第26話 恋とキス

 愛華がわたしを連れてきたのは小さな公園だった。

 ブランコと鉄棒とシーソー。

 それ以外にはなにもない。


 高校生が走り回れるような広さもない。

 せいぜい幼稚園児が二、三人走れるくらい。

 Y字道路の隙間に無理やり入れ込んだみたいなその公園は全周をフェンスで囲ってある。

 そんな公園の中心で、愛華は足を止めた。


「……こんな時間に来るなんて非常識じゃないの」


 わたしも足を止めると、見計らったみたいに愛華が言った。


「それはホントにごめん。居ても立っても居られなくなって」

「……そんな格好で?」

「……うん」

「なんでそんなことできるの?」

「……愛華が好きだからだよ」

「意味、わからない。あたしなんかのどこに好きになる要素があるの?」

「あるよ、いっぱい」

「……たとえば?」

「優しいところ」

「……なにを見てるの。そんなところないでしょ」

「そうやって意地を張ってるところも好き」

「それ、好きになるところじゃないと思うけど」

「そんなことないよ。好きな人のことだもん、どんなところも好きになれるよ」

「……あたしのこと、そんなに好きなの?」

「うん。大好き」

「……傷つけたのに?」


 そこで愛華はようやくわたしの方に体を向けた。


「うん、そうだよ」


 わたしは愛華の目を見つめて言う。

 本人に話すのはきっといいことじゃないんだと思う。

 でも伝えなくちゃいけない。

 それを伝えないとわたしの真意を伝えることができないから。


「わたしはわたしの身体が嫌いだった」

「……え」

「だってこの身体のせいで好きな服も好きな物も似合わないから。それなのに愛華はこの身体だから調子に乗ってるって言ってきて。……好きでこの身体になったわけじゃないのにって、すごく傷ついた」


