第19話 恋と漫画
あたし――愛川愛華は涼子と駅で別れて、あたしは帰りの電車に揺られていた。
窓の外を過ぎ去っていく風景を眺めながら、涼子に言われたことを考えていた。
……駅へ向かう道すがら涼子に『好き』と言われた。
涼子は白熊のことだと訂正した。
けれどそれにしては『好き』と言った彼女の表情は必死そうに見えた。
まるでなにかにすがりつくかのような……。
そんな顔をした人が、白熊が好きだなんて話をするだろうか。
ましてや好きなものの話をする涼子はもっと楽しそうにするはずだ。
だからそれは誤魔化すための言葉だと直感的にわかった。
だからあたしは誤魔化されたフリをした。
けれど頭の中ではそのことばかりを考えていた。
あの『好き』はいったいどういう意味だったのだろうか。
……涼子はあたしを見つめて好きだと言った。
そこから考えられるのは……、涼子はあたしに対して好きと言った?
友達として、という意味ならやっぱり涼子はもっと違う顔をするはず。
だとしたら答えは一つしかない。
そもそも誰かに対して好きと言う場合、その意味は限られてくると思う。
友愛や親愛から来る好き。
そして恋愛感情から来る好き。
きっとそれくらいだと思うのだ。
そうなると答えは自ずとただ一つに絞られてしまう。
前者が否定された今、つまり答えは後者ということになってしまう。
……涼子はあたしのことが、恋愛的な意味で好き?
そんなわけがないとは言い切れなかった。
人は誰かの心を覗けない。
隠している気持ちは、簡単には暴けない。
わかってもその片鱗だけで、本当の意味でわかることなんてない。
直接聞いて、答えを教えて貰わない限りはわからないのだ。
だから涼子が言葉にしてくれないと否定できない。
つまりそうならない限り可能性は残り続ける。
……もしも涼子があたしを好きなら、それは少しまずいかもしれない。
涼子と歩きながらあたしはそんなことを思った。
だってあたしはその気持ちを受け入れる事ができない。
もしも涼子があたしに好きと伝えて来たら断る以外にない。
そうなれば涼子が傷ついてしまう。
そんなことはあってはならない。
あたしはそうやって涼子を傷つけたくはない。
どうにかしてそれを避けなくてはいけない。
けれどどうやって……? わからない。
恋愛経験がないからどうすれば涼子を傷つかないで済むのかがわからない。
……あたしは、どうすればいいのだろう。
そうやって考えてみても答えが見つからない。
このままでは母のようになってしまう。
そうだ、あたしは母のようになりたくない。
なるわけにはいかないんだ。
けれど、どうあっても涼子を傷つけることになりそうだった。
そうなればあたしは母のように傷つけてしまった自分を許せないだろう。
結果、あたしは涼子と一緒にいられない。
涼子だってあたしとはいたくなくなるだろう。
あたしたちはそうやって離れ離れになってしまう。
本人にはあんまり言いたくないけれど、あたしはその……。
涼子の傍が心地いいのだ。
そんな涼子との関係が恋愛なんかで壊れてほしくはない。
だからなにをしてでも……。
たとえばあたしの弱さを見せることになったとしてもこの関係は守りたい。
「……そっか、そうすればいいのか」
いっそのことあたしの事情を、つまり弱さを伝えてしまえばいいのかもしれない。
そうすれば涼子は傷つく前に踏み止まってくれるかもしれない。
実際のところ涼子があたしに恋愛感情を抱いているのかはわからない。
あくまでも可能性があるというだけの話だ。
それでも構わない。
涼子を傷つける可能性がなくなるのなら素直に伝えよう。
そう決めた。
けれど……、問題はどう伝えるかだった。
あたしは人との会話がそれほど得意じゃない。
今までずっと周りを遠ざける言動をしてきたからか、上手く言葉を選べないときがある。
誤解をされる言葉選びになってしまうかもしれない。
涼子を真意とは違って傷つける可能性は充分にある。
なるべくそうならないように伝えなくてはいけない。
そうなるとどうしたものか……。
……いや、一つだけあった。
漫画だ。
漫画であればあたしは現実世界よりも素直になれる。
何より表現することに慣れている。
感情も思いも、描くことに慣れている。
