教室の隅のあの子③

「さて、始業式でも紹介があったが、河嶋だ。よろしくな」


 教室の黒板に白のチョークで「河嶋隼人」と書かれている。字はお世辞にも上手だとは言えず、クラスメイトの男子達と似ているかもしれない。春奈は机に肘を置くと、頬杖をついて窓の外を見た。

 体育館を出た後、そこで河嶋とは離れる予定だったのだが、春奈が心配だと結局三人で教室までやってきた。河嶋を待っていた女子達から顰蹙を買ったのは言うまでもない。実際、前の席の女子からプリントを受け取ろうとすると、故意に床へ落とされてしまった。拾おうと立ち上がれば、クスクスと笑う声がした。これは嫌がらせが始まったと見ていいだろう。明日からの学校生活が憂鬱だ。

 それに加えて、教室の隅にいるあの女子生徒。いつの間にか体育館から教室へと戻ってきていたようだ。出会ったときと同じように、隅でひっそりと立っている。春奈はその存在だけを確認してすぐに前を向いたため、今はどのような表情をしているのかはわからない。

 どういうわけで、三年生に進級して早々このような事態になってしまったのか。悩むのは進路のことだけでよかったというのに。風に吹かれてゆらゆらと動く桜の木をぼんやりと見ていると、パンッ、と手を叩く音がした。

 頬杖をつくのをやめて視線を河嶋へと戻すと、どうやら彼が両手を叩いたようだった。


「よし、じゃあ今日はこれで終わりだ。明日からは授業が始まるから、忘れ物するなよ」

「何その小学生にするような注意!」

「私ら十八になるのに!」

「俺からすればお前らなんてガキンチョなの! 小学生と変わんないの!」


 体育館では女子達に囲まれて困ったような顔をしていたというのに、今はニコニコと愛想よく対応している。それができるのならば、最初からそうしておいてほしかった。

 人の気も知らずに。胸中で悪態をつくと、河嶋と女子達が楽しそうに話す中、静かに立ち上がった。机の横にかけてあったスクールバッグの肩紐を右肩にかけ、紬のところへ向かおうと歩き始める。河嶋と話している女子達がしたり顔で春奈を見ているが、何がそんなに嬉しいのか。

 それよりも気になるのが、あの女子生徒。視界に入れないようにしていたが、やはり心に引っ掛かる。小さく息を吐き出し、教室を出る前に少し確認するだけと視線を向けた。

 ──その瞬間、ひゅ、と喉が鳴る。

 女子生徒は、体育館で春奈に見せた表情とまったく同じ表情をして河嶋と女子達へ視線を向けていたのだ。

 すぐに目を逸らし、肩紐を両手で力強く握り締めながら紬の元へ向かう。

 バクバクと心臓が早鐘を打っている。

 一体、彼女は何に怒り、誰に敵意を向けているのか。


「春奈? また顔色悪いよ。具合悪いの?」

「……ううん、大丈夫。大丈夫なんだけど、ごめん。とにかく早く帰りたい」

「う、うん。わかった。帰ろっか」


 紬を急かし、二人で後ろの扉から教室を出る。視線を感じたが振り返ることはしなかったため、それが誰のものかはわからなかった。



 * * *



 学校から帰宅すると、春奈は階段を駆け上がり自室へ入った。スクールバッグを床へ置くと、制服のままベッドに寝転んで天井を見上げる。

 頭にぎるのは今日の出来事。自分にしか見えない存在がいるというだけで頭が痛いのに、そこに女子達の妬みが加わってしまった。前者は今でも理解が追いつかないが、後者に至っては春奈自身に何も非がないはず。あのとき、偶然にも河嶋と目が合い、いいように利用されただけのこと。ただそれだけだ。

 ぐ、と拳を握って振りかぶるも、それをどうすることもできず、静かにベッドへ下ろす。

 幼い頃からそうだった。何か思うところがあっても、うまく言語化できない。発散の仕方がわからない。今もそうだ。モヤモヤとした言い知れない感情が湧き上がっていても、吐き出す術を持ち得ていないため、胸の奥に仕舞い込むしかない。

 生き辛い性格だと、自分でもそう思う。春奈は息を深く吐き出し、現実から目を背けるように瞼を閉じる。そのとき、腹から音が鳴った。

 こんなときでも腹は減るのだから、身体は正直だ。仕方なく目を開け、重たい身体を起こした。気持ち的には何も食べたくはないが、身体が求めているのなら少しでも食べなければ。ベッドの隅へと移動すると床へ足を着け、立ち上がる。


「……制服、アイロンかけなきゃいけないな」


 さすがに着替えようとブレザーを脱ぎ、ハンガーにかける。学校指定の赤いリボンを外して机の上に置くと、スカート、シャツの順に脱いでいった。これらはあとでアイロンをかけなければならない。

 普段着へと着替え、部屋を出て階段を降りると誰もいないリビングへと向かう。

 平日は夕方まで両親が帰ってこない。父は隣町へ仕事、母は祖父母の畑の手伝いに行っているからだ。

 リビングへ入り、春奈は冷蔵庫を開けて目に入った卵とウインナーを取り出す。フライパンに油を引きあたためると、卵を割って落とした。卵には塩胡椒をし、空いているところでウインナーを二本焼く。数分後には、半熟の目玉焼きとこんがりと焼けたウインナーができた。

 冷凍庫から白ご飯を取り出して電子レンジであたため、茶碗へよそう。先程作った目玉焼きとウインナーを皿に適当に盛り付けると、茶碗と共にテーブルへ置いた。椅子に腰掛け、両手を合わせる。


「いただきます」


 テレビもつけず、スマートフォンも見ず、黙々と食べる。おかず、ご飯、と順に食べ進め、どちらも空になったとき。ふと、リビングの横にある和室が目に入った。そこには仏壇が置かれていて、毎朝学校へ行く前に手を合わせている。

 持っていた茶碗を置き、箸を下ろす。


「……わたしだけに見えるのなら、お姉ちゃんだったりして」


 姉の名は、高橋冬華ふゆか。春奈とは十二歳差と、一回り違う。冬華が高校一年生の頃に、不慮の事故で亡くなったそうだ。

 しかし、仏壇がある和室に冬華の遺影はない。それだけではなく、冬華が写っている写真が家に一枚もないのだ。

 そして、春奈の記憶から冬華のことだけが綺麗に抜け落ちてしまっている。

 理由はわからない。冬華の写真が一枚もないことも、春奈の記憶が抜け落ちていることも。何度か両親に訊いたが、まだ気持ちの整理がついていないから話せないと言われてしまい、それ以上は踏み込めないでいる。

 背もたれに背を預け、天井を仰ぎ見た。

 教室の隅にいる女子生徒──“あの子”が冬華の可能性があるのではと思った。そうあればいいとも思った。されど、冬華であるわけがないのだ。

 何せ、冬華が亡くなったのは今から十四年も前。このタイミングで姿を見せるはずがない。


「はあ……」


 本日何度目の溜息だろうか。姿勢を戻して立ち上がり、空になった食器を手にキッチンへと向かった。

 明日になれば、何もなかったことになっていないだろうか。

 教室の隅から“あの子”もいなくなり、女子達からの妬みや嫌がらせもなくなり、これまでの日常が戻っている。そんな魔法のようなことがあれば。

 けれど、この現実は都合よくできていない。魔法のようなことは起きるはずもなく。

 翌日から、春奈の憂鬱な日々が始まった。

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