第四章

第21話 恋と不誠実

 あれから何日か経った。


 願望ノートは引き出しに入れて、鍵は本棚の裏に隠しておいた。

 すぐには取り出せないように。

 未練を断ち切るために。


 そんなことに意味があるのかは自分でもわからない。

 でもそうしなきゃいけない気がした。

 その日、わたしはいつもの水玉模様のリュックサックを持たずに家を出た。


 あのリュックサックはクローゼットの奥にしまい込んだ。

 代わりに持っているのは同じクローゼットにあった黒いショルダーバッグ。

 とぼとぼと歩きながら学校に向かう。


 ……ホントは部活にも行きたくなかった。

 愛華と顔を合わすのが辛かった。

 でも身体が勝手に動いてしまって、それを止めることも億劫で。


 流れに身を任せることが今のわたしにできる唯一のことだった。

 そうやって部室にたどり着く。

 愛華のことを見つけたけど、わたしは顔をそらした。


 愛華がわたしから顔をそらす様子は見たくなかった。

 席について俯いていたらあっという間に部活が始まっていた。

 そして気がついたら部活は終わっていた。


 作業は全然進まなかった。

 愛華は教室から出ていくのを見送って、わたしはゆっくりと席を立つ。

 


   ○


 

「あの、涼子先輩……」


 下駄箱へ向かうために階段を下りていたとき、後ろからそう声をかけられた。

 振り向くと、珍しくしゅんとした双葉ちゃんが、わたしよりも数段上に立っていた。

 なにか落ち込んでいるみたいだ。


「……どうかした、双葉ちゃん」

「あの、私……。先輩に謝りたくて」


 きっとあのとき、――わたしと愛華が仲違いしたときのことを言っているんだろう。

 双葉ちゃんが気にする必要なんてどこにもないのに。


「……謝らないでよ。あれは双葉ちゃんのせいじゃないから」

「でも……」

「それに、もう気にしてないからさ」


 双葉ちゃんを安心させるために、わたしは笑ってみせる。

 上手く笑えた、と思う。

 ……わたし、こんなときでも自分を取り繕おうとするんだ。


 もうすでにあのとき情けない姿を見せているのに、こんなことに意味はあるのかな。

 わからないけど、わたしにはこうすることしかできなかった。

 それに比べて双葉ちゃんはすごいよなと、ふと思う。


 あのとき双葉ちゃんは少し震えていた。

 それでもあんなふうに告白ができてすごいと思う。

 わたしには恋人になってなんて、愛華に言えなかった。


 言わないと決めていたのは怖かったから。

 ただ臆病だっただけなんだ。

 わたしも愛華に告白できる勇気があったならなにか変わっていたんだろうか。


 今更考えたところで意味なんてないか。

 なにをどうしたってもうわたしが愛華とそういう関係になることはない。

 わたしにはもう『好き』を手に入れることができないんだ。


 愛華に好きになってもらえない。嫌われたままなんだ。

 ……それなら、とふと思った。

 好きになってくれる人と一緒になった方が幸せなんじゃないだろうか。


 だってその人はわたしを拒絶しない。

 似合わない服よりも似合う服を着る方が身体は拒絶しないように。

 拒絶されなかったらわたしは傷つかないで済む。


 ただわたしが受け入れるだけでそれが手に入るなら……。

 今、胸にあるこの痛みも紛らわすことができるかもしれない。


「……ねえ、双葉ちゃん」

「なん、ですか?」

「まだ、わたしのこと好きでいてくれてるかな?」

「え……」

「ほら、告白の返事。わたし、ちゃんとはしてなかったなって思って」

「……好きですよ。でももうそれは――」

「わたしたち、恋人になろうよ」


 遮るように、わたしはそう口にした。