そういう漫画をずっと描いてきたから。
「……よし」
あたしは一人小さく決意する。
自宅の最寄りの駅で電車を降りて、駅近くの文房具店で無地ノートを買った。
このノートに漫画を描いて涼子に渡そうと思ったのだ。
そのまま自宅へと帰ると、あたしは自室に籠もって漫画を描き始めた。
すべては涼子のために、涼子のことを考えながら、あたしは漫画を描き続けた。
□
これは昔の話だ。
『愛してる』
母はあたしによくそう言ってくれた。
愛しているの意味なんてしっかりとはわかっていなかった。
けれどそれが好きと似た意味だということはなんとなくわかっていた。
だからあたしも母に好きだと返していた。
記憶の中にある、そんなあたしの母は静かな人だった。
感情を荒らげたりだとか、大きな声で笑ったりだとか。
そういうことは一切なくて、あたしは幼いながら感情の薄い人だと思っていた。
けれど夜な夜な父の遺影の前で泣いている姿を何度も見ていた。
あたしはそれが本当にどうしようもなく心配だった。
けれど幼いあたしにはどうすればいいのかがわからなかった。
それがある日を境にその姿を見なくなった。
それどころか少し明るくなった気がした。
あたしはそれが嬉しくて安心していたのだ。
けれど――。
それはあたしが小学三年生の頃だった。
『ごめんね』
幼いあたしに母は言った。
夕暮れ時で、空がオレンジ色に染まっていたのを憶えている。
けれどそのときどんな顔をしていたのか、自分のことも母のことも憶えていない。
ただ母の声色はいつになく機嫌がよさそうで、どこまでも優しかった。
けれどその感情はあたしには向けられていないと幼いながらにわかった。
あたしのことなんて見ていなかったのだと思う。
母がそのとき見ていたのはきっと――。
『私ね、恋をしたの』
――あたしの知らない誰かのことだった。
そうして母は幼いあたしを置いて家を出ていった。
あたしはそれが悲しかった。
だからあたしはきっとそれなりに大きな理由があったのだと思い込もうとした。
恋にはそれだけのものがあるのだと。
あたしが捨てられても仕方がないほどのものだと。
恋は母があたしを捨ててもいいくらい、大切なものだって思い込もうと頑張り続けて。
けれどそれがだんだんと揺らぎ始めていった。
本当に恋はなによりも優先されるものなのか。
恋とはそれほどに重要なのか。
あたしが負った心の痛みは仕方のないことなのか。
だとすれば恋とはなんなのか。
だからそれを知りたくて恋愛漫画を読んでみた。
そうして知ったのは恋というものは残酷であるということだ。
とある少女漫画に、主人公に恋するサブヒーローがいた。
彼は主人公に告白して、けれど振られてしまった。
そして主人公はメインヒーローを選び結ばれる。
主人公とメインヒーローはそれで幸せなのだろう。
それじゃあ振られてしまったサブヒーローは?
別の漫画ではメインヒーローに告白して振られてしまった主人公のライバルがいた。
とある少年向けラブコメ漫画で主人公に選ばれなかったサブヒロインがいた。
いつだって主人公たちは幸せで、その影で痛みを抱えるキャラがいる。
仕方がないことだと思う。
一方を選べば一方は選ばれない。
そんなのは当然だ。
だからあたしは恋愛漫画が嫌いになった。
現実の恋愛も嫌いになった。
恋愛は誰かを犠牲にするものであると知ってしまったから。
だから嫌いになった。
そうだ、恋愛漫画を読んだところでいいことなんてなに一つなかった。
手に入れたのは納得じゃなかった。
やってきたのは悲しさじゃなかった。
残ったのは恋愛に対する嫌悪感だけだった。
あたしは母のようになりたくないと思った。
だってあんなにも痛い気持ちを他の誰かに与えたくはないから。
□
あたしは母のように恋をして誰かを傷つけたくない。
かと言って、誰かの愛を受け入れて傷つきたくもない。
だからあたしは涼子のことを好きにならない。
涼子の想いを受け入れることもできない。
それを涼子に伝える。
そうすることで彼女を踏み留める。
これがあたしと涼子にとって、互いに最良の選択肢のはず。
そうしてあたしは漫画を描き終えた。
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