青春モノに紅を差す

「俺たちもしたでしょ、キス。付き合ってないのに」

 

 からかい混じりに笑いかけると、隣に座る秀花はヘーゼルの瞳を丸くした。

 彼女は今日、口紅を塗るほど気合いを入れていた。


 始業式に望むには、少し度が過ぎるのではないだろうか。

 

「待って覚えてない。いつの話?」

「四歳の7月6日、短冊書いてる時に秀花が」

 

『将来は潤くんと結婚する』

 

 舌っ足らずで紡がれた言葉と一緒に、頬に触れた記憶を掘り返す。

 

 知らない花の香りと桜色に艷めく唇に、もう幼さは見受けられない。

 しかしスっと伸びた背筋には高校生に見合わない気品を感じつつも、無意識に抱いているのは余裕ではなく緊張感。

 

「付き合ってないのに、キスはおかしいよ」

「今読んでる小説の主人公ならともかく、四歳はしょうがないだろ」

 

 未だ大人ではない未成熟な子どもの証だ。

 そんな姿形だけじゃ語れない魅力を、分かってくれる人間はどれほどいるだろうか。

 

 今日は元気いっぱい、朝から布団に飛び乗ってきた。

 あまりにも早い目覚まし。ニヤリと覗く八重歯に苦笑いで答えるしかない。

 普段なら品性など無い大声で起こされるし、マシな方ではあったが。

 

 登校時間まで玄関先で腰を下ろし、眠いままに余暇を過ごす。

 去年も毎日同じルーティンだった。

 日の出とともに訪れる、秀花のモーニングコールのせいで。

 

 冬頃からこの時間に読んでいた本が、残り数ページで終わるほどだ。

 結果的に有意義な時間ではあったから、途中から起こされる前提でいたけども。

 

「でもさ、年度が変わってもまだ読み終わらないんだ」

「終わり際のキスシーンに水を差してきたのは秀花だよ」

「主人公がヘタレの癖に告白できたんだって驚いただけ!」

 

 ヘタレとはなんと可哀想な呼ばれよう。

 大人はこういうものではないだろうか。

 人間の多様さを身に染みていると、慎重にならざるを得ないと擁護したい。

 

 そう、前世じゃずっと臆病に生きていた。

 アラサーで死んだ俺に転生の機会が与えられて、何の因果か似たような世界の同じ時代でもう一度人生を送っている。

 

 けれども労働においてのリスクを避ける癖は、とうとう抜けなかった。

 前世と同じ頃の情熱はない故に、この頃は幼馴染が羨ましくて仕方ない。

 

 大胆に生きられない、潤いに満ちた人生にはならない。

 そんな悩みの種は年齢を気にしてしまう、時代遅れな考えを持つ俺のせいだろう。

 

 一緒に歳を重ねて、ありきたりな恋愛もしてみたかったのに。

 

「告白無しでのキスは、そんなに嫌?」

「だって結婚どころか、婚約もしてないのにさ」

 

 裸でも見てしまっかのような秀花の顔は、現代にしては数少ない純朴なお嬢さんだということを思い出させてくれる。


 色恋の話に興味はあれど、生々しい話は取りこぼしてしまったらしい。

 子どもの頃からずっと綺麗事で話してきたツケが来てしまったのか。彼女は常に近くにいて、俺の影響ばかりを受けたのだろう。


 まあ最近では心変わりしたのか、初めて部活に入っていた。

 着々と交流は広がっているのだから色々な価値観を得て、酸いも甘いももっと知っていける。

 

 いつか離れてしまうことも、きっとある。

 当時、幼女のプロポーズを本気にするほど愛に飢えてはおらずとも、それほど強い好意を持たれていることに素直に喜べていたけれど。

 どこかで、遠い日の告白に執着していたのは俺なのかも。

 

 もう子どもではなく、彼女は青春を謳歌している女子高生だ。

 変わっていくことは喜ばしいことで、否定はすべきでない。

 

