を保っていなかった。
意識も、なかった。
両肩を掴んで揺さぶり、母を呼ぶ。口に溜まっていた血が端から流れ出るだけで、返事はない。胸に耳を当ててみれば、鼓動も聞こえなかった。
母は、いつの間にか事切れていたのだ。
それに腹が立ち、河嶋は立ち上がると母の腹部へ足を踏み下ろした。何回も、何回も。そのたびに母の身体はびくりと跳ねて、血が飛び散った。
間違いを正してやっていたところだったというのに、何を勝手に死んでいるのか。ふざけるのも大概にしてほしい。これからだというのに、自ら正しい母であろうとすることを放棄するなんて。
異変に気がついた父に止められるまで、河嶋は母の身体をいたぶり続けた。
「……警察には、金を握らせた。母さんは、事故で亡くなったことにする。村全体にも箝口令を敷いた。これで、お前の罪は明るみにはならない」
罪。罪とは何のことか。河嶋は本気で父の言っていることがわからなかった。
あれは間違いを正そうとしていただけのこと。その際に、母が勝手に死んだのだ。それを河嶋の罪だというのなら、母の方が余程罪深い。こんな戯言は聞いていられないと部屋を出ようとすると、父に呼び止められた。
「隼人、高校は外部を受験しろ。ここへは、戻ってくるな」
言われなくても、戻らない。あれだけ愛していた母が、もういないのだから。
どこでもいいと適当に村の外にある高校を選んで受験し、卒業すると適当に大学へ入った。何人もの女性から告白されたが、誰も母とは似ても似つかず、付き合っても数週間と続かなかった。
そこで、河嶋はあることに気がついた。母が亡くなってから、何年も経っている。輪廻転生という言葉があるが、その意味のとおりであれば、母は生まれ変わっているのではないかと。
どこかで母に会えるかもしれないと、高校の教員免許を取得した。教員採用試験を受けて合格し、これで母探しが捗ると喜んだ矢先のこと。
配属先は、あの村にある高校になった。
理由は簡単だ。河嶋の出身地が、そこだからだ。
河嶋は落胆しながら実家へと戻った。村へ戻ってくるな、うちの敷居を跨ぐなと父は喚き散らしていたが、殴り飛ばしてしまえば静かになった。
小さな村ではすぐに噂が広まる。母を死なせておいてよくもまあ戻ってこれたものだと。こちらも戻りたくて戻ってきたわけではない。うんざりだったが、河嶋は外面だけは良くするように努めた。
あの頃とは変わったのだと、村民に思わせるために。
そうすれば、居心地も変わる。河嶋を見る目も変わる。今は残念ながら信用も信頼も地に落ちてしまっているが、それを勝ち取っていけば河嶋の言葉がすべてになっていく。何があっても、どうにでもできるようになる。
そして、入学式。一年生の担任を受け持つために体育館に入り、始まるまでパイプ椅子に座ることなく壁に背を預けていた。手に持っているバインダーには一年生の名簿が挟まれているが、捲っただけで特に目は通していない。母以外の者には興味なんて欠片もないからだ。
はあ、と溜息を吐いてバインダーから目を逸らしたときだった。一人の幼い子どもが辺りを見渡していた。どうせ暇を持て余しているだけだろうが、周りの目もある。一応声をかけておくべきかと、河嶋はその子どもに近付いた。
「どうしたの? お父さんか、お母さん、は……」
わざとらしいほどの優しい声をかけると、子どもが振り向く。
その顔を見て、心臓が止まるかと思った。
「おかあさんはね、あっちですわってるよ! はるなはね、あのね……おねえちゃん、まだかなあって。えへへ」
笑った顔、左目の下にある泣きぼくろ。まだこの子のことは何もわからないが、訊いていないことをこんなにも喋るのだ。話すことも好きなはず。
ああ、何もかもが母と同じではないか。
あんなにこの村へ戻ってくることが嫌だったはずなのに、今は戻ってきてよかったと本気で思っている。また、こうして母に会えるなんて。
名を、名を呼んでほしい。今すぐに。河嶋はごくりと喉を鳴らすと、笑顔を作って子どもに話しかけた。
「俺は、河嶋隼人って言うんだけど、君のお名前は?」
「たかはしはるなです! もうすぐよんさい!」
「はるな、はるなちゃんか。あのさ、俺のこと……一回だけでいいんだ、隼人って、呼んでくれる?」
「うん、いいよ。えっと、はやと?」
思わず抱き締めそうになったが必死に堪え、右手を伸ばして頭を撫でた。そのまま頭の形をなぞるように手を沿わせ、左目の下にある泣きぼくろを親指で触れる。
今、目の前に母がいる。紛れもなく母だ。
たかはしはるな。なんて、なんて愛おしいのだろう。早く自分のものにしたい。名を呼んでもらって、微笑みかけてもらって、話しかけてもらうのだ。傍に置いて、今度は絶対に離さない。死ぬことさえも許さない。
とはいえ、今はまだ何もできないため、不良品の代替品で仕方なく欲求を誤魔化した。春奈が成長するまでの我慢だと言い聞かせて。
それなのに、代替品に邪魔をされてしまった。何とか気付かれずに処理はできたものの、教育委員会側は事態を重く見たらしい。河嶋に異動命令が出てしまった。
またしても村から追い出された河嶋は、毎年春奈の誕生日を祝いながら、あと何年、あと何年、と数えてきた。春奈が高校生になってからは担任を調べ上げ、金と一年半の交渉の結果、異動希望を出させることに成功。その際に河嶋も異動希望を出し、春奈が高校三年生を迎えたときにやっと戻ってくることができた。
これで、春奈が手に入る。離れていた間、どれだけ寂しかったか。変わっていれば、母や代替品にやっていたように正してやればいい。時間はたっぷりある。思う存分に愛してやれる。
そう、思っていたのに。どうして、自分は地面に倒れているのか。全身が痛い。指一本動かすことができず、呼吸もままならない。
春奈。春奈はどこだ。春奈、春奈、春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈春奈。
「……っ、が、は、うあ」
名を呼びたいのに、叫びたいのに、声を出そうとすると喉の奥から流れ出る血が邪魔をする。
そのとき、どこからか悲鳴が聞こえてきた。この声は、春奈だ。愛おしい春奈の声を、聞き間違えるはずがない。
春奈が心配してくれている。ここで倒れている場合ではない。春奈がいるところへ戻り、心配ないと抱き締めてやらなければ。あの子はしっかりしているように見えて、実は脆い子なのだから。
頭が僅かに持ち上がる。動く、動かせる。人間、その気になれば何とでもなるものだ。河嶋は血を流しながら口元を綻ばせた。
「は、る」
《気持ち悪いんですよ。さっさと死んでください》
首の骨が、大きな音を鳴らした。
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