歪んだ愛情の行く末は③

 視界が白く弾ける。

 息ができない。

 声が出ない。


「春奈ぁ、お前は俺にそんな口の利き方をしたら駄目だろうが」


 首を絞める河嶋の両手を引き離そうとするも、苦しさから力が入らない。何とか爪を立てるくらいが精一杯だ。

 それでも、河嶋には何の意味もなさない。力が緩まることはなく、首を絞められたまま机の上に叩きつけられてしまった。背中に鈍い痛みが走るも、それよりも息ができないことのほうが苦しい。更に両手に力が込められ、酸素不足により目の前が霞み始めた。何とか今出せる力でもがいていると、河嶋の顔が鼻先が当たる距離まで近付いてきた。


「お前は俺に笑いかけて、話しかけていればそれでいいんだよ。春奈はそういう存在なんだから。決して俺を否定するな。拒むな。いいな」


 そこでようやく両手が離れた。首が解放され、堰き止められていた空気が一気に身体に入り込む。ひゅ、と喉が鳴り、春奈は激しく咳き込んだ。机の上で身体の向きを変えて胸元を押さえていると、背中を優しくさすられた。誰がそうしているかなど、確認しなくてもわかる。

 河嶋だ。自分でこのような状況に追い込んでおきながら、優しく接して心配する素振りを見せる。肩で息をしながら、春奈はゆっくりと身体を起こして河嶋を見た。目が合うと河嶋は眉を八の字にし、心配そうに微笑んで首を傾げてくる。

 この男は、異常だ。


「あなた、おかしいんじゃ、ないですか」

「おかしい? 何がだ? 春奈が苦しそうにしてるのに、俺が心配するのは当たり前だろう?」


 こんなにも苦しい目に遭っているのは誰のせいだと思っているのか。やはり、この男のことは理解ができない。本当に同じ人間なのかと、疑いたくなるほどだ。

 そのとき、顔面に手が押し付けられた。まだうまく力が入らない春奈は抵抗することができない。軽々しく持ち上げられたかと思うと、机の上から投げ飛ばされた。硬い床に身体を打ち付けるもその勢いは失われることはなく、そのまま転がって壁にぶつかった。痛みから身体を丸めていると、腹部を押し付けるようにして足できつく踏まれる。


「それよりも春奈。お前、俺に対しておかしいってなんだ? なあ」

「……っ、う、ぐ」

「なあ、おい、春奈。俺が言ったことを理解しているか? 俺のことは拒否をするな、拒むなと言っているんだ。簡単なことだろうが」

「な、なん、で、そんなこと」

「はあ? むしろ何でこんなことが理解できないんだよ。春奈は俺のことを拒否しないし拒まないんだ」


 腹部を圧迫していた足がどけられたかと思うと、河嶋はしゃがみ込み、春奈の髪を掴んで頭を持ち上げてきた。痛みから顔を歪ませると、ニタリと意地の悪い笑みが向けられる。


「俺の母さんはそれを理解してた。でも、たまに反抗的な態度を取るからそのたびに殴ってたら死んだ」

「な……何で、実の母親に、そんな酷いことができるんですか」

「酷い? 間違いを正してやっていただけなのに、勝手に死にやがったのは母さんだよ。で、お前の姉ちゃんは馬鹿だから、俺に歯向かってきて死んだ」

「……っ、そ、そんな、言い方」


 河嶋に、冬華の何がわかるのか。冬華は河嶋が言うような馬鹿ではない。

 何をされても春奈のためにとどんなことでも耐え、最期は河嶋に立ち向かった強い姉だ。そんな人を馬鹿と罵って、嘲笑うなんて。

 許せないと睨みつけるも河嶋は気にすることなく、春奈の耳元へ唇を寄せて小さく呟いた。


「春奈は、あいつらとは違うよな?」


 掴まれていた髪の毛から手が離れ、頭を床に打ち付ける寸前で何とか持ち堪えた。足で強く押さえつけられていた腹部を右手で押さえながら、春奈は河嶋へ視線を向ける。


「……どうして、そこまでわたしに拘るのですか。似ているからですか、あなたの母親に」

「そうだな、すごく似ている。母さんが戻ってきたと思ったくらいに」

「わたしは、あなたの母親じゃない」

「ははっ、そうだな。春奈は俺の母さんではない。ただ、こんなにも似てるんだ。これはもう母さんのようなものだろう?」


 生まれ変わりだとでも言いたいのだろうか。輪廻転生というのは存在するのかもしれないが、ただ容姿や仕草が似ているだけのこと。春奈が河嶋の母親の生まれ変わりかどうかなど証明の仕様がない。

 と、否定したいところだが、ここへ来てから受けた暴力が春奈を怯ませる。下手に発言ができないと口を噤んでいると、両手で優しく顔が包まれた。


「俺はずっとずっとずっと母さんを愛してた。俺だけに向けてくれる微笑み、俺だけに話しかけてくれる可愛らしい声。いなくなってから心に穴が空いて、何度も何度も代わりで埋めようとしたけれど駄目だった。所詮、代わりは代わりにすぎない。本物に敵うわけがないんだ。だけど、この微笑み、この可愛らしい声。母さんと同じ位置にある泣きぼくろ。これを本物と言わずして何を本物と言うんだ? ああ、やっと、やっと俺の元に帰ってきてくれたね。初めて会ったあの日からお前を愛しているよ、春奈」


