第20話 恋と好き
「涼子先輩っ」
ある部活の日のこと。
わたし――栗林涼子が下駄箱で靴を履き替えていると双葉ちゃんに声をかけられた。
「おはよ、双葉ちゃん」
「おはようございますっ」
双葉ちゃんはいつも通りに挨拶を返してくれた。
そうしてわたしは双葉ちゃんと部室に向かおうと歩きだそうとする。
でも双葉ちゃんはわたしのことを見つめたまま動かなかった。
だからわたしも足を止めた。
「……どうかした?」
「私、先輩に話があるんです」
「話?」
「はい。……ここでは話しにくいので、場所を変えてもいいですか?」
「うん、いいよ」
不思議に思いながらわたしはそう答えた。
なんの話かはわからなけど断る理由なんて特になかった。
わたしは双葉ちゃんのあとについて中庭に移動する。
中庭には大きな桜の木が立っていた。
夏の今は青々とした葉桜で、それを囲うように円形のベンチがある。
そのベンチには座らず、その前で双葉ちゃんが立ち止まる。
そしてくるりと振り返ってわたしを見つめてきた。
そうやってわたしと双葉ちゃんは向かい合って立つ。
「それで、話ってなにかな?」
わたしから切り出すと、双葉ちゃんは一つ大きく深呼吸をした。
それから双葉ちゃんは真剣な目でわたしを見つめてきながらゆっくりと口を開いた。
「涼子先輩、好きですっ、私と恋人になってくださいっ」
「え……」
……双葉ちゃんが、わたしのことを好き?
恋人になってくださいってことは、えっとつまり……。
恋愛的な意味でってこと……?
待って、そんなこと知らなかった。
こういうときってどう答えればいいんだっけ?
えっと……。
「……あ、ありがと。えっと気持ちは嬉しい」
「じゃあ私と付き合ってくれますか?」
双葉ちゃんは動揺するわたしにぐいっと一歩踏み込んでくる。
「ちょっ、ちょっと待って、落ち着いて」
わたしは両手で制しながらさり気なくちょっとだけ後ろに下がる。
まだなにも返事をしてないのに食い気味で来るなんて……。
双葉ちゃんはなにか焦っているみたいだった。
いや違う、焦っているんじゃないか。
たぶん冷静そうに見えて双葉ちゃんは緊張しているのかもしれない。
誰かに好きって告白することは緊張するものだと思う。
……わたしも一度だけ似た経験をしたことがあるから気持ちはわかる。
「……ごめんなさい、涼子先輩。気がはやってしまいました」
我に返って様子の双葉ちゃんが頭を下げてきた。
「でも私、どうしても先輩と恋人になりたくて……。それくらいに好きなんです」
「ホントにね、その気持ちは嬉しいんだ。これはホントにホント。でも……」
付き合えないということをどう伝えていいものか、わたしは悩んでしまう。
双葉ちゃんから目を逸らして、目線を泳がせながら考えるけれど答えは出ない。
ストレートに言うのはなんだか気が引ける。
年上のくせに情けない限りなんだけど……。
「でもってことは付き合えないってことですか?」
わたしの様子に見かねたのか、双葉ちゃんがそう聞いてきた。
「……まあその、そうなるというか」
「どうしてですか?」
双葉ちゃんがまた踏み込んでくる。
なにか圧みたいなものを感じて、わたしは後退る。
「恋人がいるんですか?」
「いないよ」
「女同士とか、そういうのダメなんですか?」
双葉ちゃんが踏み込んでくる。わたしもまた後退る。」
「そ、そんなことないよっ、それは絶対ない」
「好きな人がいるんですか?」
「うぇ? それはっ……えっと……」
さらに双葉ちゃんは詰め寄ってきて。
「いるんですか? いないんですか?」
わたしもまた後退ろうとして……。
なにかに足が当たって後ろにバランスを崩してしまった。
幸いにもそのなにかはベンチだったみたいで、ただそこに座る形になっただけだった。
でも目の前にはわたしよりも少しだけ目線の高さが上がった双葉ちゃんがいる。
その距離は近くて、わたしがベンチから立ち上がれないくらいだった。
「……答えてください、先輩。どうして私と恋人になれないんですか」
濡れたような声で双葉ちゃんが囁くみたいに、弱々しく聞いてくる。
わたしの両腕に双葉ちゃんの両手が触れる。
その手は震えていた。
