第3話 幼なじみであって妹ではない

「ごちそうさま」


 結局、そこそこ大きい鍋に入っていたカレーはあと一食分くらいしか残らず、4合炊いていたご飯は残り1合分くらいしか残らなかった。それもこれも、目の前の少女が「やっぱこれじゃ足りない!」とか言い出して次々とおかわりした結果だ。

 志乃はベッドのマットレス部分を背もたれにして休んでいた。あの小さな身体のどこに大量のカレーが消えてしまったのか、とても気になるところではある。


「そういえば、明日から学校だね」


 と、キッチンで洗い物をしている俺の背中に声が届いてくる。


「そうだな。志乃もそうなのか?」


「まあ、手続きは終わってるし、担任っぽい先生からも明日登校するよう言われてるから」


「そうか」


 食べ終わった皿、そして使い終わったスプーンをスポンジでごしごしとこする。なかなか汚れが落ちにくいのがカレー料理の難点だ。


「風見くんってさ、部活とか入ってるの?」


「いや、入ってない」


「せっかく青春を謳歌できる場があるっていうのに、もったいないなぁ」


「自分の時間を大切にするタイプなんで」


 まあ、実際はもっと別の大切な仕事があるからなんだが……それをいま彼女に話してしまうのは気まずい。


「たしかに、風見くんって昔から一人が好きだったよね」


「友達と遊ぶって言っても、大体は志乃が相手だったしな」


「高校に友達はいるの?」


「えーっと……3人くらいいる」


「え、いないのかと思ってた」


「すっごいひどいこと言うなお前……」


 そう言って、俺は明日からまた顔を合わせることになる友人たちの顔を思い浮かべる。志乃があの学校に転校してくるということは、俺が彼らに志乃のことを紹介する場面がいつか必ずやってくるということか。

 まあ、別にみんな悪いやつではないし、愛想のいい志乃のことだからきっとすぐに打ち解けられるだろう。


「なんか、ちょっとだけ不安かも」


 ふと、後ろからそんな声が聞こえる。いつもの元気な志乃らしくない、しおらしい声色だった。


「ここまで来たんだから、するだけ無駄じゃないか? それに志乃みたいな優しくて気配りのできる美少女なら、みんな大歓迎だろ」


「むぅ、だから……」


 と、志乃はまた俺の言葉に苦言を呈する素振りを見せたものの、途中で力が抜けたようにベッドにもたれる。

 ここまで帰ってきた肉体的な疲れと、俺と再会したことに対する気疲れ、そしてご飯をお腹いっぱい食べたことで眠くなっているのかもしれない。


「……眠かったら、そこで寝ていいぞ」


「それは、風見くんに申し訳ないよ」


「何年来の仲だと思ってるんだよ。いまさらそんな配慮いいって」


「いや、寝たら風見くんに何されるか分からない」


「何もしませんけど!?」


「えへへ、言ってみただけ」


「まったく……」


 洗い物を済ませた俺は、軽く手を洗ってからクローゼットを開ける。もうこのあと出かける予定もないし、風呂に入ってしまおう。

 寝間着を取り出してリビングを出たすぐとなりにある脱衣所に持っていく。リビングと廊下を行ったり来たりしている俺を、志乃はとろんと蕩けたような目で眺めていた。本当に眠そうだった。


「じゃあ俺、風呂入ってくるから。ここに居てもいいし、自分の部屋に帰っててもいいぞ」


「りょーかい」


 と、志乃は手を額にあてて敬礼のようなポーズをして答えた。いつもより動きが鈍く、だからこそゆったりとした可愛さのある仕草に、俺の心臓が無条件で跳ねる。

 ……本当に、意図せずにああいうことをやってのけるから、桜ヶ丘志乃という少女は恐ろしい。



 風呂場から出てくると、志乃は安らかな寝息を立てて床に寝転んでいた。横を向いた状態で、ソファのクッションを枕代わりにしている。頑なにソファベッドで寝ようとしないのは、たぶん彼女にも思うところがあるのかもしれない。

