第7話 飢餓

 「離せ!

 誰か、誰か助けてくれ!

 殺される!

 警察に通報してくれ!

 頼むから、誰か!」


 自分の腕を掴む滝沢の手を振り解こうと暴れながら、リオンは静まり返った住宅街に悲痛な叫びを響かせた。


 しかし、ゴーストタウンのような街は、リオンの声に耳を傾けてくれない。


 狂気じみたリオンの叫びにも、誰も反応することはなかった。


──どうしてこんなに騒いでいるのに誰も家から出てこないんだ。


 リオンは苛立ちを募らせる。


 いや、もしかしたら、自分は不審者に思われているのかもしれない。


 それならそれで構わない。


 どちらにせよ、どこかの住宅の住民が警察に通報してくれれば、不審者だと思われていようが構わなかった。


 駆けつけた警察に事情を話せば、交番の警官よりはまともに話を聞いてくれるに違いない。


 だったら叫び続けよう。


 大きく息を吸ったリオンの背中に、衝撃があった。


 滝沢がぶつかってきただけかと思ったが、次第に焼けつくような痛みが広がって、満足に息を吸えなくなった。


 背後に手を伸ばすと、棒状のなにかに触れた。


 痛みの原因はこれだ。


 背中に、刃物が突き立っている。


 とっさに引き抜こうとすると、突き刺さった鋭利な刃が、滝沢の手によってぐるりと回された。


「────っ!」


 背中の肉が刃物によってかきまぜられ、筋繊維がぶつぶつと切断されるような感覚があり、頭が沸騰するような耐え難い激痛がリオンを襲った。


 自分の絶叫を聞きながら、リオンは意識を失った。


「おしおき」


 意識を手放す直前、滝沢の声が聞こえた。



 気がつくと、リオンは地下室にいた。


 手錠で手首を拘束された格好で冷たい床に横になっている。


 背中に違和感があった。


 どうやら、手当てされたらしく、背中の傷口にはガーゼが貼られているようである。


「これ、鎮痛剤」


 目の前にペットボトルと白い錠剤が置かれる。


 後ろ手に拘束されたわけでないので、リオンは多少不便を感じながらも、ペットボトルの蓋を開け、錠剤を飲み下した。


 病院へ行かなければ、いずれ傷口が化膿するだろう。


 しかし、滝沢がそれを許してくれるはずがないことはわかっていた。


「罰を与えないと駄目ね、悪い子」


 滝沢は屈み込んで、リオンの焦点の合わない瞳を覗き込むと、水と非常食が入った段ボールを、よいしょと抱え、階段を上がっていった。


 そのまま、滝沢は戻ってこなかった。



 意識が朦朧もうろうとする。


 一体何回、朝と夜を繰り返したのかわからない。


 灯りの落とされた地下室で、リオンは渇きと空腹にえていた。


 目を開ける気力すらない。


 しかし、飢えがひどいせいで、眠ることもできないでいた。


 何日も、水の一滴ですら与えられていない。


──ここで俺は死ぬんだろう。


 死ぬなら早く死んでしまいたい。


 そう思うのに、心臓が止まる気配はまるでみえない。


 脱水状態のせいか、目まいが絶え間なく襲い、上下左右に世界がぐるぐる回る。


 身体の末端がしびれる。


 もう、痛みすら感じない。 


 時計の秒針の音も、家を揺らす風の音も、誰かの話し声も、鳥のさえずりも、電化製品の駆動音も、なにも聞こえない。


 耳をつんざくほどの静寂。


 暑いのか寒いのかもわからない。


 自分が生きているのか死んでいるのかすらわからない。


 自分が今、あの世にいるのかこの世にいるのかも判断がつかなかった。


 身体は不調を訴える。


 それは生きている証なのだろうが、耐え難い苦痛でもあった。


──殺してくれ。


 そう思ったのを最後に、リオンの頭には、一文字の言葉すら浮かび上がることはなかった。


 完全なる『無』だった。


 目も耳も、機能を完全に停止しているようだった。


 五感が働かない。


 闇の中に身体が沈み込んでいくような感覚を味わっていると、どれくらいぶりだろう、かすかな物音が聞こえたような気がした。


 それでも、リオンの身体はぴくりとも動かない。


 空気が振動し、音が次第に大きくなる。


 足音だ、と気がついた。


 無音だった世界が動き出す。


 リオンは重いまぶたを無理やり開いた。


 それだけで残されたすべての力を使い果たした気がした。


 身体が底なし沼に沈んでいくようにどこまでも落ちていく感覚があり、倦怠感が激しく蝕んでくる。


 ローファーを履いた足首がぼやけた視界に映った。


 ノイズがかかったように目がちかちかして、鮮明に捉えることができない。


「まだ生きてる?」


 久しぶりに耳にした音に、鼓膜がびりびりと痛いほど震えた。


「ちょっとやりすぎちゃったかなあ。

 ちゃんと生きてるよね、リオン?」


 ぐい、と顎を持ち上げられる。


 温かいぬくもりに、冷え切った身体がほぐされていくようだった。


 口をこじ開けられ、液体が注ぎ込まれる。