「ちなみになんだけどさ、どこにキスを?」

「そんなに気になる?」

 

 指先で口元を抑える仕草には、不安と焦りが滲む。

 ついで聞こえてきた固唾を飲み込む音には、ファーストキスを気にする初心な本音が隠れていそうだ。

 

「別に、ちょっと気になるだけだって」

 

 もちろん俺は忘れていない。

 覚えているに、決まってる。

 

「ごめん、忘れた」

 

 誤魔化したように微笑めば、秀花は呆然と口をポカンと開けた。

 

 純潔を気にする乙女心と、ただの幼馴染に対する羞恥心。

 ふたつを有耶無耶にするには、多少の嘘も方便だろう。

 

 ――なんて、もっともらしい言い訳だ。

 

 期待した返答が訪れなかったことで、彼女にはじっとりとした目で睨まれた。

 

 血色の良い舌が、口内でチロリと揺らめく。

 けれども結局、何も発音されず沈黙に落ち着いた。

 

 拗ねてしまって唇を尖らせる秀花に構わず話しかける。

 

「彼氏とは順調?」

 

 つい、魔が差してしまった。

 

 唐突な話に彼女は戸惑いつつも、すぐ頬は緩んでいた。

 情動を刺激したらしい言葉に、秀花は熱っぽい吐息で答えてくれる。

 

「昨日も、夜まで通話したんだ」

 

 三月、秀花は告白した。

 知り合ったのは、たった一年前。

 茶道部の先輩なのだとか。

 

「どんな人なの、彼氏は」

「優しいよ。まあ変なとこもあるけど。

 知ってる上で付き合ったから大丈夫!」

 

 ピースサインで答える秀花の視線を、俺は合わせられない。

 なんとか見れるのは、だらしなく蕩けた口角だけ。

 

「今日は随分お洒落なのも?」

 

 俺の貼り付けた笑みに、なんの価値があるのか。

 薄づきの化粧も、桜色に色づく唇も、甘い花の香りも。

 何もかもが彼のためだと、最初から分かっていた。

 

「うん、教えてもらったの。

 可愛くなったと思わない?」

 

 恋慕じゃない。なのに嫉妬は一丁前にできあがる。

 

 あの日のプロポーズで油断していたのだ。

 ずっと隣にいてくれる、好意を抱いてくれる存在なのだと。

 

 きっと俺が秀花と同じ時間を生きていれば、情熱を持って彼女に迫れたのだろう。

 ありきたりな略奪愛の皮を、堂々と被れていたのに。

 

 ――だから、これは

 

「ずっと前から可愛いよ」

 

 最後だ。

 キスはもう、今世で最後だと誓うから。

 

 ヘーゼルという名のレンズの奥。

 本当の、琥珀の瞳を支配した。

 

 見開かれる瞼にも口付けたい気持ちが湧き上がる。

 でも、速まる鼓動を抑えて唇を離した。ほんの一瞬、わずかな接吻で留めてしまったのは誰のせいだろうか。


 罪悪感を刺し殺して、欲望を際立たせて、君の敵意を覚悟して。


 けれども、彼女は立ち上がって言った。

 なんの戸惑いもなかった。


 ただ明るいだけの笑顔で、言い放った。

 

「遅刻しちゃうし、もう行こっか!」


 呆然とする間に、秀花は玄関扉を開け放つ。

 入り込んでくる春風は火照りを冷ますのに、俺の頭は茹だったままな気がして仕方がない。


 俺を影に置いてけぼりにして、彼女はさっさと歩き出す。

 

 朝の日差しを真っ先に浴びる姿は、とても綺麗だった。

 靡かせた髪に天使の輪っかを浮かび上がらせて、そっと振り返ると手を差し伸べてくれる。


 ヘーゼルの瞳は、澱みなく輝いていた。

 