その震えがどんな感情から来るものなのかはハッキリとはわからない。
でも膝が触れ合うくらいに近い双葉ちゃんのわたしにとても近い距離にある瞳。
その中に映っている色は祈りみたいに見えた。
……わたしはどうしたらいいんだろう。
どうしたらその祈りを打ち砕かずに断れるんだろう。
きっとそんな方法はどこにも――。
そのとき、だった。
パサリとなにかが落ちた音が聞こえた。
わたしと双葉ちゃんは同時に視線を音の方へと向ける。
中庭の入り口に、愛華が立っていた。
□
あたし――愛川愛華が涼子を探して中庭にたどり着くときだった。
涼子が……、望月さんとキスをしようとしていた。
あたしの手から持っていたノートが地面に落ちる。
その音を遠くに聞きながら、あたしは涼子を見つめる。
涼子が呆然とした顔であたしを見ていた。
「愛華……?」
「……アンタ、なにやってんのよ」
最初こそ呆然としていた頭が急激に冷えていく。
あたしの心は凪いでいて、どこか妙に冷静だった。
「……なにって?」
「……涼子。アンタ、あたしのこと好きなんじゃないの?」
「え……? なん、で……」
けれど、その冷静さも長くは続かなかった。
冷え切って固まったあたしの心の底から、静かに少しずつ怒りが沸々と湧いてくる。
その湧き出してきた感情は、自分では抑えておけなかった。
「……あのときあたしに向かって言ったでしょ、好きだって」
「い、いやちょっと待ってよあれは違うって――」
「じゃあ! ……どうしてあんな深刻そうな顔で言ったの?」
……どうしてこんなにも、あたしの心は荒んでいるのだろう。
まるで嵐が吹き荒れているかのように、心の中がうるさいくらいに騒がしかった。
「そ、それは……」
「そうやって好きって言ったくせに、どうして望月さんとキスしようとしてたの?」
涼子があたしのことを好きかどうかなんて実際のところはわからない。
あたしに対して恋愛感情なんて抱いていない可能性も十分にある。
むしろ望月さんのことをこそ恋愛的に好きなのかもしれない。
「キス? そんなことして――」
「それとも二股でもかけようとしてたわけ?」
「そんなわけないよっ」
あたしの怒りは的外れかもしれない。そんなことはすべてわかっている。
それなのに涼子を許せないと思う自分がいた。
その思いはどうしてか止められない。
刺々しい感情を涼子にぶつけることが止められない。
「アンタ、そうやって誰でも思い通りになるって思ってるんでしょっ」
「……それ、どういう意味?」
「だってアンタ、顔もいいしスタイルだっていいからどうせモテモテなんでしょ。だから調子に乗っていろんな子に手を出そうとしてるんじゃないのっ」
自分が酷いことを言っていると頭ではわかっている。
そんなこと、涼子が思っているわけなんてない。
涼子はそんな子ではないとわかっているのに、感情がそれを納得してくれない。
こんなこと、涼子を傷つけるだけだってわかっているのに……。
けれど理性ではない感情の部分で傷つけてもいいと思うあたしがいる。
「……わたしのこと、そんなふうに思ってたんだ」
俯いてしまった涼子が呟くように言った。
「……酷いよ、愛華」
その声は痛みを堪えるような声色だった。
あたしの心も鋭く痛む。
けれど、酷いのはどっちだ、と思う。
だってそうでしょ?
「涼子が……、アンタが悪いんでしょ! アンタはあたしの気持ちを裏切ったんだから!」
あたしは涼子に傷つけられたのだ。
……あれ? でもどうして?
どうしてあたしは涼子に裏切られたって思っているのだろうか。
心のどこかで理性のあたしが口にした。
それに答えるように、感情のあたしは――。
「あたしの涼子が好きな気持ちを裏切ったアンタなんて、大嫌いよ!」
――そう怒鳴っていた。
瞬間、はっと我に返る。
……あたしは今、何と言った?
視線の先で涼子が目を見開いていた。
あたしは呆然となった頭で視線を下に向ける。
足元に落ちたノートを見つめる。
それは涼子に読んでもらうために描いた漫画。
涼子が傷つかないようにと、あたしが描いた漫画。
どうしてあたしは涼子が傷つかないようにと、この漫画を描いたのだろう。
大切な友人だから? 本当にそれだけなの?