「え……? でも涼子先輩は愛川先輩のことが――」

「ダメ、かな?」

「……先輩がそれで、いいなら。でも、……本当に、いいんですね?」

「うん」

「……そうですか。……わかりましたっ。私たち、今日から恋人ですねっ」


 こうして、わたしと双葉ちゃんは恋人になった。



 ――あぁ、わたしはなんて最低なんだろう。



   ◯



 双葉ちゃんと付き合うことになってから数日が経った。

 わたしは駅にいた。

 ロータリー前にはベンチが並んでいて、わたしはその一角に座っていた。


 そうしながら双葉ちゃんが来るのを待っていた。

 一昨日の部活帰りに双葉ちゃんに遊びに行こうと誘われたんだ。

 要するにデートっていうこと。


 きっと双葉ちゃんは楽しみにしているだろうな。

 わたしも恋人のフリではあったけど初デートの前はすごく楽しみだった。

 だから双葉ちゃんの気持ちがちょっとだけわかる。


 好きな人との初デートはドキドキするしワクワクするしで、落ち着かない。

 でも今回のわたしは正直に言って楽しみっていう気持ちはない。

 ……ホント、双葉ちゃんには悪いんだけどね。


 顔には出さないように気をつけないと。

 双葉ちゃんには楽しんでもらいたい。

 やがてロータリーにあるバス停にバスがきた。


 中から他の乗客たちに紛れて双葉ちゃんが降りてくるのが見えた。

 わたしが片手を上げて存在をアピールする。

 それに気づいた双葉ちゃんが駆け寄ってくる。


「こんにちは、涼子先輩っ。……もしかしてお待たせしちゃいました?」

「ううん、そんなことないよ。わたしも今さっき来たばっかり」

「……ふふ」

「どうかした?」

「いいえ。ただ今のやり取り、恋人みたいだなって」

「みたい、じゃないよ」

「そうでしたね。……私たち、恋人になったんですよね」


 双葉ちゃんはどこか幸せを噛みしめるみたいに笑った。

 わたしも笑い返す。

 ……上手く笑えたかな。


「じゃあ行きましょっか」


 二人で歩き出したところで、すっと双葉ちゃんがわたしの手を繋いできた。

 ……愛華のときとは違うな。

 愛華のときはこんなにも簡単に手を繋ぐことができなかった。


 愛華から手を繋ぎに来ることはなかった。

 わたしも愛華の苦手を知っているから恐る恐る聞いてからだった。

 手を繋ぐときもホントにゆっくりと探るみたいだった。


 でも双葉ちゃん相手だとやっぱり違う。

 こんなにも簡単にすっと繋いできた。

 ……愛華と双葉ちゃんは違うんだよね。


 そんなあたりまえのことに気がついてわたしは……。

 いや、ダメだよね。双葉ちゃんとのデート中に愛華のことを考えるなんて。

 双葉ちゃんにも失礼だし、なによりわたし自身が辛くなるだけだ。


 そんなのはダメだよ。意味なんてない。

 だから愛華のことは思い出さないようにしないと。



   ○



 わたしと双葉ちゃんは都会に出て、大型ショッピングモールで買い物デートをしていた。

 もちろん手を繋ぎながら。

 双葉ちゃんはルンルン気分っていう感じでずっと楽しそうだった。


「これどうですか?」


 双葉ちゃんが売り物のベレー帽を被ってわたしを見てきた。

 白くて茶色のリボンで飾られたベレー帽だった。

 すごくガーリーな感じで双葉ちゃんに似合っている。


「うん、似合うよ」

「買っちゃおうかな……」

「いいじゃん」


 ふと商品棚を見ると、黒いキャスケットが目に入った。

 ベルトを模した飾りが付いてどこか大人っぽい上品さを感じる。

 なんか愛華に似合いそうだな。プレゼントしたら喜んでくれるかな。


 ……なにを考えているんだろう。

 そんなこと、今さらできるわけもないのに。



   ○


 

