歪んだ愛情の行く末は②

 教室へ戻ると書類を河嶋へ渡し、席に戻った。

 平常心を保とうとしているが、心臓はバクバクと激しく動いている。

 言った。言ってやった。話があると。

 河嶋もそれにのってきた。頼られたのが余程嬉しかったのか、今まで見せたことのない笑顔を見せて。それが、非常に腹立たしかったが。

 まずは落ち着こうと深呼吸をする。それでも心臓はうるさいほどに鳴っているが、授業に必要な教科書やノートと共に冬華の日記も出した。見つからないように教科書とノートで隠しながら、最後のページを開く。


『お姉ちゃんは、何があっても春奈の味方だからね。ずっと傍にいて、絶対に守ってあげる』


 その文字をなぞると、春奈は目を伏せた。

 この言葉のとおり、冬華は春奈の味方でいてくれた。まだ不明な点はあるが、傍にいて守ってくれていた。“あの子”として。

 ありがとう。素直にそう思いつつも、どうしても受け入れられないこともあった。

 あれは確か、笹山が亡くなったときだっただろうか。嫌がらせを受けていたが、クラスメイトが亡くなったという事実に落ち込んでいると、“あの子冬華”がこう言った。


『あなたが気にすることなんて何もないよ。むしろ、あなたに嫌がらせをする人間が一人減って良かった』


 あんな人間は死んで良かったのだと、不穏なことを言っていたのだ。

 春奈のためを想って出た言葉なのだろうと、今では思う。ただ、それを甘んじて受け入れてはいけない。元より、笹山や畑中が亡くなった原因もおそらくは──。

 伏せていた目を開けると筆箱からシャーペンを取り出し、春奈は授業用のノートに文字を書き出した。“あの子冬華”に宛てたものだ。

 ──全部、知ったよ。あなたは、お姉ちゃんだったんだね。

 いろいろと、冬華には謝らなければならない。

 冬華がいなくなったというショックから、記憶がなくなってしまっていたこと。そのため、これまで冬華だと気付かなかったこと。

 命に、手をかけさせてしまったこと。

 シャーペンを持つ手が震えて、続きが書けない。冬華と一緒に過ごせたのは、四年。たった四年だ。物心がついて記憶に残るようになるまでを差し引けば、間隔としてはもっと短い。

 けれど、思い出したからこそわかる。冬華と過ごした日々はとても楽しくて、とても幸せだった。

 妹としてたくさん可愛がってもらえて。抱き締めてもらえて。何よりも、大切にしてもらえて。

 だからこそ、これ以上冬華には傷ついてほしくない。

 自分の身も心も削りながら、春奈を守ろうとしなくていい。守るために、誰かの命を奪うこともしないでほしい。

 きっと、河嶋のことで心配で成仏せずに今も現世に留まっているのだろう。だが、安心してほしい。まだまだ頼りないが、冬華のおかげで立ち上がれるようになった。向き合えるようになった。

 河嶋と、戦う覚悟ができた。

 両親にもメールを送ってある。十七時までに帰らなければ、学校まで迎えに来てほしいと。

 春奈には冬華のように頼れる存在がいない。紬も「死にたくない」から媚び諂いに来るだけだ。また、教育委員会にも手紙を送ったと日記にはあったが、何の動きもなかったように思える。河嶋を再度村から出したのがそうなのかもしれないが、だとしたらあまりにも役に立っていない。またしても河嶋は村へと戻ってきたのだから。両親に迎えを頼んだのは、それらを踏まえて何かあった際の保険だ。

 ──河嶋先生は、わたしが村から追い出すからね。絶対に、もう戻って来させないようにするから。

 いつもなら返事があるのだが、今日は一向に“あの子冬華”からの返事はなかった。



 * * *



 すべての授業を終え、いつものように掃除をしようと道具を入れているロッカーへ行こうとすると右肩を叩かれた。振り向くと、紬が作り笑いを張り付けて立っていた。


「どうしたの?」

「え、えっと、河嶋先生が春奈は掃除しなくていいって!」

「……そうなんだ。でも」

「掃除なんてこっちでするからさ! それよりも、化学実験室に来てほしいみたいだよ!」


 化学実験室。この学校で一番奥まったところにあり、放課後になると特に誰も近付かない場所だ。よりによってそのような場所を指定してくるなんて。誰にも聞かれたくないだろうと配慮してくれた結果、だとは考えにくい。

 ふう、と息を吐き出し、紬に小さな声で「わかった」と返事をすると自身の机にも戻った。スクールバッグを机の上に置いて教科書などを詰め込むと、肩紐を左肩にかける。もちろん、冬華のノートも仕舞い込んだ。

