第23話 ヒューストン、応答せよ
第23話 ヒューストン、応答せよ
「ヒューストン弁」——。
その言葉を見た瞬間、あかりの脳内では宇宙船の交信音が鳴り響いた。
《ピーッ……ザーッ……こちらヒューストン、応答せよ》
「き、来たぁぁぁぁぁっ!!!」
思わず椅子をガタッと倒しそうになる。慌てて立て直し、医学書に顔を突っ込んだ。
——ヒューストン弁:直腸内に存在する半月状の粘膜ひだ。便の流れを調整するバルブのような役割を持つ。
「半月状の……弁……。半月……って、月!?」
ページに描かれたイラストは、確かに三日月のようなカーブを描いていた。直腸の中に小さな月が浮かび、便という名の惑星の流れを制御している。
「まさか……肛門宇宙の中に、月が存在していたなんて!」
ノートに大きく描いたのは「直腸=宇宙空間」「ヒューストン弁=月の軌道」。
彼女の頭の中で、便は流星群となり、ヒューストン弁の引力で進路を曲げられていく。
「しかも名前がヒューストン……! あのNASAのジョンソン宇宙センターがある街と同じ!?」
脳内シアターには、すでに宇宙服を着た自分の姿が映っていた。直腸空間を漂う小型宇宙船の操縦席で、あかりは真剣な顔で無線機に向かう。
《こちら直腸探査機あかり一号。ヒューストン弁を通過します。便流の流れは安定。これより歯状線を超えて最終アプローチに入ります》
《了解。こちらヒューストン。肛門ゲートはいつでも開放可能》
「ひぃぃっ、リアルすぎる!!」
両手で頭を抱えて転げ回る。
——しかし、解説の下に小さく注意書きがあった。
※ヒューストン弁は発見者の医師ヒューストンの名前に由来しており、アメリカ合衆国の地名「ヒューストン」とは関係ありません。
「え……ち、違うの!?」
あかりは一瞬フリーズした。だが次の瞬間、口角をにやりと上げた。
「……いや、違う? 違うと言われると、逆に怪しい……!」
ノートに《※公式には無関係→むしろ隠された真実!?》と書き込む。
妄想の中で、白衣の研究者たちが政府の極秘会議でこう囁いていた。
「本当は肛門と宇宙は直結しているが、それを公表すれば人類の秩序が崩壊する……」
「だから“たまたま同じ名前”ということにして隠蔽するしかなかったのだ……!」
「やっぱり……そうだったんだわ……!!」
胸を押さえて震えるあかり。
自分だけがこの真実に気づいてしまった。
ヒューストン弁——それは直腸に隠された月であり、宇宙と人体を結ぶ唯一の交信基地だったのだ。
「……肛門の中には、やっぱり宇宙がある……。私が証明してみせる!」
彼女は目を閉じて深呼吸した。
まるで宇宙飛行士が打ち上げ直前に心を落ち着けるように。
一呼吸おいた後、更なる探究心からページを読み進めていくあかり。
すると、解剖図に描かれた三日月型のひだが目に飛び込んできた。
その位置は——肛門縁から約7cmの直腸下部。
(……え、ここ……?)
以前、別ページでも読んだ内容とリンクする。
(そうだ……あれだ!)
図のキャプションにはこう書かれていた。
ヒューストン弁(Houston valve):直腸内に3枚存在する半月状の粘膜ひだ。便の保持、直腸内圧の調整に寄与する。
(弁……って言うから、てっきり開いたり閉じたりする扉みたいなのかと思ってたけど……)
指でそっと図をなぞる。
そこに描かれていたのは、思ったよりも薄く、しなやかな半月。
ヒマラヤピンクソルトのような優しい色合いで、曲線はなめらか。
見れば見るほど、ただの“壁”ではなく、どこか温かく、包み込むような存在に思えてくる。
(……これ、きっと柔らかいんだろうな。押せばゆっくり形を変えて、でもちゃんと戻る……そんな感じ……)
想像の中で、あかりはミクロサイズになり、直腸の中に立っていた。
目の前に現れたのは、やさしいピンク色の半月のゲート。
表面はしっとりと潤っていて、ほんのり体温を帯び、触れればぷにっと指を押し返してくる。
(……なんか、守られてるみたい……)
胸の奥がじんわりと温かくなった。
あの“壁”は、自分を拒んでいたんじゃない。
むしろ便や空気の流れを守り、落ち着かせ、体に優しい速度で通過させるためにそこにあるのだ。
(そうか……私、知らないで無理やり通ろうとしてたんだ……)
ページの端をぎゅっと握りしめる。
あかりの頬がほんのり赤くなる。まるでヒューストン弁に「もっと優しくしてね」と言われたようで。
(次は……もっと丁寧に通ってあげなきゃ)
妄想の中の自分は、宇宙服を着てヒューストン弁の前に立っていた。
静かに手を差し出し、扉をノックする。
すると半月のゲートはゆっくりと開き、奥の“別室”へと導いてくれる——
まるで「いらっしゃい」と微笑むように。
1階のキッキンでは、何も知らない母が夕食の支度をしている。
だがその食卓の下で——娘は今日も、肛門を通じて宇宙の秘密にアクセスしていたのだった。
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