 大好きな人から自分の嫌いな部分をそんなふうに言われたら悲しい。


「わたし、愛華の才能に嫉妬してた」


 その嫉妬はわたしにとって初めての感情だった。

 愛華以外の誰にも抱いたことはない。


「……ホントはわたし、百合漫画が好きなんだ。ずっと前から、大好きだった。愛華は漫画の才能があるけどさ、百合漫画ならそう簡単には負けないって思ってた。でも」


 全然そんなことはなかった。


「愛華は一瞬で追い越していっちゃった。……わたしのほうが好きなのに、わたしのよりもすごい百合漫画描けて。悔しくて……」


 百合漫画を好きでいる自分が、百合漫画に拒絶されているって思った。

「どうして好きになっちゃったんだろうって思った。わたしの好きを否定するような、そんな才能を持った人。正直憎かった」


 嫌いになれたらって思った。

 でもそんなこと無理なんだ。

 だってわたしはそれでも。


「それでも愛華のことがどうしようもなく好きで。……だから苦しくて心が痛くなった」

「……そんなの、わたしにどうしろって言うの?」

「うん、そうだよね。そんなことわたしだってわかってるんだよ。でもどうしようもなかった」

「……」

「……愛華にわたしのことが大嫌いって言われて悲しかった」


 それが一番辛かった。


「あのとき、ホントに双葉ちゃんとはなにもなかった。でも信じてもらえないどころか、そうやって拒絶までされた」


 もう誰にも、特に好きな人にはもう拒絶なんてされたくなかったのに……。 


「わたしね、小さい頃から男の子じゃなくて、女の子が恋愛対象だったんだ」


 恋バナをするとき、周りの女の子はみんな男の子の話ばかりしていた。

 誰も女の子が好きだなんて言わなかった。

 だから自分はおかしいんじゃないかって思った。


「それで……、あるとき好きだった女の子に相談をしたの。……わたしっておかしいのかなって。そしたら『変だよ』って言われちゃったんだよね」


 ……ホントは今でも思い出すだけでつらくなる。

 でもそれを顔に出さないように苦笑いで済ました。


「そうやって拒絶されちゃって……。告白することができなくなったんだ。また傷つくのが怖くて……。だから愛華にそうやって拒絶されて辛かった。それで……」


 どうしようもなく心が痛んだ。

 痛くて苦しくて、全部捨てようとして、でも出来なくて……。

 ただ、ただ……。


「もう愛華のそばにいられないんだって思った。……そうやって傷ついたんだよ」


 どれも全部、愛華が好きだから傷ついたんだ。

 愛華に恋をしていなかったらまだ諦めがついたかもしれない。

 でも好きだから愛華への嫉妬に苦しんだし、愛華に避けられることが嫌で辛かったんだ。

 わたしの愛華を好きっていう気持ちがあるから傷つけられるんだ。


「……ずっと傷つけられてきたんだよわたし、愛華に」

「……あたしだって、涼子に傷つけられた」

「そうだよ。わたしも愛華を傷つけた。……だからそれはホントにごめん」


 わたしは愛華に頭を下げる。

 わたしは愛華を傷つけたなんて、愛華のことを知るまで気がつかなかった。

 だってあれは愛華の勘違いで、わたしは愛華の言ったようなことをしてない。


 でも今になって思い出すとあれはわたしが悪かったって思う。

 わたしが双葉ちゃんに対して煮え切らない態度を見せて、ちゃんと断れなかった。

 その結果あんなにも近い距離で双葉ちゃんと見つめ合うことになったんじゃないかな。


 わたしも愛華が誰かとあんなにも近くで見つめ合っていたら勘違いしていたって思う。

 だからわたしは謝るしかない。

 愛華は間違いなく傷ついたし、愛華を傷つけたのは間違いなくわたしなんだから。


「こうやってさ、傷つけ合いたくないよね。傷つけ合わない関係の方がわたしたちは苦しまずに一緒にいられたのにね」


 でも傷つけ合ってしまった。

 そんな関係になってしまった。


「……それならどうして、あたしを放っておいてくれないの? そうしたらあたしもアンタもこれ以上苦しまないで済むじゃない。どうして?」


 そんなの簡単だ。

 難しいことなんてどこにもない。

 答えは最初からここにある。


「たしかにわたしは傷つくのも傷つけるのも嫌だ。そんなのはない方がいいよ」


 それは絶対ないほうがいい。

 それはたしかだけど。


「でもね、やっぱりわたしは愛華が好きだから。どんなに傷つけられて辛くたって、どんなに傷つけて苦しんだって……」


 それでもわたしは。


「それでも愛華と一緒にいたいって思う。それくらい好きなんだよ」


 結局そこにたどり着くんだ。


「……そんなの嘘よ」

「ホントだよ」


 言って、わたしは手にしていた願望ノートを愛華に差し出す。

 ここにはわたしの愛華を大好きだっていう想いが全部詰まっている。

 ……誰にも見せないって決めていた、わたしの宝物。


 でも今はもう愛華になら見せられる。

 いや、見せたいんだ。


「愛華にこれを読んでほしい。そうしたらきっとわたしの気持ちがホントだってわかってもらえると思うから」


 愛華は少しの間わたしの願望ノートを見つめて、やがてゆっくりと受け取ってくれた。

 そうして彼女は静かにページを開く。


「これって……?」


 しばらく漫画を読み進めたところで、愛華が顔を上げた。

 わたしを見つめてくる。


「それはね、わたしが愛華とこんなふうになりたいって想いを形にした漫画だよ」

「……こう、なりたい」

「愛華に内緒でずっと描いてきたんだ。それ、一冊じゃないよ。何冊もあるんだ」

「何冊も? どうして、そんなに……」


 愛華は疑問を口にしながら、また漫画を読み始める。

 そんな彼女に、わたしは言葉をかける。


「言ったでしょ? わたしはそれくらい愛華のことが大好きなんだよ」


 だからね、とわたしは続ける。


「わたしは愛華のそばにいたい」

「……あたしは涼子のそばにはいられない。アンタを傷つけていたのならなおさら」

「わたしはその傷を受け入れるよ。だって愛華が言ったように恋愛は傷つけ合うものだって思うから。そういうものなんだ、恋愛って」

「じゃああたしが捨てられたのもしかたがなかったってこと?」

「そうじゃない。しかたなかったなんて思わないよ。愛華が傷ついたのがしかたないなんて、そんなことは絶対にない」


 恋愛は大小の違いあってもそういうものなんだって思う。

 でもだからって傷つくことも傷つけられることもしかたないで済まされるものじゃない。