 恍惚とした表情で語り終えると、河嶋の顔が近付いてくる。

 思考が停止するとは、このようなことを指すのだろう。聞いている間、何も考えられなかった。言っていることが支離滅裂で、それで愛していると言われても何も心に響いてこない。河嶋が自分のことしか考えておらず、相手はおざなりになっているからだ。どこまでもどこまでも自己中心的で、自分の欲求を満たすことだけが生きる糧のようだ。

 春奈は腹部を押さえていた右手をそっとブレザーのポケットに入れ、隠し持っていたカッターに触れた。なるべく音を鳴らさないよう静かにカチ、カチ、と刃を出していく。

 刺すつもりはない。傷つけるつもりもない。威嚇に使用するだけだ。こんなものを使わずに終えたかったが、河嶋には常識が通用しないのだから仕方がない。

 鼻先が触れ、唇が押し当てられそうになった刹那。今だとポケットからカッターを取り出そうとした──が、突如目の前から河嶋が消えた。

 何が起きたのだろうか。まるで、風にでも攫われたかのようだ。呆然としていると、少し離れたところから慌てるような声が聞こえてきた。そちらに視線を向けたとき、河嶋が床からすっと持ち上がった。足が宙を切り、靴底が床を擦る音が消える。腕や足を空中でばたつかせ、先程とは打って変わって顔は真っ青だ。

 そして、そのすぐ近くには、怒りの形相をした“あの子冬華”の姿があった。


「え……? な、何を、してるの?」

「あ、あ、何だよ、何だよこれ! おい、春奈! お前、何か見えてるのか? 見えてるなら何とかしてくれ!」


 どうも河嶋には“あの子冬華”が見えていないようだ。


「ね、ねえ、お姉ちゃん。河嶋先生に何をするつもり?」

「はあ!? お姉ちゃん!? っていうことは、冬華か!? おい! 冬華が何かしてるのか!? 答えろよ!」


 河嶋のことなどどうでもいい。それよりもまずは“あの子冬華”だ。話しかけたところで返事がないのはわかっているが、話しかけずにはいられなかった。

 しかし、“あの子冬華”はこちらを見て目を細めると小さく口を開いた。


《言ったでしょ、私は春奈の味方だって。ずっと傍にいて、絶対に守ってあげるって》


 会話が、できる。いつもはノートや黒板に文字だけで示してくれたのに。

 今、“あの子冬華”の口から言葉が出た。声を発するのは、初めてのことだ。


《けど、ごめんね。傍にいるって約束をしたのに、私は河嶋先生のところにいたの。村から追い出したところで、この人なら春奈に何かするかもしれないと思って》


 今になって存在を確認できるようになったのは、そういうことだったのか。

 長きにわたって、心配をかけてしまっていた。遠くから、守ってくれていた。改めて“あの子冬華”の優しさが心に沁みる。されど、今はそれに浸っている場合ではない。

 いや、浸れない。“あの子冬華”の優しさに偽りはないが、かといって素直にそのすべてを受け入れることはできない事実がある。


《……ねえ、河嶋先生。私、あなたのことを見てたんですよ。知らなかったでしょう》


 河嶋には“あの子冬華”の姿は見えていないし、声も聞こえていない。何故自分が空中に浮いているのか。身動きが取れないのか。自分の身に起きた超常現象にパニックを起こし、春奈にひたすら助けを求めている。

 その河嶋の情けない姿を哀れなものを見るような目つきで見ながら、“あの子冬華”は話を続ける。


《常にあなたの傍にいた。少しでも何か動きを見せれば、殺してやろうと思って》


 肌がチリチリとする。これが何を意味するのかはわからないが、最後に言っていた「殺す」という言葉。あれは冗談なんかではない。

 ──本気だ。


「ま、待って、お姉ちゃん。まさか、それって、今も? 今も、そう思ってるの? だから、こんなこと」

「なっ、何だ!? お、おい、春奈! 冬華は何を言ってるんだよ!? 俺にもわかるように説明しろよ!」

《うるさい》


 喚いていた河嶋の口が何らかの方法によって塞がれてしまった。今は言葉にもなっていない大きな呻き声のようなものだけが聞こえてくる。

 これが、あの優しかった冬華なのか。

 戻ってほしい。戻ってきてほしい。春奈の記憶の中にある冬華に。

 それなのに、何と言葉をかければいいかがわからない。どうすればいい。どうすれば。


《ねえ、春奈。河嶋先生はもちろんなんだけど、あと一人、どうする?》

「……あと、一人?」

《靴箱から上靴を放り投げてた奴がいたでしょ? 自宅に引き篭もっているし、自分で死んでくれるかなあと思って見てたけれどしぶとくて》


 川田のことだ。

 ああ、わかってはいた。わかってはいたが、信じたくはなかった。何かの間違いであってほしいと、そう思っていた。

 だが、これで確実なものとなった。笹山も、畑中も。“あの子冬華”が手を下したのだ。

 声が出ない。何でそんなことをしたのか。命を奪う必要などなかった。河嶋への脅しだったのならば、別の方法はなかったのか。言いたいことはたくさんあるが、何一つとして出てこない。

 そんな春奈に対し、冬華は優しく微笑んだ。


《お姉ちゃんが、殺しておこうか?》

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