第17話 恋と未知

 

 あたし――愛川愛華には両親がいない。

 父はあたしの物心がつく前に亡くなっていて、顔さえも覚えていない。

 だから母はシングルマザーであたしを育てていた。


 けれどそんな母もあたしが小学二年生の頃、あたしを置いて家を出ていった。

 あたしは自分が捨てられたのは仕方がなかったのだと思い込もうとした。

 母にはそれだけの理由があったのだと。


 そうしないと悲しみを消すことができなかった。

 けれどその代わりにやってきたのは言い知れない孤独感だった。


 親代わりになってくれた祖母はあたしに本当に良くしてくれた。

 そうやって祖母は精一杯の愛情を与えてくれたけれどあたしは孤独を消せなかった。

 なぜならあたしはその愛情を受け取るのが怖かったから。

 だから祖母の間にも壁を張っていた。


 あたしは母のことが好きだった。

 母も、少なくとも家を出て行くよりもずっと前の記憶の中では愛情を注いでくれていた。

 けれどその愛情は向けてくれなくなって、あたしの親愛も裏切られた。


 祖母の愛情を受け入れてしまったらまた失くしてしまうかもしれない。

 祖母に好きという感情を向けたらまた裏切られるかもしれない。

 あたしの中にはそんな恐怖があった。


 そうしてあたしは誰かと触れあうことができなくなった。

 触れ合いは親愛の証拠だ。

 それを受け入れることはできない。


 だからあたしは自分の周りに透明な壁を張って他者を拒絶した。

 そうすることで自分を守ろうとしたのだ。

 そんな幼いあたしの孤独を埋めてくれたのは漫画だけだった。


 漫画の世界は魅力的で現実を忘れさせてくれた。

 孤独を感じずにいられた。

 漫画があたしを救ってくれたのだ。


 だからあたしは夢中で漫画を読み漁った。

 嫌なことから目を背けるように……。

 ただしそんな漫画の中でも一つだけ、好きになれないものがあった。


 恋愛漫画だ。

 あたしは恋愛漫画だけは嫌いなのだ。

 物語だけではなくて、現実の恋愛も嫌いだった。

 それは母に捨てられたという過去に原因がある。


 今でも思い出せる。

 あの日の母の後ろ姿。


 思い出したくもないのに、一人ぼっちになったときのことが記憶から消えない。

 夕暮れの中に消えていく母親の姿が脳内に刻み込まれてしまっていた。


『恋をしたの』


 その言葉が耳の奥で響き続けているのだ。

 だからあたしは恋愛が嫌いだった。

 けれど、なにかが変わりかけていた。


 涼子と行った夏祭りの日。

 手を繋いで花火を見上げた夜。

 突然に涼子が熱っぽい目を向けてきた。


 潤んだその瞳を近づけられて……。

 それはあたしの勘違いだったのだと思う。

 だけど思ってしまった。



 ――あたし、キスされるんだ。



 もちろんあたしと涼子はキスをするような関係ではない。

 けれどそう思ってしまったのだ。

 そしてあたしはどうしてか胸の中がざわついた。

 そこには感じたことのないドキドキがあった。


 キスをするべきではない。

 そういう関係ではない。

 たしかにそういう理由もあった。

 けれどそれだけではない。


 あたしにとってキスとは恋愛の中にある行為だった。

 嫌いな恋愛の一部だと。

 だから拒絶するべきだったし、嫌がるのは当然のはずだった。

 

 そのはずだったのに、あたしは受け入れようとしている自分に気がついた。

 どうして? そう疑問には思った。

 けれどそれも一瞬のこと。


 すぐにどうでも良くなっていた。

 頭の中にあったのは涼子の唇のことだけだった。


 ……結局、キスをすることはなかった。

 けれどしばらくの間、身体が火照っていた。


 その火照りを涼子に気が付かれたくなくてあたしは花火に視線を向けた。

 手を離していなかったらバレていたかもしれない。

 だからよかったと思った。

 だけどその反面、なんだか寂しくもあった。


 ……今でも疑問に思う。

 どうしてあのとき、キスをされると思ったのか。

 そんなことはありえないのに。


 そしてどうして抵抗しなかったのか。

 嫌なはずなのに。

 

