歪んだ愛情の行く末は④

 あまりにも衝撃的で呼吸がうまくできず、口の中が乾いてしまって声が出ない。

 川田を殺そうかなんて、そんなことを笑顔で言うなんて。春奈は辛うじて首を横に振るのが精一杯だった。


《お姉ちゃんは、春奈の味方だから。ほら、笑顔でいられる場所を私が作ってあげるって、前に言ったでしょ》


 そうだ、言っていた。言っていたが、誰かの命を奪って作られる笑顔でいられる場所などはいらない。

 言わなければ。“あの子冬華”に、もう人の命を奪わないでほしいと。河嶋のことも、許してあげてほしいなんてそんなことは言わない。そもそも、許す必要だってないのだ。この男がすべての元凶であり、“あの子冬華”を殺したのだから。

 だからといって、“あの子冬華”が手を下していいわけでもない。春奈だって、河嶋によるこれまでの“あの子冬華”に対する仕打ちや暴力は許せない。可能なのであれば、自分の手で仕返しをしてやりたいとも思う。

 しかし、それは許されていないのだ。河嶋は然るべき手段で、法によって裁かれるしかない。

 ふう、と息を吐き出して心を落ち着かせると、春奈は“あの子冬華”を見た。


「お姉ちゃん、これまでありがとう。わたしのことを、一番に考えてくれて」


 嫌がらせをする人間がいなくなれば、嫌がらせはなくなる。実際に嫌がらせは減っていき、最終的にはなくなった。それに対し、喜んだのも事実だ。

 でも、と声を強める。

 今から言うことは、ただの綺麗事。けれど、ここで“あの子冬華”止められるのは、春奈しかいないのだ。


「もう、人の命を奪うのはやめよう。されたことに対して許すことなんてできないけど、わたしはお姉ちゃんにこれ以上誰かを殺してほしくないよ」


 殺してほしくない、という単語を聞いて、河嶋は自身の生殺与奪の権が姿が見えない“あの子冬華”が持っているのだと気付いたようだ。大きな唸り声を上げながら身体を捩り、手足をばたつかせる。言葉が発せないため、全身で「死にたくない」と訴えているようだ。

 その姿を見て、いい気味だと思ってしまった。自身の母親や冬華、春奈へと散々恐怖を与えてきたのだ。少しは死ぬかもしれないという恐怖を味わうといいと。

 河嶋を一瞥すると、“あの子冬華”へと視線を戻した。春奈の回答を聞いてかは知らないが、眉を顰めて首を傾げている。


《春奈、優しすぎるのも良くないよ》

「え?」

《許せないんでしょ? だったら、お姉ちゃんが殺してあげるから。ね?》


 話が通じない。春奈は必死に首を横に振った。


「……っ、許せないけど、そんなことはしないでほしいの! お姉ちゃん、天国に行けなくなっちゃうよ!」

《そんなところに行けなくてもいいよ。私は春奈の傍にいられたらそれでいいの》


 このままでは、河嶋はもちろんのこと、川田まで“あの子冬華”に殺されてしまう。どうにかして止めなければ。

 ふと時計が目に入った。今の時間は十六時五十五分。あと五分で十七時になり、両親が春奈を迎えに行こうと家を出る時間。学校に着けば、まずは職員室へと寄るだろう。そこで呼び出しがかかり、しばらくしても春奈が姿を現さなければ教室へと向かうはず。そこでもいなければ、担任である河嶋がどこにいるか調べ、化学実験室の鍵がないとわかればここに来る。

 かなり時間を稼がなければならない上に、春奈が考えているとおりに事が進む保証はどこにもない。それでも、これしかない。


「……川田さんを、その、殺したら、またあの桜の木に吊るすの?」


 震える声で、春奈は“あの子冬華”に声をかけた。


《そうだよ。春奈は小さかったし、誰も本当のことを伝えていないと思うから知らないだろうけど、私もあの桜の木に吊されたんだ。……河嶋先生に、首を絞めて殺された後にね》


 中原も疑っている様子だったが、考えていたとおり、冬華は自殺ではなかった。

 どこかで河嶋に殺された後、自死のように見せかけるために桜の木に吊されたのだ。

 すると、“あの子冬華”が空中に浮いたままの河嶋へ視線を向けた。顔を青ざめさせ、大きな呻き声を上げながら暴れ続けている河嶋だが、ふいにその動きを止めた。目を大きく見開き、カタカタと身体を震えさせる。もしかすると、姿が見えるようになったのかもしれない。


《ねえ、河嶋先生。そうですよね? この教室で私の首を絞めて殺して、そのあと桜の木に吊るしたんですよね? 同じように二人ほどあの桜の木に吊るしてみましたが、見たときどう思いました? 私のことを、思い出してくれました?》


 化学実験室に呼ばれたのは、一番奥まったところにあり、誰も近付かないからだと思っていたが、どうやら当たりだったようだ。河嶋にとって使い勝手が良く、冬華はここで殺されてしまった。これまで何も知らずこの教室を使っていたことに、気持ち悪さが込み上げてくる。

