第18話 恋と痛み
ある日の部活終わり。
わたし――栗林涼子は愛華に相談があると言われた。
またネームに関することだったら嫌だなって思ったけど、断れるわけなんてなかった。
だからのこのこ愛華のあとを追って自分たちの教室にやってきていた。
夏休み中の教室には誰もいなくて、愛華と二人きりだった。
窓の向こうからセミたちの大合唱と、その隙間から運動部の掛け声が聞こえてくる。
「……それで相談って言うのはね」
愛華がぽつりと言った。
愛華は普段と違う、わたしの隣の席に座っている。
わたしが望んでいた景色でもあった。
「あたし、最近おかしいの」
「おかしい?」
「……ある人のことになるとすごくモヤモヤするの」
思っていたのと違う相談内容でちょっと戸惑ってしまう。
まさか愛華からそういう、なんていうか心理的? なことを相談されるなんて。
わたしになにかできるんだろうか。
モヤモヤするってだけだとなんとも言えない。
もう少し詳しく聞いたほうがいいよね。
聞いたところで手助けできるかわからないけど。
……嫉妬なんてしたくせにまだ助けたいなんて思うんだ。
結局、嫉妬しても好きなのは変わらないんだね。
……余計に苦しいな。
そんなことを頭から追い出して、わたしは愛華に視線を向ける。
「えっと、たとえばどういうとき?」
「たとえば……。後輩にその人のことが好きなのかって聞かれた。そのときモヤモヤした」
愛華に限ってそんなことはありえないと思う。
だって愛華は恋愛が嫌いで。
そんな人が誰かを好きになるなんてあるんだろうか。
それも急に……。
いやでも、可能性はゼロじゃない。
ありえないなんて、わたしの身勝手な願望かもしれない。
わたしの中で冷たいなにかが蠢いているような、嫌な感じがする。
取り除こうとしてもそれは全身を走り回るようにあちこちへと移動して捉えられない。
でもどうにかしたくて、わたしは恐る恐る口を開く。
「……その人のこと、好きなの?」
「……違う、と思う」
「そっか……」
愛華には内緒でほっと胸を撫で下ろす。
……答えるまでにあった少しの間。それから「思う」という言葉。
その二つのことに抱いた違和感からは目を逸らした。
そうじゃないと不安でどうにかなりそうだったから意識的に遮断した。
大丈夫。
愛華自身が違うと言っているし、言語化しなければ違和感はないのと同じだ。
だから、わたしは大丈夫……。
ちゃんと安心できたんだ。
「ねえ、涼子。……このモヤモヤって、なんだと思う?」
愛華が叱られるのを怖がっている子供のような、心細げな顔でわたしを見つめてくる。
わたしは視線を逸らして意味もなく自分の手を見やる。
なんでか愛華と目線を合わせられなかった。
……ホントは不安を消し切ることなんてできていなかったのかもしれない。
こんな言葉が勝手に口から飛び出してしまった。
「……その人のこと、ホントは好きなのかもね」
「え……」
「愛華は恋愛を知らないから、その恋に気づいてない。そういうことかもねってこと」
愛華の顔をちらっと見上げる。
愛華はなにかを考えているようだった。
……なにを考えているんだろう。
それが気になってしかたない。
でも聞くことはできなくて……。
なんでだろう。
何も言えずにいた。
わたしたちの間に沈黙の時間が流れる。
窓の外から音が聞こえてくるのに、でも痛いくらいの静寂があるように思えた。
まるで時間が止まってしまったみたいだった。
わたしは……、その時間に居心地の悪さを感じる。
どうしようもない気まずさを。
だから終わらせようと思った。
この時間を終わらせるんだ。
何も言えない自分の口を無理矢理にこじ開けた。
「……なんてね。冗談だよ」
わたしは意識してニッコリと笑った。
外面を繕うのは得意だ。
大丈夫、誤魔化せる。
だからこれで気まずい時間は終わる。
そう思った。
……思ったのに。
愛華はわたしの言葉を聞いていなかった。
ただなにも言わずにわたしのことをじっと見つめてくる。
愛華がその小さな右手を自分の胸に当てた。
かと思ったらその手をぎゅっと握り込む。
握られた愛華のブラウスがくしゃりとシワを作った。
その頭がいやいやをするみたいに、ゆっくりと左右に振られる。
愛華の表情は目の前に自分の怖いものが現れたときに浮かべるみたいな……。
言うなればそう……、茫然自失って言葉がぴったりとはまるって言うか。
そういう顔に見えた。
そんなことはないと。
ありえないって認めたくないと。
そう言っているみたいだった。
でもホントに違うって断言するとき、人はそんな顔は見せない。
……待ってよ。
なんでそんな反応するの?