 あのドキドキはなんだったのか。

 知らない感覚だった。

 すべての答えは未だ出そうにない。


 そんな折、SNSでとあるネット漫画を見つけた。

 恋愛モノの百合漫画。

 その漫画は花火を背景に浴衣の少女二人がキスをしているシーンから始まっていた。


 あたしは夏祭りのことを思い出してどうしてか気になってしまった。

 だからなのか。

 気がついたら読んでいた。

 ……恋愛モノを読むのは嫌だったはずなのに。


 その漫画は恋愛を嫌いだった少女が仲のいい学校の先輩と恋人になるまでの話。

 全三十五ページを一気に読み終えたあたしは不思議な気分に包まれていた。

 どこか心地よくて、だけど胸がざわつくような気もした。


 二つは相反するもののはずで、なのに不和なく同居している。

 この不思議な気分は一体なんなのだろうか。

 その心地よさは涼子といるときと似ていて、そのざわつきは花火の夜と似ていた。


 あるはずの嫌悪感はどこにもない。

 あたしはどうしてしまったのだろうか。

 わからなかった。


 ただ、もしかしたら。

 あたしが思うよりも恋愛というものは悪いものではないのだろうか。


 ……いや、そんなわけがない。

 恋愛が良いもののはずがない。

 恋愛が良いものなら、あたしはこんなふうにはなっていない。


 ならどうして嫌悪感がやってこない?

 そう思ったとき、自分が抱く感情の変化の答えを知りたくなった。

 だからあたしは恋愛の百合漫画を読み漁った。


 だけど答えはやっぱり見つからなかった。

 その代わりに手に入れたのは漫画のアイデア。

 描けずにいたネームが一気に完成した。


 答えを見つけられないまま、ただどんどんと自分が変わっていくのを感じる。

 恋愛の百合漫画を読むようになって、涼子のことをよく考えるようになった。

 答えだけが取り残されて、周りだけが変化していく。


 そんな不思議な状況に身をおいていた。

 そんなあるとき。

 あたしが部活のために夏休み中の学校に行くと、後輩の望月双葉に声をかけられた。


「愛川先輩、ちょっとお話いいですか?」

「……え、あたしに? 涼子じゃなくて?」

「はい。……他の人にはあんまり聞かれたくない話なので、場所を変えてもいいですか?」

「……わかった」


 望月さんとはあまり会話をしたことがない。

 数少ない会話も望月さんが挨拶をしてくれて、それにあたしが応じるだけというもの。

 会話に数えていいのかもわからないレベルだった。


 だから望月さんに話があると言われて戸惑う。

 その戸惑いのままあたしは望月さんについていく。

 やがてたどり着いたのは学校の裏門辺りだった。


 門以外は金網が学校の敷地を囲っている。

 金網の向こう側には道路を挟んだ向かいに建つ小学校の建物が少しだけ見えた。

 セミの鳴き声が辺りに響いていて、人の声はどこにもなかった。


「単刀直入に聞きます」


 望月さんがあたしを真っ直ぐに見つめてくる。

 その表情はどこか張り詰めているように見えた。

 あたしはなんとなく気まずくて下を向いた。


 どうしてか怒られるときの気分だった。

 あたしは自分を落ち着けるように右手で左肘をぎゅっと掴む。

 年下に対して情けないなと思いつつも顔をあげられなかった。


「愛川先輩と涼子先輩は付き合っているんですか?」

「……それ、どういう意味?」

「愛川先輩は涼子先輩の恋人なんですかって聞いているんですよ」

「どうして、そんなこと……」

「夏祭りのとき、手を繋いでいましたよね? 私が声かけたらパって離していてなんか隠しているように見えました」

「そ、それはそういうのじゃなくて。……いろいろとあって」

「ということは付き合ってないってことですね?」


 望月さんが食い気味に確認してくる。

 あたしが小さく頷くと、双葉は一つだけ息を吐き出した。

 その表情から張り詰めた色がふっと消える。


「よかった……。てっきり付き合っているんじゃないかって心配してたんです」

「……それって」

「はいっ、私は涼子先輩が好きなんです」

「……それは、恋愛的な意味で?」

「もちろん、そうです。……あ、もしかして愛川先輩は同性同士の恋愛に否定的なタイプですか?」

「そういうわけじゃない、けど」

「けど、なんですか?」

「……なんでもない」


 なんでもない、はずだった。

 それなのに胸の中にモヤモヤとしたなにかが広がった。

 発生原因のわからないモヤモヤは重くわだかまって、胸焼けのような感覚を与えてくる。


 それが気持ち悪かった。

 だけどあたしはその解消方法を知らない。

 知らないのに――。


「でもこれで想いを伝えられます」

「……涼子に告白するって、そういうこと?」

「なにか不都合あります? ……もしかして、愛川先輩も涼子先輩が好きだったり?」

「……そんなわけ、ないでしょ」

「だったらいいですよね、涼子先輩を狙っても」

「……勝手にすれば」

「はい、そうします! 私、涼子先輩に告白します!」


 ――モヤモヤの解消方法なんて知らないのに。

 望月さんにそう言われてあたしの中にあるモヤモヤが一層増した。

 もっと重く立ち込めてしまう。


 深く広がっていって、気持ち悪さが強くなってしまった。

 身動きが、できなかった。

 まるでドロドロの沼に踏み込んでしまったみたいだった。


 いったい、あたしはどうなってしまったのだろう。



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