 リオンは激しく咳き込み、身体中が軋んで痛んだ。


 そんなことには構わず、液体は注がれ続ける。


 それが水だと理解した途端、忘れていた強烈な飢えと渇きがよみがえってきた。


 咳き込みながらも、リオンは水をむさぼるようにして飲んだ。


 ごく、ごく、と喉を鳴らして、あっと言う間にペットボトル一本を飲み干してしまった。


 視界が明瞭になっていく。


 霞がかった頭から、もやが晴れていく。


 視界いっぱいに映ったのは、滝沢の笑顔だった。


「ごめんね、待たせちゃって。

 ごはん、作ってきたんだ」


 そういうと、リオンの身体を支えて上半身を起こさせる。


 身体の節々から臓器までが痛みを訴えたが、リオンの目はトレイに載せられた食器に釘づけになっていた。


 湯気を上げる白米と、こんがり焼かれたハンバーグ、サラダとコーンスープが並んでいる。


「手料理を振る舞うって経験なかったからさ、緊張するけど、よかったら食べて」


 滝沢の口調は、まるで昨日まで普通に会話していたような気軽さであり、リオンを餓死直前にまで追い詰めたという後ろめたさを微塵も感じさせなかった。


 皮膚に食い込んで乾いた血がついている手錠をめられたままの手を伸ばそうとするが、両手が震えて差し出されたスプーンを持つ握力すらない。


「もう、リオンったら世話が焼けるなあ。

 ほら、あーんしてあげる」


 滝沢に指示されるがまま、口を開けると、ひとくちサイズに切り分けられたハンバーグが放り込まれる。


 咀嚼すると、塩分が身体に染み込むようだ。


 次に白米が放り込まれ、米の甘さに五臓六腑が歓喜の叫びを上げる。


 もうひとくち、早く、とせがむと、滝沢が呆れたように笑った。


「リオン、赤ちゃんみたい。

 そんなに焦らなくてもまだあるよ。

 うーん、新婚って、こんな感じなのかなあ」


 滝沢が穏やかな笑みでスプーンをリオンの口へと甲斐甲斐しく運んでいく。


 温かいコーンスープをゆっくり飲み下すと、身体が火照ほてってきた。


 どくん、どくん、と血管が脈動する。


 心臓が動きを速める。


 胃がきゅるきゅると音を立てはじめる。


「ほら、赤ちゃん、次いきますよー」


 リオンは何度もうなずいた。


 大方の食器が空になり、リオンの胃が満腹感を伝えるころには、リオンは自力でスプーンを持てるまで回復していた。


「私の手料理、美味しかったかな?」


 唇についたデミグラスソースを最後まで舐め取ると、リオンは力強くうなずいた。


「もう、お行儀が悪いですよ」


 滝沢がティッシュでリオンの唇を拭う。


 そして、そのまま口づけた。


「……うん、我ながらいい味付けだったみたい」


 ぺろりと自分の唇を舐めながら、滝沢は満足そうに笑った。


 リオンも笑ったが、しばらく顔の筋肉も動かしていなかったので、吊り上げた唇と頬がちくりと痛んだ。


 それから、滝沢は毎食手作りの温かい料理を一日三食、持って地下室へやってきた。


 滝沢の料理は、どれも美味しかった。


「家にひとりにされることが多かったからさ、自炊するしかなかったんだよね。

 でも、リオンが美味しそうに食べてくれるから、悪くないかも。

 両親に感謝するべきなのかもしれないね」


 がつがつと料理を口に詰め込むリオンを愛おしそうに眺めながら、滝沢はそんな話をした。


 そんな日々が数日続くうちに、極限まで落ちていたリオンの体力はかなり戻りつつあった。


 脱水状態から快復し、骨と皮ばかりだった身体が、筋肉と脂肪を取り戻していくのがわかる。


 滝沢は様々な料理を器用に作り、リオンは本能に従って出された食事を腹におさめていった。


 食事をする時間以外はほとんど横になって睡眠を取っている。


 三食、規則正しく運ばれてくるので、時間の感覚も取り戻してきた。


 食事以外はなにもしない、怠惰な生活が続いた。


 夕飯を食べ終わると、滝沢はリオンにキスするよう求めた。


 リオンは求められるままに滝沢と唇を重ねた。


 滝沢の舌が、リオンの口内に強引に入ってくる。


 リオンは拒否することはしなかった。


 滝沢はリオンを優しく仰向けに寝かせると、自分がつけたリオンの身体のあちこちの傷口に舌を這わせた。


 弾力を取り戻したリオンの肌はキスマークで彩られた。


 滝沢は自分の腕を切りつけると、流れる自分の血を飲むよう強要した。


 リオンはそれにも素直に従った。 


「この世で、私が愛しているのはリオンだけ。

 リオンが愛するのも、この世で私だけなの。

 永遠に変わらない真実。

 大好きよ、リオン」


 そう耳元でささやき優しく抱擁する滝沢に、リオンは身を委ねた。


 滝沢からは、薔薇のような、上品で高貴な香りがする。


 滝沢の匂いに包まれて、リオンは目を閉じた。

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