第6話 脱出

 地獄の日々は終わらない。


 長い眠りから目覚めると、滝沢はすでに帰ってきていた。


 ほら、と見せてきた動画には、リオンに優しく接してくれたクラスメイトたちが滝沢によって惨殺ざんさつされていく様子が克明こくめいに収められていた。


 誰も彼もが断末魔の叫びを喉から絞り出しながら血飛沫を上げて物言わぬ肉塊と化していく。


 動かなくなった彼らの肉片を食べて「やっぱり不味まずいなあ」とぼやく滝沢の平坦な呟きが収録されていて、何度目かの戦慄を覚える。


 滝沢は、クラスメイトの他に、SNSにリオン推しだと投稿している名前も知らないファンたちまでも調べ上げ、毒牙にかけているようだった。


 もう何人殺したのかもわからない。


 自分を好きだと言ってくれている大事な人たちが、自分のせいで殺されていく。


 滝沢の常軌を逸した束縛によって、命が蹂躙じゅうりんされていく。


 リオンはもうまともではいられなかった。


「滝沢、お前が好きだ」


 スマホで録画した殺人の映像を見返している滝沢に、リオンはそう言った。


 滝沢が、うかがうような視線でリオンを見つめる。


「俺が好きなのは、世界でお前だけだ」


 だから、これ以上殺すのはやめてくれ──そう続けて言うのはやめた。


 殺人を止めるために言った方便であると気づかれたら、滝沢の怒りに火を注ぐことになりかねない。


 最悪の展開にまでなる可能性があった。


──最悪の可能性。


 今さら、まだ自分が殺されることを最悪の可能性だと思っていることにリオンは脱力を覚えた。


 現実に何人もの人間が殺されているのに、自分が殺されることは、やはり怖いのだ。


 結局は自分の身が一番可愛い。


 それをリオンは否定できないでいた。


 こんな言葉を言っても、滝沢は信じないだろうと一縷いちるの望みも持っていなかったが、予想外に滝沢は満面の笑みを浮かべた。


「本当?

 やっと気づいてくれたの?

 リオンも、私のこと好きだって。

 嬉しい、苦労した甲斐があるよ。

 私たち、晴れて恋人同士だね」


 飛び上がらんばかりの勢いでリオンのそばまでやってきた滝沢は、好きな人と両思いになったことを素直に喜ぶうぶな少女のようだった。


「ねえ、しようか?」


 身体の関係を求めているのだとわかったが、「傷口が痛いからまだ待ってくれ」とやんわり拒否した。


 キスされるだけで怖気がするのに、男女の関係になるなど正気ではいられない気がした。



 それからの滝沢は常に上機嫌だった。


 殺人に出かけることをすっかりやめ、起きている間はずっとリオンに愛をささやいてくる。


 それはほとんど洗脳であった。


 この世界には自分と滝沢しかいない。


 だから自分たちは愛し合うのだと、隔絶された空間で思考を封じられたリオンは、次第にそれが真実なのではないかと思いはじめていた。


 滝沢のことを、可愛い、と思うことが増えた。


 自分にここまでの好意と執着を向けてくれる存在は、地球上を探しても滝沢しかいないのではないかと思うようになった。


 考えることをやめ、ぼんやりとした時間を過ごしていたある日、ペットボトルが入った段ボールの上に無造作に置かれたものに目を留めたリオンは、急激に意識が覚醒するのを感じた。


 買い物に行く、と言って滝沢は出ていったきりだ。


 段ボールの上に、足枷の鍵が無防備に放置されていたのだ。


 リオンと恋人同士になり、すっかり舞い上がった滝沢が、気が緩んでうっかり置き忘れていったように見えた。


 ある程度警戒しながら、鍵を手に取ると、足枷を外し、そっと玄関まで向かった。


 階段も確かめるが、滝沢の姿はない。


──行ける。


 ぼろぼろの身体で玄関ドアを開けて外に出る。


 びゅう、と痛いほど冷たい風が吹きつけた。


 灰色の空からちらちらと雪が舞っている。


 コートを持ってくればよかったと後悔したが、今は助かることが最優先だと考え、はだしのままアスファルトを歩きはじめた。   


 通行人に助けを求めようとしたが、雪がちらつく住宅街にひとけはなかった。


 舌打ちしたい気分を押し殺し、5分も歩けば交番があったことを思い出して、痛む身体を引きずって歩き出す。


 久しぶりの外の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込む。


 地下室の空気は、やはりどこかカビくさくて、自分や滝沢の血液や体臭、滝沢によって持ち込まれた殺した人間の一部が異臭を放ってよどんでいた。


 地下室の様子を思い出して、もう二度と戻りたくないと強く思った。


 吐く息は白く、アスファルトを踏みしめるむき出しの足は冷気に触れて赤くなっていく。


 リオンは凍えながら、ひたすら無人の住宅街を、目的地に向かって歩き続けた。


 道の先に、こぢんまりとした交番が見えてきたときには、安堵あんどから涙が出そうになった。


 これで助かる。


 口の端に笑みさえ浮かべながら、リオンは交番へと駆け込んだ。


「すみません!」


 リオンがドアを開け、交番内に声をかけると、制服姿の警官が振り返った。


 どうやら来客に対応していたようで、血まみれのリオンを見て目を丸くしながら、「どうしました?」とやってくる。


「助けてください、閉じ込められているんです」


「閉じ込められ……?