 ちらりと紬の向こうに目をやれば、“あの子冬華”が険しい顔でふるふると首を横に振っていた。行くな、ということなのだろう。春奈は口角を僅かに上げ、口を開いた。


「……ありがとう。ごめんね」


 紬は不思議そうな顔をしていたが、春奈は顔を背けて机の間を通って教室を出た。向かう先は、河嶋が待っているであろう化学実験室。

 緊張から指先が冷えていく。きっと、今日が河嶋と話す最後の日になる。と、思いたい。でなければ、冬華がずっと縛られたままだ。そして、春奈も。

 静かな廊下を歩いて、化学実験室の前までやってきた。すう、と息を吸って深く吐き出すと、春奈は扉を二回ノックした。


「入ってくれ」


 中から河嶋の声が聞こえた。心なしか明るく聞こえたのは気のせいだろうか。


「失礼します」

「悪いな、誰にも聞かれなさそうな部屋がここしかなくて」

「いえ……ご配慮ありがとうございます」


 扉を閉め、河嶋に促されるようにして机の上にスクールバッグを置く。


「俺は嬉しいよ、高橋が頼ってくれて」

「……誰かに聞いてもらいたいと思ったとき、河嶋先生の顔が浮かんだので」

「嬉しいことを言ってくれるなあ。でも、俺も高橋と話したいと思っていたからちょうど良かったよ」

「わたしと、ですか?」


 河嶋が笑顔で近付いてくる。何となく嫌な予感がして後ろへ下がるも、机が邪魔をしてすぐに距離が縮められてしまった。

 右手がこちらへと伸ばされ、親指で左目の下を撫でられる。


「……っ!?」


 背をのけ反り、何とか河嶋の右手から逃れようとするも、両手でがしりと顔を掴まれてしまった。そのまま強引に引き寄せられ、撫でられたばかりの左目の下に軽く、いやらしい音を立てて唇が触れた。

 ちゅ、とわざとらしく鳴らされるリップ音。春奈は悲鳴を呑み込みながら渾身の力で河嶋の身体を押し返した。自身も机を避けて何歩か後ろへ下がり、右手の甲で何度も左目の下を拭う。

 汚い。汚い。今すぐ洗い流したい。全身の震えが止まらず、呼吸も荒くなる。肩で息をしていると、河嶋が肩を竦めながら目を細めた。


「おいおい、愛でただけだろう? ああ、そうか。慣れていないって言ってたな。これからもスキンシップはしていきたいし、俺としても慣れてもらわないと困るな」


 何を突拍子もないことを言っているのか。言葉を失っている間にも、河嶋は嬉しそうに目を細めて右手を差し出してきた。


。俺はお前と初めて会った日からずっとこの日を待っていたよ。やっと、やっとお前を俺のものにできる」

「……何を、言って」


 そういえば、冬華の日記に書いていた。

 春奈は、河嶋の亡くなった母親にそっくりなのだと。泣きぼくろの位置、笑った顔、おしゃべりなところなど、そう書いていたはず。

 あと、母親が戻ってきたと思ったと。

 河嶋と初めて会った日は冬華の入学式の日だが、まったくと言っていいほど覚えていない。冬華の日記を読んで「そうだったのか」と驚いたほどだ。どんな会話を交わしたかなどもさっぱりだが、河嶋なら一言一句覚えているのだろう。


「……まだ幼かったわたしが成長するのを、河嶋先生は待っていたのですか」

「そうだ。それまでは代わりで欲求を満たそうとしていたが、これが中々教育に骨が折れる。面倒なことにもなったし、もう二度とやりたくないね。やはり本人が一番だよ」

「面倒な、こと?」


 声が震える。

 冬華が、どれだけ耐え忍んできたことか。悲しくても、辛くても。誰にも言わずに一人で耐えて、一人で戦ったというのに。


「その代わりとは、わたしの姉の高橋冬華ですよね」

「そうだよ。それが?」

「わたしの話したいこととは、姉の冬華のことです」

「……はっ、何で今更」


 鼻で笑い飛ばしてはいるものの、河嶋の表情に僅かに苛立ちが見える。


「今更なんかじゃないです。何も、終わってないんですから」


 ぐ、と拳を作って握り締め、春奈は河嶋と向き合った。


「あなたは、姉が亡くなった日に会っていましたよね。何を話されていたのですか」

「落ち着け、春奈。誰かに何か吹き込まれでもしたのか? お前の姉は自ら首を吊って死んだんだ。俺は何も関係ない」

「笹山さんや畑中さんが首を吊った桜の木で、ですよね」


 これは鎌をかけたのだが、どうやら当たりだったようだ。河嶋は眉間に皺を寄せ、顔を曇らせる。


「あー、それで? 春奈は何が言いたいんだ? ん?」


 目が泳いでいる。余裕を見せようと必死に取り繕っている姿が滑稽だ。


「わたしは、あなたが姉を殺したのだと思っています。あなたが母親を殺したときのように、村全体で隠蔽したのではないですか」


 その瞬間、河嶋の目が見開かれ、血走ったように見えた。身構える暇もなく、両手が伸びて──春奈の首を、強く絞めた。

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