だってその反応は、まるでその人のことが……。
――ホントに好きみたいじゃん。
「……ごめん」
愛華が謝る。
「ごめんって、なにが――」
「あたし、用事があるのを忘れてた。もう帰る」
愛華が慌てたように席を立って、自分の荷物を手に取る。
わたしも慌てて席を立つ。でも。
「ま、待ってよっ」
わたしの制止の声は届かなかった。
伸ばした手はなにも掴まなくて……。
愛華はわたしから逃げるみたいに教室を飛び出していった。
わたしはそんな後ろ姿を追いかけることができなかった。
ひとりぼっちになったわたしは愛華の出ていった扉を見つめることしかできなくて……。
……愛華はもうここにはいない。
わたしの隣に、愛華はいない。
その事実だけがそこにあった。
そうしてモヤモヤとしたものだけがわたしの心の中に残っている。
……セミの鳴き声が静けさを切り裂いていた。
□
あたし――愛川愛華は走りながらシャツの胸元を握り込む。
……ドキドキした。
このドキドキはいったい何なのだろう。
『……その人のこと、ホントは好きなのかもね』
涼子の言葉が頭の中でリフレインされる。
「……違う」
そんなわけがない。
あたしが涼子を好きだなんて、そんなわけが……。
だってあたしは恋愛が嫌いで、誰かを好きになんてならないのだから。
幼い頃の記憶が蘇る。
あたしが絶対に恋なんてしないと決めた出来事を、思い出す。
……そうだ、これは違う。
あたしは涼子に恋なんてしていない。
……していないのだ。
あたしはそう強く思った。
○
わたし――栗林涼子は呆然とした時間を過ごしていた。
愛華のことを考えていた。
あのときの愛華のことを。
……愛華はいったいなにを考えていたんだろう。
ベッドの上で横になってじっと天井を見上げてずっと考えている。
もんもんと、ずっと……。
……愛華は『その人』のことが好きなんだろうか。
あの恋愛嫌いの愛華が?
……でも愛華は恋愛漫画を読めるようになった。
それって関係ある?
現実と物語とは別のものなわけで……。
……でも愛華は現実でも物語でも恋愛が嫌いだって言っていた。
それなら物語の恋愛を読めるようになった愛華は現実の恋愛も……。
いやでも考えすぎかもしれない。
……じゃあなんであのとき愛華はあんな顔をしたんだ。
自分ですらわからなかった感情に気がついたみたいなあの顔。
頭から離れない。
……そうやって考えて結局最後には最初の思考に戻る。
その繰り返しだった。
気がつけば一日二日経っていて、部活のある日になっていた。
わたしは朝ごはんを食べてしばらくぼうっとして……。
食卓の椅子に張り付きかけた重い腰を引き剥がして家を出た。
足取りは重く、ゆっくりと学校に向かう。
夏の太陽に溶かされそうになりながら。
セミの鳴き声に耳を突き刺されそうになりながら。
わたしはアスファルトの道を歩いていく。
校門を抜けて昇降口に向かう。
なんとなく愛華の下駄箱を見てみる。
愛華はまだ来ていなかった。
……愛華と会ったらどんな顔をすればいいのかな。
そんなことを考えても結局わたしは笑顔を取り繕うんんだろうなって思う。
わたしはそういう女だから。
いつだって自分の気持ちを押し込めるんだ。
でも愛華と恋人ごっごをしていたときは少しだけわがままを言えていたな。
……でもわたしが取り繕えたとしても、愛華はいつも通り接してくれるんだろうか。
今も頭の中に残っているのは愛華の逃げるみたい駆けていく後ろ姿。
またあんなふうに逃げられてしまわないかな。
逃げられる理由なんてわからないけど、どうしてもそう思ってしまう。
「……そんなわけ、ないよね」
部室に向かう途中の階段の踊り場で、窓から空を見上げて祈るみたいに呟く。
答えてくれる声は、否定してくれる声はどこからも聞こえない。
消えない不安を抱えながらわたしは部室へとただ歩いた。
そうやって部室の扉を潜ると双葉ちゃん駆け寄ってきて挨拶をくれた。
わたしはそれに挨拶を返して、双葉ちゃんと会話を始める。
……気を紛らわすみたいに。
そうやって部室で双葉ちゃんと喋りながら愛華が来るのを待った。
昨日の夜は会いたくないって思うのかなって考えていたっけ。
会ったらどんな顔をすればいいのかなんて考えても会いたくないとは思わなかった。
なにがあっても、なにを考えても。
……わたしは愛華が好きってことなんだろうな。