 ここは、殺人現場ではないか。何も知らない教師や生徒はともかく、河嶋はよく平然としていたものだ。

 まだ言葉を発せない河嶋は、何かを訴えようと声は出すものの何を言っているかわからない。それを見ていた“あの子冬華”は「あっ」と小さく声を出し、ニコリと笑った。


《すみません、お口を閉じてましたね。はい、どうぞ。これで話せますよ》

「あ、ああ、あれはお前が悪いんだろうが! 俺はただ春奈を愛しているだけだっていうのに邪魔をしやがって! だから殺してやったんだよ、俺と春奈の未来のために! どうせお前は春奈の代わりにすらなれない不良品だったからな、処分するいい理由になったよ!」

「……っ、よ、よくもそんな酷いことが言えますね! 自分がどれだけ身勝手で非道な行いをしたのかわかっていますか!?」

「身勝手? 身勝手なのは冬華こいつだろう? 俺への逆恨みもいいとこだ! おい、さっさと離せよ!」


 いまだに河嶋の身体は震えているのに、強気を装っている。

 “あの子冬華”に手を出させてはならない。法で裁いてもらわなければならない。そうわかっていても、腸が煮えくり返る。この男を殺してやりたいとすら思ってしまう。

 憎い。河嶋が、憎い。身勝手なのはどちらだ。逆恨みをしたとしてそれの何が悪い。それだけのことをしてきたのは、誰だ。

 感情が荒ぶり、呼吸がままならない。落ち着かなければならないのに、河嶋を罵ろうと言葉が喉まで出かかっている。


《ね、春奈。こんなの、生きてる価値ないでしょ? 殺しちゃった方がいいでしょ?》


 張り詰めた空気に合わない明るい“あの子冬華”の声が教室に響いた。


《生きている限り、この男は春奈を追い詰めてくるよ。こんな奴は、殺さなくちゃ。春奈の人生に必要ないよ》

「お、おい、何を言ってるんだよ冬華! 何も変なことを言ってないだろ? 全部俺と春奈の未来を思ってのことだ!」

《頭の悪い人ですね。仮にも教師なのに、私の言っていることがわからないんですか? 春奈の未来に、お前はいらないって言ってるんです》


 冷たい声で言葉を投げると、浮いたままだった河嶋が窓側へと移動していく。窓の鍵は閉まっているはずなのだが勝手に開き、全開になった。

 風が入り込んできて、春奈の頬を撫でていく。河嶋はというと、上半身が外に乗り出していた。


「や、やめろ、やめろやめろやめろ! なあ、冬華……あ? 冬華? 冬華!? どこだよ!」


 執拗に“あの子冬華”の名を呼ぶ河嶋だが、彼女は彼のすぐ傍にいる。また姿を見えなくさせられたのか。


「くそっ、何でだよ! 何で離れられないんだ! おい! 春奈! 座り込んでないでさっさと俺を助けろよ!」


 言いなりになるのは癪だが、ここで助けなければ河嶋が死んでしまう。殺したいほど憎いが、“あの子冬華”の手を汚させたくない。

 そのとき、化学実験室の扉を叩く音が聞こえた。そちらを振り向くと同時に、教頭と春奈の両親が入ってくる。

 間に合った。ほっと胸を撫で下ろしていると、涙目になった母親にきつく抱き締められた。


「河嶋先生、何をしているのですか! 今すぐ窓から離れなさい!」

「あ、ああ、教頭先生! 助けてください! 離れたくても離れられないんですよ!」

「何をおかしなことを! 早く離れなさい!」


 河嶋の傍にいる“あの子冬華”の姿は、春奈以外には見えていない。この状況を楽しんでいるのか、クスクスと小さく笑っている。


「お願いだよ! 助けてくれ! 誰でもいいから!」

《じゃあ、助けてあげますよ。苦しいし、怖いですもんね》

「ふ、冬華? どこにいるんだ? 俺を助けてくれるのか?」


 冬華、と名を呼んで辺りを見渡す河嶋に、両親は顔を見合わせる。何も見えていない、聞こえていない者からすれば、河嶋の異常行動として捉えられているだろう。教頭も不思議そうな顔をしている。

 “あの子冬華”も意地が悪い。姿は見せず、声だけを聞こえるようにして。それよりも、本当に言葉のとおり河嶋を助けるのだろうか。何だが胸騒ぎがすると“あの子冬華”を見ると「春奈」と優しく名を呼ばれた。


《お姉ちゃんは、何があっても春奈の味方だからね。ずっと傍にいて、絶対に守ってあげる》


 冬華のノートの最後に書いてあった言葉だ。

 いつも見せてくれていた優しい微笑みを浮かべると、“あの子冬華”は河嶋の背に抱きついて共に窓の外へと落ちていった。

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