 正午になってお昼ごはんを食べることになった。

 モール内にあるレストランで、わたしたちは二人席に座って食事を始める。

 心は痛くてもお腹は空く。でもここ最近はいつもより量が減っている。


 すぐにお腹がいっぱいになっちゃうんだ。

 だから今日はロコモコ一皿だけを頼んだ。

 双葉ちゃんはきのこのチーズクリームパスタを頼んでいた。


 わたしは目玉焼きと一緒にハンバーグを一口分切り分けて食べる。

 味は美味しい。

 美味しいけど嬉しさはなかった。


 そういえば夏祭りのときも食事が楽しくなくて、途中で食欲がなくなったときがあった。

 あのときは愛華への想いのことで落ち込んだからだった。

 今も愛華のことで落ち込んでいるのが原因の一つだと思う。


 思えば小学生の頃もそうだった。

 あのときも同じだった。

 楽しくない食事は味気ないな。


「……おいしく、ないですか?」


 双葉ちゃんに声をかけられて顔をあげた。そして慌てて首を横に振った。

 どうやら顔に出ちゃってたみたい。気をつけなきゃ。


「ううん、違うよ。ちょっと考え事してただけ」


 でもわたし、食事するときどんな顔をしていたっけ。

 自分じゃわからないな。

 ……そういえば愛華に『……アンタって本当に幸せそうに食べるわよね』って言われたな。


 だから笑顔を意識して食べる。

 そうしながら胸が痛むのを感じた。

 愛華はわたしの食事するときの顔が好きだと言ってくれた。


 あのときは嬉しくてすごくドキドキしたな……。

 あんなことを言ってくれることはもうないんだ。

 わたしは胸の中に生まれた悲しみが漏れ出さないように我慢していた。



   ○



 お昼ごはんを食べたあと、わたしたちは映画館に向かっていた。

 手を繋ぎながら人混みの中を歩いているとどうしても思い出してしまう。

 愛華と水族館で展示を観て回ったこと。あれが初めて愛華と手を繋いだ日だった。


 あのとき愛華は緊張していたな。

 ペンギンの展示の前でわたしに弱音を吐いてくれた。

 あのときはわたしのこと信頼してくれていたのかな。


 花火大会に行ったときも手を繋いでいた。

 恋人ごっこの終わりが近づいていて憂鬱だったけど愛華に会ったら晴れたな。

 愛華はわたしにとって元気の源だったんだ。


 水風船釣りで失敗しちゃって愛華に呆れられて。

 でも愛華はわたしの分も水風船をとってくれた。嬉しかったな。

 ダメだな、わたし。


 今日は愛華のことを思い出さないようにしようって決めていたのに。

 でもふとした瞬間に思い出しちゃうんだ。

 ……愛華と行った水族館と夏祭りはホントに楽しかった。


 楽しかったんだ。

 大切な思い出で、忘れられるわけなくて。

 でももう、あんな思い出を愛華と作ることはできないんだ。


 そんなの、そんなの嫌だ。

 嫌だけどさ、もうどうしようもないんだ。

 それがすごく悲しくて、わたしは……。


 頬をなにかが伝った。

 目元を拭ってもあとからあとから溢れてくる。


「ど、どうしたんですか!?」


 気がついた双葉ちゃんが心配してくれる。

 だから早く泣き止まないとダメなのに。

 このままじゃ双葉ちゃんにとってのわたしとの初デートが嫌な思い出になっちゃう。

 ……そう思っているのに、全然涙が止まってくれないんだ……。


 もうどうしていいのかわからない。

 誤魔化すのは、なんでもないふりをするのは得意なはずなのに……。

 上手く制御できない。


「ごめ、ん……。ごめんね……。ごめん……、双葉ちゃん」


 ……もう、謝ることしか、できなかった。



   ○



 わたしと双葉ちゃんは近くの公園に移動していた。

 公園に移動してからも、わたしはしばらく泣き止めなかった。

 その間ずっと双葉ちゃんが寄り添ってくれた。


 わたしは自分のことが情けないと思う。

 ダメダメだ。

 デート中に他の人のことを思い出して、それで泣いてしまって。


 それでも、こんな情けないわたしに寄り添ってくれる双葉ちゃんに申し訳がない。

 愛華との戻らない日々への痛みと双葉ちゃんへの罪悪感で胸がいっぱいだった。

 涙が止まったのはどれくらい経ってからだろうか。


「……ごめんね、双葉ちゃん。もう大丈夫、だから」


 ベンチに座っていたわたしは隣に座る双葉ちゃんに謝る。


「いいんですよ、これくらい。……でも本当に大丈夫ですか?」

「……うん、ちょっと嫌なことを思い出しちゃっただけだから」

「嫌なこと、ですか。それってやっぱり……」

「違うよ。たぶん双葉ちゃんの思ってることじゃない、から」

「……それなら、いったいなにがあったんですか?」

「それは……」

「私、先輩の力になりたいんです。だから、よかったら話してくれませんか?」


 双葉ちゃんがわたしの右手を握って、どこか不安そうな顔でそう言った。

 なにかを祈っているようにも見える。

 なんでそんな顔をするんだろう。


 自分のことのように、わたしのことを心配してくれているんだろうか。

 だとしたらそれはすごく申し訳ないな。

 ……双葉ちゃんを利用するようなわたしのことなんて、心配する必要なんてないのに。


 双葉ちゃんに対して申し訳ない気持ちはある。

 だから双葉ちゃんの気持ちに応えたい。

 そうは思うけど、やっぱり正直に言うことはできない。


 そんなことをしたら双葉ちゃんが悲しい思いをしちゃう。

 だからできない。

 ……しちゃ、いけないんだ。


「……ううん、大丈夫」

「……本当に、ですか?」

「うん。……心配かけてごめんね」


 わたしは小さく笑ってみせる。

 双葉ちゃんはなにか言いたげに口を開けて、でもすぐにその口を引き結ぶ。

 それからパッと笑顔になった。

 でもその笑顔は少し寂しげに見えて、握られた手には少しだけ力が入っている気がした。


「わかりましたっ。でもなにかあったら相談してくださいね。……私たち、恋人なんですから」

「……うん、ありがと」


 ……ホントにつくづく自分が嫌になる。

 双葉ちゃんはわたしのことを心配してくれているのにわたしは嘘をついちゃっている。


 双葉ちゃんに不誠実だと思う。

 それがホントに心苦しい。

 でもそうするしかないんだ……。



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