いつもは早く部活に来ている愛華がまだ来ていないことに嫌な予感がする。
なんてことには目をそらして、いつも通りになることを祈っていた。
やがて愛華は部活開始ぎりぎりに来て、わたしの隣じゃない別の席に座った。
だから喋ることはできなかった。
……嫌な予感は増していた。
○
部活が終わって解散になった。
「……愛華」
帰る準備をさっさと終わらせて、わたしは恐る恐る愛華に声をかけた。
帰り支度をしていた愛華はその手を一瞬止める。
でもそれだけだった。
すぐに再開して。
「なに?」
わたしの顔を見ずに、愛華は答えた。
「あの、その……。一緒に帰らない?」
「どうして? 帰り道違うし、……あれも終わったでしょ」
愛華の言うあれはたぶん恋人ごっこのことだ。
「なんていうか、今日愛華来るの遅かったじゃん? 全然喋れてないから、なんかこう、物足りなくて……」
帰り支度を終えた愛華が立ち上がって、ようやくわたしの顔を見てくれた。
そうして愛華は口を開く。
「別にいいけど……。そんなので物足りなく感じるなんて変なの」
「そう、かな?」
……よかった、いつも通りだ。
なにかが変わっていたらどうしようなんて思っていたけどどうやらわたしの杞憂だった。
愛華のいつもと変わらない様子に安心しつつ、わたしは愛華と一緒に部室を後にする。
愛華との他愛のない会話が今は何よりも嬉しく感じられる。
でもその影にちらつくあの日の愛華の顔がまだ少しの不安を煽ってくる。
……愛華にはホントに好きな人がいるんだろうか。
嬉しさの裏にあるそんな不安から目をそらそうとしてもできない。
嬉しいだけのほうがいいのに。
それだけならどんなに幸せか。
わたしと愛華は下駄箱を抜けて校門を抜けて、駅への道を歩いていく。
青い空に夏の太陽が浮かんでいるけどなんでだろう。
暑さを感じられない。
背中に冷たいなにかが張り付いているみたいだった。
もしも愛華がその誰かへの想いを伝えられてしまったなら。
愛華はどうなるんだろう。
相手がその想いを受け入れたら二人は付き合うのかな。
そうなったらわたしはどうなるんだろう。
失恋したってことになるわけ、だよね。
それだけじゃなくて愛華と過ごせる時間が減って、段々と疎遠になっていく。
……ホントに愛華がわたしの隣からいなくなる。
そんなの耐えられるわけがない。
だってわたしには愛華への好きしか残っていないのに、それさえ奪われてしまう。
そんなの嫌に決まっている。
隣を歩く愛華の横顔を見つめる。
可愛いといった印象の幼い顔立ち。
子供のようなまるっとした目元に薄茶色の瞳。
だけどその眼光は鋭く感じる。
茶色の髪は肩に届くか届かないほどのミディアムヘア。
長めの前髪を後ろへ流し、毛先が外へとハネている髪型。
その髪から香るのはオレンジフラワーの上品な匂い。
わたしはその全部が好きだ。
どうしようもないくらい、わたしは愛華が好きなんだ。
わたしの視線に気がついた愛華がわたしに目を向けてきた。
わたしと愛華の視線が交わる。
「どうしたの? 涼子」
なんでもないよって、そう答えるつもりだった。
でもわたしに唯一残された好きっていう感情が漏れ出して……。
「……好き」
気がつくと、そんなふうに口を滑らせてしまっていた。
「……え」
困惑した顔の愛華を見て、わたしは我に返る。
「あ、今のはそのちがくて……」
必死に誤魔化す言葉を探す。
どうしよう……、どうしたら……。
なにかないかな。
なにか誤魔化すためになにか……。
「だから、その。……そう! わたし、しろくまが好きって。その話をしようと思ったんだけど好きが先行しちゃったというか……」
……これで誤魔化せた、かな。
さすがに無理があるかな。
わたしは恐る恐る愛華の様子を窺う。
愛華は呆れたみたいな表情を浮かべていた。
「……なに、それ」
そして愛華は視線を前へと向けて、わたしの先を歩きだしてしまう。
いつもと変わらないその反応に、わたしは一安心した。
よかった、ちゃんと誤魔化せたみたい。
……今度から気をつけないと。
わたしはいつも通りに、やっぱり笑顔を取り繕って愛華を追いかける。
胸の中の小さな痛みを愛華に隠しながら……。
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