 きみ、名前は?」


「え、名前?

 椎菜です、椎菜リオンです」


 すると、警官はにっこりと笑った。


「そうか、よかったねえ」


 中年の警官は、リオンではなく奥に座っている人物に声をかけた。


「あの、保護してもらえるんですよね?」


 怪訝けげんに思いながら、わらにもすがる気持ちでそう訴えると、警官は力強くうなずいた。


「ああ、保護するよ、安心しなさい」


 リオンは、両足から力が抜けそうになり、気力でなんとか立ち続けていた。


「犯人は滝沢カンナという女です。

 すぐそばの、住宅街に住んでいる女子高生です。

 その女に監禁されて、暴力を受けて……」


 リオンの言葉を、警官が軽く手を上げてさえぎる。


「ああ、そうみたいだね。

 大変だ」


 警官はどこかあわれむような目でリオンを見ていた。


──なにか可怪おかしい。


 滝沢と話しているときに感じる、ちぐはぐな感覚を覚える。


「きみ、自傷行為はやめたほうがいいよ。

 命を落とす危険すらある危ない行為なんだ」


 警官が言い含めるように告げる。


「……自傷行為?

 違います、これは、滝沢カンナという女に刺されて……」


 警官の表情が面倒くさいものを見るような目に変わるのを、リオンは見逃さなかった。


「本当なんです、滝沢という家を調べてください。

 俺の家族も、夢原柚希も友だちも滝沢カンナに殺されたんです。

 滝沢カンナは、もう何十人も殺しているんです。

 近所で殺人事件が起きているはずです。

 滝沢のスマホに、人を殺している動画があるはずです、それを調べてもらえれば、俺の言っていることが正しいとわかるはずです」


 リオンは切実に訴えるが、警官は本気で信じている様子がない。


 それどころか、こんなことを言い出した。


「まさかとは思うけど、きみ、この辺で頻発ひんぱつしてる殺人事件の容疑者?」


「な……っ、違います!

 俺じゃありません!

 だから、滝沢カンナという女がみんな殺したんです!」


 焦れば焦るほど、警官の疑いの目が強くなる。


 どうすればわかってもらえるのか、リオンは髪をきむしった。


「妹さんのいうことは本当みたいだな。

 きみ、病院に戻ったほうがいいよ」


「妹……?

 病院?」


 わけがわからずリオンは単語をオウム返しする。


「椎菜さん、お兄さんがきましたよ、よかったですねえ」


 警官は間延びした声を振り向いた先にいる何者かに向ける。


「……え?」


 妹は滝沢に殺されたはずだ。


 もしかして、妹は死んでいない……?


 滝沢が見せたあの動画はフェイクだったのか?


 妹は生きていて、兄である自分を探して交番を訪れていたのかもしれない。


「妹さんが、あなたの捜索願いを出すかどうか相談にきておるのですよ。

 精神を病んだ兄が入院先の病院から脱走して、自分や他人を傷つける可能性があるから探してほしい、とね」


「そ、そんなはずはありません。

 妹がそんなことを……」


 警官が自分に向ける視線が妙に厳しいのは、自分が精神を病んだ病人であると思っているかららしい。


「ま、あとは家族の話し合いでどうにかしてください」


「ま、待ってください!

 本当なんです、滝沢カンナが……」


 早くしないと滝沢カンナが犯行を隠蔽いんぺいしてしまうかもしれない。


 どうすれば警官に自分の話が真実であるとわかってもらえるのか。


 リオンが飛びかからんばかりの勢いでカウンターに取りつくと、パーテーションで仕切られた向こうから、誰かがやってくるのがわかった。


 その人物を見て、リオンは息を呑む。


「心配したよ、お兄ちゃん。

 病院に戻ろう」


 滝沢だった。


「おまわりさん、お手数かけました。

 兄を連れて帰っても?」


「ええ、無事に見つかってよかったですな。

 お兄さん、あまり妹さんを心配させないようにね。

 本当に、あなたのことを心配していたんですから。

 治療して、有意義な人生を送ってください。

 妹さん、またなにか困ったことがあったらいつでも相談に乗りますよ」


 滝沢は、愛想よくにっこりと笑った。


 まるでおかしなところなんてない、純粋に兄を心配する妹のようだった。


「ありがとうございます。

 お騒がせしました。

 お兄ちゃん、行こう」


 滝沢は、リオンの背中を押して交番を出る。


「待ってくれ!

 助けてくれ!

 殺される!」


 声の限りリオンが叫んでも、警官は、小さく一礼する滝沢に同情するような笑みを浮かべるばかりで、リオンの切実な訴えに耳を貸す様子はなかった。 

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