……。
…………あぁ、そっか。
そうなんだ。
そういうことなんだ。
あたし――。
――涼子のことが好きなんだ。
だからあたしはこんなにも、心に痛みを感じているのだ。
そうわかった瞬間、あたしはその場から逃げた。
誰も呼び止めなかったし、追いかけても来なかった。
けれど今のあたしにとってはそれでよかった。
その答えはすっと心に染み渡るように広がって、身体の中で自然に居座った。
認める前はあんなに否定していたのに認めた今はそれが答えだとわかってしまった。
いや、ホントは目を逸らしていただけなのかもしれない。
もっと前からその感情の片鱗はあったのかもしれない。
最初のほうから涼子は他の子と違っていた。
拒絶してもどうしてかあたしに懐いてきて……。
友人になるつもりはなかったのに、気がつくと押しに負けて仲良くなってしまっていた。
あたしが他者を拒絶するために張っていた透明な壁を壊してきたのだ。
不思議な子なのだ。
一緒にいるとどうしてかすっと心が安らぐというか居心地がいいというか……。
そうやって過ごすうちに少しずつあたしの中に一つの感情が形作られていったのだろう。
そして今その感情に『恋』という名前がつけられた。
……つけられてしまったのだ。
あたしが心の底から嫌っていた感情だった。
そのはずだったのに。
心の中に一筋の傷が入るのを感じた。
その傷はジンジンと染みるような痛みを発する。
……あたしは思った。
やっぱり恋というものは傷を与えるものだ、と。
だからあたしは涼子を泣かせてしまったし、あたしはこんなにも心に痛みを感じるのだ。
「……恋愛なんて、やっぱり大嫌いだ」
そのとき吹いた風は弱々しく生温くて、頬を気持ち悪く撫でていった。
○
暗い部屋で、わたし――栗林涼子は膝を抱えてうずくまっていた。
愛華とのやりとりが頭の中でずっとぐるぐるしていた。
愛華はわたしのことを好きだと言った。
前に愛華が言っていた『その人』はわたしのことだったのかな?
……今さらそんなことを考えても意味なんてないか。
愛華はもう大嫌いになってしまったみたいだから。
……わたしは、今まで何をしていたんだろう。
愛華と恋人ごっごができたくらいで喜んで。
それってはしゃいでいたわたしがバカみたいだ。
……そっか。
わたし、失恋したんだ。
もう、愛華と一緒にいられないかもしれない。
いや、きっともういられない。
あんな別れ方をしたんだ。
きっとそうに違いない。
……また好きに拒絶された。
子供っぽいって言われるものが好き。
でも身体に似合わないから拒絶された。
百合漫画を読むのも描くのも好き。
でも才能がないから拒絶された。
そして愛華のことが好き。
でも愛華には否定された。
……拒絶されたんだ。
……もう愛華への『好き』しかわたしには残っていなかったのに。
その『好き』からも拒絶されちゃった……。
小学生の頃を思い出す。
初めて『好き』に拒絶されたときのことを、思い出す。
……わたしは『好き』に拒絶され続ける運命なのかな。
もしそうだとしたら、わたしは……、もう、なにも好きには。
……なにも好きになっちゃいけないのかな。
そんなのって、あんまりだよ。
なんで『好き』に拒絶されなくちゃいけないの?
わたしはただ好きなだけなのに……、なんでなんだろう。
だったらもう――。
わたしは力なく立ち上がるとそっと勉強机に近づく。
引き出しを開けて願望ノートを一冊取り出す。
そしてパラパラとページを開いていく。
わたしの願望が何ページにもわたって描かれている。
……わたしが描いた漫画。
一冊だけじゃない。
他にもこの一年で作り上げたノートが数冊、引き出しの中にある。
手に取ったのはその一つでしかない。
でもわたしにとっては大切な一部で。
わたしの心を支えてくれた大切なもの。
その一冊が最後のページを開いて……。
わたしはそれを床に落とした。
もう一冊ノートを乱暴に引き出しから引き抜いて床に投げ捨てる。
もう一冊投げ捨てる。
もう一冊叩きつけるように床へ捨てる。
「こんなものっ」
もう一冊もう一冊と、感情に任せて床へ投げ捨てる。
――『好き』に拒絶されるんだったらもう、全部捨てちゃえばいい。
いらない。
こんなものいらないっ。
全部落として……。
一冊乱暴に拾ってゴミ箱に向かって投げつけようとする。
でも、……できなかった。
わたしはノートをかき集めて胸に抱きしめる。
これはたしかに叶うことがないって思っていた願望だった。
失恋しなくたって叶うわけなんてないってわかっていた。
でももしかしたらどこかでちょっとは期待していたのかもしれない。
それが失恋した今、万に一つもなくなった。
もう存在していたって意味がないのかもしれない。
捨ててしまったほうがいいんだと思う。
でもやっぱり捨てられないんだ。
だって大切な宝物だから。
このノートの中にはわたしの愛華への想いが詰まっている。
そんな愛華への想いを捨てるなんてことわたしにはできない。
失恋相手だとしてもそんなことはしたくない。
なにがあろうと大切なものなんだ。
他のもそうだ。
この部屋にたくさんある百合漫画も。
水玉模様のリュックサックも。
やっぱり全部大切なんだ。
……全部好きなんだ。好きだから……。
だから捨てられない。
……捨てられないんだ。
抱きしめたノートを、涙の欠片が濡らしていった。
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