 それは絶対にそうなんだ。


 残念なことに愛華みたいに大切な人に裏切られることはある。

 それは恋愛という傷つけ合うものが理由だとしてもしかたないことじゃない。


「しかたがなかったわけじゃないなら、どうして……。どうしてあたしは傷ついたの?」

「……離れたくなかったから、だって思う」

「どういう、意味……?」

「愛華はさ、お母さんのことが大好きだったんだよね」


 愛華は答えなかったけど、その瞳は弱々しく揺れていた。

 わたしはその潤んだ瞳を見つめる。

 愛華のその顔はすごく辛そうに見えた。


 幼い子どもが恐怖に震えるように。

 助けてくれるはずの母親を探して、でも見つからなくて……。

 耐えるしかなくなって、どうしようもなくなったような。

 それはまるで迷子みたいだった。


「大好きな人とは離れたくないよね。そうやって離れたくないから傷つくんだ」


 それは人だろうが物だろうが変わらない。

 大好きなものが離れていくのは辛いことなんだ。


「わたしも大好きなものが遠ざかっていく気がして辛いって思ったことがあるんだ」


 わたしはみんなから子どもっぽいって言われているものが好き。

 でもわたしの身体は正反対に大きくなっていって遠ざかっていくようだった。

 わたしは離れたくなんてないのに。

 だからわたしは苦しかった。


 わたしは愛華のことが好き。

 大好き。


 でも愛華から避けられて、わたしから遠ざかっていく気がした。

 わたしは離れたくなかったのに。

 だからわたしは苦しかった。

「そうやってわたしも傷ついたんだ」


 子どもっぽいものも百合漫画も愛華も大好きだから、離れると思うと辛いんだ。

 だからわたしは傷ついた。

 愛華だってきっとそうだ。

 愛華はお母さんが大好きだったから離れていってしまって傷ついたんだ。


「恋愛も同じなんだ。好きな人と離れたくないから傷つけ合うんだって思う」


 たとえば恋愛漫画の主人公。

 彼らはメインヒロインなりメインヒーローなりのことが好きになる。

 そうやって離れたくないって思うんだろう。


 それは相手も同じで……。

 だから主人公とメインキャラクターはくっつく。

 そういう二人の離れたくないっていう思いがサブキャラクターたちを傷つけるんだ。


 サブキャラクターたちは主人公なりメインキャラクターなりに恋をする。

 離れたくないって思う。

 だから傷つくサブキャラクターもいるんだ。

 現実の恋愛だって同じなんだと思う。


「……わたしは愛華が大好き。だから離れたくないんだよ」

「……」

「愛華は、どうかな?」

「……あたしだってっ、あたしだって涼子のことが好きっ。本当は離れたくないって思ってるっ。……だけど怖い」


 愛華が言った。

 その頬を一筋の涙が伝う。

 わたしのことを好きだって言ってくれた。


 離れたくないって、言ってくれた。

 それを、わたしは静かに嬉しいって思う。


「いつか傷つけあって離れ離れになるくらいならいっそ自分から離れたほうがいいっ」

「……そっか。でも、大丈夫だよ」

「なにがっ」

「わたしたちは離れ離れになんてならない」


 愛華にわたしと離れたくないっていう気持ちがあるって知ることができた。

 それならわたしたちは大丈夫だ。

 だって――。


「わたしと愛華は傷の痛みを知ってる。離れ離れになることの辛さを知ってる。わたしたちが傷つけ合ったのは離れたくないからだって知ってる」


 ――互いにそれを知っているから。

 わたしたちはこの先も傷つけ合うことがあると思う。

 傷つけ合うのは二人とも嫌だから避けようと頑張るだろう。


 それでも傷つけ合ってしまうときはあるんだと思う。

 だけどそれは互いに想い合っているからで……。

 離れ離れになりたくないって思っているからで……。


 だからまた傷つけ合ってしまっても、離れ離れになりそうになっても。

 わたしたちは――。


  

「それを知っていれば傷つけ合ってもきっと、わたしたちは戻ってこられる」


 

 ――また笑い合える関係に。好き同士の関係に戻れるはずだから。


 

「わたしたちは大丈夫」


 

 ――それがわたしの答えだ。


 

 愛華がわたしを見上げる。

 わたしはその瞳を見つめ返す。


「……あたし、また涼子を傷つけるかもしれない」

「でもわたしも、愛華を傷つけるかもしれない」

「また不安になって逃げ出すかもしれない」

「わたしも不安になって嫌なことばかり考えて迷惑かけるかもしれない」

「そうやって傷つけ合って辛くなるときがあっても……、それでも?」

「うん、それでも。……わたしは愛華のそばにいたい」

「……なにがあっても、あたしを置いていかないって信じていいの?」

「うん。……わたしも愛華を信じる」

「約束、してくれる?」

「……うん。でもたまに傷の痛みで忘れちゃうかもしれない」

「そんな……」

「でも心配しないで。もしもどっちかが忘れちゃっても、思い出せる魔法があるから」

「……魔法?」

「うん、それはね」


 わたしは愛華に顔を近づける。

 そっと、その頬に触れる。

 ……大切な割れ物を扱うみたいに。


 愛華の頬は涙で濡れていて、夏の夜風にほんのりと冷やされていた。

 それを暖めるみたいに、わたしは愛華の頬を優しく撫でる。

 ふと愛華の瞳に夜空の月が映っていることに気がつく。


 凍てついて冷たそうに見える、微かに潤んだその瞳。

 そこに映るのは少し欠けた月。

 完璧な満月なんかじゃない。


 でも、それでいいんだ。

 わたしたちはきっと完璧な、傷つけ合うことのない関係にはなれない。

 きっとどこかの誰かは満月の方が綺麗だって言うんだろう。


 でもわたしたちのとっては違う。

 まんまるな満月なんかじゃなくて、少し欠けている月こそが綺麗に映るんだって思う。

 欠けているからわたしたちは一つになれるんだ。

 


 ――そして、わたしは愛華にキスをする。


 

 愛華の微かに潤んだ瞳が冷たくない、温度を感じる色で私を見ていた。


「どっちかが忘れたら、こうやって思い出させる。ね、そうしようよ」


 わたしの言葉に愛華はそっぽを向いて。


「……バカ」


 そう呟くみたいに言った。

 でもその後で小さく頷いた。




 欠けた月の下で、わたしたちはもう一度キスをした。






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