高橋冬華
高橋冬華①
──二〇一〇年四月八日。
今日は、村にある高校の入学式だ。冬華は新しい制服に袖を通すと、鏡を見る。三年間着ることになる制服だ。成長するだろうと踏んで大きめのサイズを購入したが、思っていたとおり大きい。スカートはそこまででもないが、ブレザーは袖が冬華の手を三分の一ほど隠してしまう。
かといって、ちょうどいいサイズを買えば途中から小さく感じ、新しいものが必要になるかもしれない。制服も決して安い値段ではないため、一回の購入で三年間着ようと思えばこれが最適解だ。そうは思うものの、見慣れていないからか気になってしまう。新生活への期待と大きすぎる制服への戸惑いを抱きながら、スクールバッグを片手に部屋を出るとリビングへ向かった。
階段を降りてリビングの扉を開けると、ふわりと香るコーヒーの良い匂い。キッチンからはじゅうじゅうと何かが焼ける音が聞こえ、テレビからは教育番組の歌が流れている。高橋家のいつもの朝だ。
「お父さん、お母さん、おはよう」
「冬華、おはよう。ああ、そうか。今日から高校生か」
ソファーに座って新聞を読んでいた父親が冬華を見て目を細めた。
「そうだよ。でも、ちょっと制服が大きいかなって気になっちゃって。まだこの姿に慣れてないからかな」
「成長期なんだし、すぐにちょうど良くなるわよ。よく似合ってるわ」
キッチンから母親が顔を出し、制服姿を見て微笑む。そうは言ってくれるが、今だと制服に着られているようにしか見えない。
早く成長したいと思いつつ、スクールバッグを扉の近くに置いてテレビの方へ。冬華が入ってきたことにも気付かないほど真剣にテレビを見ている小さな背中が見え、ついつい口元が綻ぶ。
冬華は音を立てずに静かに近付くと、その背中に抱きついた。
「はーるなっ! おはよう!」
「びっくりしたあ、おねえちゃんだ! おはよう!」
春奈の花が咲いたような笑顔に感極まり、彼女のやわらかい頬に自身の頬を擦り寄せる。楽しそうに笑う幼い声が耳元で聞こえてきた。
妹の春奈は今年四歳になる。冬華とは一回り離れているため、生まれる前からその存在が可愛くて堪らなかった。生まれてからは春奈が何をしていても可愛く、常に口元が緩みがちだ。
顔は幼い頃の冬華とよく似ている。双子として生まれてくるはずだったのだろうか、などと考えてしまうくらいだ。唯一違うのは、春奈の左目の下にある泣きぼくろか。
可愛くて、とても大切で、とても大事な妹。目に入れても痛くないとは、まさにこのこと。
「おねえちゃん、あたらしいふくかわいいね」
「本当? 可愛い? 変じゃない?」
頬を離すと、春奈は満面の笑みで大きく頷いた。
「うん、とーってもかわいいよ」
「……っ、春奈、今日帰りにプリン買ってあげるね」
「プリン? はるな、おさらにプッチンできるプリンがいい!」
「もちろん! 春奈はプッチンしたいもんね」
大きめの制服を気にしていたが、春奈から「可愛い」と言われただけでこれでいいと思えるのだから不思議だ。
もう一度春奈を強く抱きしめ、そのまま立ち上がった。このまま春奈と楽しい時間を過ごしていたいが、そろそろ朝食を食べなければ身支度を整えている時間がなくなってしまう。
「お姉ちゃんとご飯食べようか」
「はるな、ジャムぬれるよ」
「そっかあ、じゃあお姉ちゃんのも塗ってくれる?」
「ぬってあげる!」
テーブルに着くと、春奈は早速トーストを一枚手に取っていちごジャムを塗り始めた。唇を尖らせながら拙い手つきで頑張ってジャムを塗る姿は愛おしい。
ずっと見ていられると思いながら眺めていると、目の前にいちごジャムが塗られたトーストが差し出された。春奈を見れば、どこか誇らしげな表情をしている。
「ありがとうね。すごくおいしそう。いただきます」