「ありがとう。私ね、もっと可愛くなれるよ」


 太陽の下ではさらに艶めく、鮮やかに染まった唇。


「……まだ伸び代あるんだ」

「そりゃあるでしょ。私、まだ16歳だよ?」

 

 差し出された手に導かれるように、俺もお天道様の中へ向かった。


 今、どんな気持ちかと問われるのなら「最高の気分だ」と答えるだろう。

 身の程知らずな行為の対価を求められるのなら。

 本当に、なんだって差し出すつもりでいた。

 

 扉を閉めて、一緒に学校へ小走り気味に進み出す。


 いつも通りに、導いてくれた手を掴んだ。

 だから、手を振り払われるのは予想外だった。


 驚いた顔を向ければ、分かりやすいしかめっ面で返される。


「もう、ダメだからね。私は彼氏専用なんだから」

「じゃあ、朝に飛び乗ってきたのは?」

「今からね! 今からは触らないし、触らせないから!」


 そりゃ当然の話だ。

 すぐに頷くと、なぜか秀花はまた目を見開いていた。


 ◇


 始業式はつつがなく終わった。

 新たなクラスも顔合わせ程度で転校生などもおらず。

 先生は常に和服を着用した特徴的な女性だが、他に変なところはない。


 特筆すべきことは、秀花と別のクラスになったことぐらいだ。


「潤くん? ああ酔月潤くんね」


 帰るため教室から出ていくと、自身の名前が聞こえて思わず振り返る。

 廊下にいた先生と目が合い、はんなりとした手つきで招かれた。


 隣には先生を呼び止めていたらしい、見慣れない男子生徒の姿が。


 心当たりは無い。けれど何か胸騒ぎがした。


「なんでしょうか」と向かいながら訪ねた。

 しかし、彼は何も告げずに三日月のように微笑む。

 癖のようなものなのか、なんの問答もなく。


 ただ静々と、人通りのない階段を降りていった。


「彼、笛野戸優隹ふえのとゆうすいくんね。ちょっと変わった子なの。

 日々鳴秀花ちゃんのことでお話があるみたいでね。

 貴方の幼馴染よね? 不安なら私も立ち会えるけど……」


 不安。

 不安か。


「ひとりで大丈夫ですよ。お気遣い痛み入ります」


 ただ、彼の背中を早足で追いかける。

 廊下を曲がった先を見下ろせば、踊り場に彼はいた。


 小さな窓から、青い空を眩しそうに見上げる眼差し。

 その中には、邪念の欠片も混じっていない。


 階段を一つ一つ、トントンと静寂に反響する音が場に緊張感を持たせていた。

 

「もう一度伺います。なんでしょうか」

 

 浮ついた心持ちを内に留めて、重く無機質なトーンを維持。

 もう今更、ボロは出さない。出す気もない。

 何十年も隠し続けていた本性は、完璧に覆えている。


 並んで、優美な横顔を見つめる。

 暖かい春の日差しに、実に愛されていそうな表情だけど。


 たぶんもう、意味は無い。


 不意に視線が交わると、急に人差し指が唇を塞いでくる。

 言葉はまだない。困惑より先に「変わり者」と呼ばれる所以に納得してしまうのは、マイペースだろうか。


「静かに」


 やっと出てきた声は、予想通りにほんわかとしていた。

 彼のペースに従い、数秒後に拭われるように唇を離されるまで、俺は動かなかった。


 触れていた指先を、舐めるように見つめる。

 彼は納得したみたいに頷くと、目を細めてそっと呟いた。


「メピヌピ10番、ヴェールペールピンク」

 

 疑惑が確信に変わったのか、彼の微笑が崩れる。

 僅かに、意図を問いただす眼差しへ。

 

「秀花は塗り直さなかったんですね」


 紅い唇が噤まれる。

 さらに問われた気がして、勝手に答えた。


「秀花には、綺麗な大人になってほしいんですよ。

 分かるでしょう? ね、彼氏さん」

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