教室の隅のあの子④
──始業式の日から二週間が経過した。変わり映えのしない日常を送るはずだったが、がらりと変わってしまい、毎日気が重い。
朝は、靴箱から上履きが放り出されているところから始まる。大抵は近くに落ちているため、すぐに見つかることが多い。落書きや隠されたりされていないだけまだいいと思っている。
教室へ行けば、突き刺すような視線が一斉に向けられる。その中を歩いて自席へと座り、授業が始まるのを待つ。机や中に入れたままの教科書などは綺麗なままだ。いつまでこの状態が保つかはわからないが。
授業中は、プリントが配布されることがあれば床に落とされ、何か回収されるものがあれば順番を飛ばされる。落とされたとしても拾えば済み、回収されなければ自分で持っていくだけなので、そこまで困ってはいない。
昼休みは、
大変なのは放課後かもしれない。当番など関係なしに掃除を押し付けられるからだ。不憫に思った男子達が残ろうとするも、女子達から帰るよう促されてしまい一人で掃除をする羽目になる。
それでも平気なふりを続けているが──精神的には、ずっと辛い。
胸の奥が締め付けられるように痛み、吐き気すら覚える。始業式の次の日から今に至るまで、ずっとこの状態だ。
春奈は床を掃くために握っていた箒を投げようとするも、そうすることはできず。息を吐き出しながらだらりと腕を下ろした。数々の嫌がらせに対して何とかなっているとはいえ、このような状況になり心は擦り切れてしまっている。
両親はこのことを知らない。余計な心配をかけたくないため、話していないからだ。今も春奈は楽しく学校で過ごしていると思っているだろう。
紬は何もしてはこないが、助けてくれることもない。嫌がらせに巻き込まれないよう、離れたところから春奈を見ているだけだ。
担任の河嶋は、クラスで起きている異変に何も気付いていない。だからなのかはわからないが、春奈にばかり用事を頼むなど火に油を注いでくる。女子達が飽きることなく嫌がらせを続けてくる要因となっているのだ。
視界が涙で滲む。学校のどこにも春奈の居場所がなくなってしまった。誰とも繋がりがないというのは、あまりにも孤独だ。卒業するまで続くのかと思うと、胸が張り裂けそうになる。
「誰か、助けて……」
声を絞り出したとき、カーテンがふわりと舞い上がった。
何が起きたのかと慌てて振り向けば、どうやら誰かが窓を開けたままにしていたようだ。カーテンは風でゆらゆらと揺れながら元の位置へと戻っていく。
──その後ろに、“あの子”が立っていた。
今にも泣き出しそうな、そんな顔をして。
ここのところ自分のことで精一杯で、その存在を忘れていた。心もすっかり麻痺してしまっているのか、恐怖よりも浮かべている表情が気になる。
「……どうして、あなたが泣きそうになってるの」
つい、話しかけてしまった。
馬鹿なことをしていると、自分でも思う。だが、一度話しかけたからか。堰を切ったように言葉が出てきた。
「見てただろうし、もう知ってるよね。わたし、嫌がらせされてるの。本当は全然平気じゃない。辛いし、悲しいし、苦しい。何でこんな目に遭わなくちゃいけないのって、毎日思ってる」
“あの子”から返事はない。聞いてくれているかどうかも怪しい。けれど、春奈は胸の内を吐露し続ける。
「わたしが誰と話そうが、誰といようが、関係ないじゃない。相手が自分達じゃなかったからって、たったそれだけの理由で、何で……っ」
誰と言葉を交わすか、誰と共にいるか。それは春奈が決めることで、他人にとやかく言われる筋合いはない。
しかし、残念ながらこんな田舎でもスクールカーストはあり、このヒエラルキーのせいで異常なことが罷り通ってしまう。
今回がいい例だ。河嶋と話せるのは、共にいられるのは、カースト上位のみと暗黙のルールで決められていたのだろう。そこに上位でも何でもない春奈が真っ先に河嶋と話し、共にいてしまったがために標的となった。
春奈から河嶋へ何もしていなくても。
河嶋から春奈へ声をかけているだけなのだとしても。
カースト上位の彼女達からすれば、ルールを破った春奈が悪いということになるのだ。
「……っ、文句があるなら、河嶋先生に直接言ってよ! わたしからは何もしてない! 何も、してないのに……っ!」
考えても仕方のないことばかりを考えてしまう。
始業式のあの日。河嶋と目が合わなければ。話しかけられなければ。今頃は、こんな思いなどせずに過ごせていたのだろうか。
すると、黒板からチョークで何かを書くような音が聞こえてきた。視線を向けると、白のチョークがひとりでに動き、文字を書いている。
「え、な、何……? どうなってるの?」
戸惑っている間に、黒板に文字は増えていく。春奈はおそるおそる読み上げた。
「あなたは悪くない……」
まさかと“あの子”を振り向けば、彼女は右手の人差し指を黒板へと向けていた。春奈と視線が交じると、にこりと優しく微笑まれる。
意思疎通が図れたのか。春奈はもう一度黒板を見る。
この二週間、お前が悪いと言わんばかりの嫌がらせを受け続けるしかなかった。そんな春奈に誰も手を差し伸べてはくれず、ただ遠巻きに見ているだけ。
されど、彼女は。
彼女だけは、春奈は悪くないと言ってくれた。
目尻から涙が溢れ、頬を伝っていく。鼻を啜りながらブレザーの袖で拭っていると、再び黒板から音がした。顔を上げて、白のチョークが文字を書いていく様子を見守る。
「……私はあなたの味方」
味方と言ってくれるのは嬉しいが、始業式の日に恐ろしいほどの敵意を向けてきたことを忘れているのだろうか。いいタイミングかもしれないと、春奈は“あの子”と向き合う。
「あの日、あなたはわたしに怒っていたよね? わたしは、あなたに何かしてしまった?」
春奈の問いかけには文字では答えず、首を横に振ることで返してきた。春奈が何かをしたから怒っていたというわけではなさそうだ。それならよかったと胸を撫で下ろしつつも、疑問は残る。
あの怒りは、敵意は、確実に春奈へと向けられていた。違うというのなら、一体あれは誰に向けられたものだったのか。
「じゃあ、何に怒っていたの?」
そう問いかけると、黒板に文字を書くことも首を振ることもせず、静かに目を伏せた。答えたくない、という“あの子”なりの意思表示かもしれない。
「答えにくいことだったのなら、ごめんなさい」
春奈が謝罪を口にすると、“あの子”は小さく首を横に振った。やはり、答えたくなかったようだ。
それならば、この質問はどうだろうか。箒を持つ手に力が入る。
「……あなたは、わたしのお姉ちゃん?」
今になって姿を見せるなどありえるのかと思っていたが、彼女は春奈の味方だと言ってくれた。その言葉を聞いて、姉ではないかという考えが現実味を帯びたような気がしたのだ。
緊張しながら返答を待っていると、開けっ放しの窓から風が入りカーテンが大きく揺れた。それは“あの子”の姿を隠してしまい、春奈はカーテンを押さえに行く。
大事な話をしているときに、なんて間の悪い。入ってくる風と揺れるカーテンを必死に押さえていると、隙間から“あの子”の表情が見えた。
春奈の問いに答える代わりに“あの子”は口を閉ざし、困ったような笑みを浮かべていた。
まるで、何かを隠しているかのように。
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