 俺は彼女を起こさないように静かにクローゼットを開けると、灰色の毛布を取り出し、寝ている彼女にかぶせる。その寝顔を見るに、相当深い睡眠だ。ちょっと揺らしたくらいでは起きないだろう。


「……さて、どうしたもんかな」


 寝ている彼女を見下ろしながら、つぶやく。


 本当だったら夕飯を食べてそのまま解散の流れにするつもりだったのだが、こうして志乃が寝ている以上、抱きかかえて隣の部屋まで運ぶわけにもいかない。

 そもそも部屋の鍵を持っていないし、彼女の懐やカバンをまさぐって取り出すなど論外だ。だから、いまの状況においては、このまま寝かせておくのが一番良い選択だとは思うのだが……


「こんな状況でマンガが描けるかよ」


 頭を抱える。再来週の土曜日に参加する予定の同人誌即売会のために、俺は少なくともあと2日で20ページの原稿を仕上げなければならない。

 2日で20ページ。つまり1日10ページ換算。しかし、今日は途中でインスピレーションが枯渇したため、まだ3ページしか進んでいない。

 別に、即売会自体は2日後におこなわれるわけではない。が、同人誌を印刷してくださる印刷所の締め切りが2日後なのだ。

 だから、もしその時間に間に合わなければ、俺は残りの日数で100冊以上のコピー本をつくる羽目になってしまう。

 そんな状況になったらジ・エンドだ。たぶんその日、近くのコンビニからホッチキスの在庫はすべてなくなり、俺の指と手首とプリンターはお陀仏になる。

 せめて、アイデアさえ湧いてくれれば今すぐにでも描き始められるのだが……


「……いや、待てよ。むしろこの展開はあまりにも同人誌ウケが良すぎないか」


 先ほどの説明からも分かる通り、俺――風見颯太朗という男は同人作家をやっている。基本的にはサークルの看板娘を主役とした一次創作が中心だが、夏と冬におこなわれるコミケでは人気作品の二次創作を出すこともある。

 ……あ、ちなみに人気作品の二次創作といっても、自分がしっかりと愛している作品の二次創作しか書かないので。決して同人ゴロとかそういうのじゃないので。


「久しぶりに主人公と再会した、彼女は主人公に遠慮がちな姿勢を見せながらも、かつての馴れ合った思い出からつい心を許してしまう――」


 そんなことを考えているうちに、俺の頭のなかで個々の塊だったアイデアが次から次へとくっついていき、ひとつのストーリーをつくり出す。

 それと比例するように、今すぐにでも筆を持って描き始めたいという欲がふつふつと湧き上がってきて……


「よし、これならいける」


 俺は部屋の電気を少しだけ暗くしてから、部屋の片隅にあるこぢんまりとした作業デスクに座る。そして、液タブの電源を入れると熱情の迸るままにペンを走らせる。

 いくつかのレイヤーに分けられた線の集合体は、少しずつ、でも確実に「俺が考えた最強の妹」を作り上げていく。お兄ちゃんのことが大好きで、ぐいぐい引っ張ってくれるけど、実はそんなに精神が強くなくて、心のどこかでお兄ちゃんに依存している、そんなあまりにも理想的すぎる「妹」の姿を。


「……ん、ぅ」


 と、後ろのほうで志乃が寝息を漏らしている。相変わらず落ち着いて眠っているようだ。創作活動に熱が入るのはいいが、興奮しすぎて起こさないようにしよう。


「やっぱり、志乃は俺にとって理想の……」


 言いかけたところで、急いで頭を振る。


 いや、違う。彼女はあくまで幼なじみだ。決して俺が愛している「妹」ではない。そこは絶対に履き違えないようにしないと。

 結局、俺が原稿に一区切りをつけたのは午前3時のことだった。ただ、予定していた20ページの原稿は自分でもびっくりするくらい簡単に書き終えてしまっていた。

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