大きく口を開けてトーストの角を齧る。口の中いっぱいに広がる甘酸っぱいいちごジャムの味。春奈が塗ってくれたからいつもよりおいしく感じると咀嚼をしていると、愛らしい瞳でじっとこちらを見つめていた。
これは味の感想を待っている顔だ。ごくりと飲み込むと、冬華は目を細めて口角を上げる。
「めちゃくちゃおいしい!」
「ほんと? よかったあ、おいしくなあれってぬってたの!」
冬華の感想に満足したのか、春奈もいちごジャムを塗ったトーストを食べ始めた。口の端や頬にジャムをつけながら、幸せそうに頬張っている。
ティッシュで拭っても、一口食べるたびにまたついてしまうだろう。髪の毛につかなければ後で拭いてもいいかと様子を見ながら食べ進めていると、母親がやってきた。
「春奈、お姉ちゃんとお母さんと一緒に入学式に行くから、少し早く食べようか」
「わ、わ、おねえちゃん、はるなをおいていかないでね。ぜったいだよ」
「お姉ちゃんが春奈を置いて行くわけないじゃん。ゆっくり準備するね」
最後の一口を食べると、皿の上でトーストを持っていた手を払い「ごちそうさまでした」と両手を合わせた。
コーヒーが入っていたマグカップとともに皿をキッチンへ持っていく。シンクに置くと水を出し、スポンジを濡らしてその上に洗剤を垂らした。
皿とマグカップを洗い、食器乾燥機の中に入れていく。二つだけなので楽だ。洗い終えるとタオルで手を拭き、次は洗面所へ行って食後の歯磨きを済ませる。
春奈の進捗はどうかと洗面所から歯ブラシを咥えながら顔を出して確認するが、あと少しといったところだろうか。置いていかれないようにと、必死にトーストに齧り付いている。
「冬華、入学式に出られなくてすまんな」
一足先に準備を終えていた父親が申し訳なさそうに話しかけてきた。歯ブラシを咥えているため「大丈夫」と伝えるためにゆるゆると首を横に振る。
「高校入学おめでとう」
頷くと父親は冬華の頭を撫で、仕事へ向かった。
その背中を見送ると水で口の中をすすぎ、水で顔を洗うとブラシで髪の毛を梳かしていく。これまで腰辺りまで伸ばしていたのだが、中学校を卒業した後に肩の下あたりで切り揃えた。短くなり、手入れが楽になった気がする。
ブラシを仕舞っていると、食べ終えたのか、春奈がパタパタと走りながらやってきた。
「おねえちゃん! はるな、はみがきする!」
「じゃあ、今日は時間がないからお姉ちゃんが磨いてあげるね」
春奈の小さな歯ブラシを取り出し、子ども用の歯磨き粉をつけて歯に当てる。下の歯を磨き、一度吐き出させてから上の歯を磨く。
「はい、できたよ。うがいしてね」
「あーい。んー……ぺっ」
「あはは、ぺって言いながらするの可愛いなあ、もう」
冬華の準備はできた。母親と春奈の準備ができるのをソファーに座って待つ。
ぼんやりとテレビを見ていると、マナーモードにしていた携帯が一瞬震えた。開くと、幼馴染の翔太からメールが来ている。
『村長の息子が教師として学校に来るっぽい。村長のコネかな』
さすがに縁故関係で特定の学校への赴任は決まらないだろうが、村長の息子は高校進学と同時に村を出たと聞く。その理由については誰も知らない。
ここに戻ってきたかったのか、はたまた別の理由があるのか。それこそ、翔太の言うとおり縁故関係が絡んでいるのか。どちらにせよ、これまでのように楽しく平和に過ごすことができればそれでいい。
「おねえちゃん、じゅんびできた!」
「はーい、行こっか」
携帯を閉じると、冬華はソファーから立ち上がる。置いてあったスクールバッグを肩にかけ、三人で入学式へと向かった。
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