第16話 エージェント

 冬の午後。冷たい風がビルの谷間を抜け、商店街に吊るされた旗をバサリと揺らす。

 白い息を吐きながら、あかりと美咲は肩を並べて歩いていた。


 アーケードの下には、焼き鳥の匂い、たこ焼きの湯気、古本屋から漂う紙の香り。人々の話し声と靴音が重なり合い、冬なのにどこか温かいざわめきに満ちていた。


「あー……今日も資料いっぱい読んだなぁ」

 あかりはコートのポケットに手を突っ込み、呟く。

「妄想も整理できたし……ふふ、少しは宇宙に近づけたかも……」


 だが、頭の中の宇宙はいつも通り膨張中。銀河は際限なく広がり、あらゆるものが肛門宇宙論に接続されてしまう。


 そのとき——。


 人混みの向こうから、背筋を伸ばして歩く一人の男子が現れた。

 あかりの心臓がドクンと跳ねる。


「……あ、あの人は……!」


 眞鍋くんだった。

 彼はただ前を見て歩いているだけ……のはずなのに。


 あかりには、彼の目がこちらを鋭く射抜いているように思えてならなかった。


(だ、ダメ……! 見つかったら絶対に私の肛門宇宙論の秘密がバレるっ!

 あれは、まだ誰にも知られてはいけない研究なのに……!)


 あかりは咄嗟に美咲の肩を掴んで、必死に囁いた。

「美咲……隠れて……! 早く……っ!」


「……はいはい、落ち着けって」

 美咲はわざと真剣な表情を作り、あかりを抱えるように柱の陰へと引き寄せる。


 だが内心では、唇を噛んで笑いをこらえるのに必死だった。

(きたきたきたーーー! これ絶対妄想劇場の開幕じゃん……!)



 あかりの頭の中では、すでに妄想映画のスクリーンがフル稼働していた。


 眞鍋くんの制服は一瞬で黒いスーツに変わり、胸ポケットには無線機。瞳の奥には暗号がきらめき、手には「極秘」と刻まれたUSB。


 彼の背後には黒い影。通りを歩くサラリーマンも、買い物袋を下げた主婦も、すべてがエージェントに見えてしまう。


(やっぱり……! 眞鍋くんは敵組織のスパイ……!

 私の肛門宇宙論を奪うために、この街に送り込まれたんだわ……!)


 頭の中ではBGMが鳴り響く。低音のリズム、緊張を煽る弦楽器。

 周囲の看板のネオンが赤い暗号の文字列に変換され、街路樹の枝は盗聴アンテナに。


「え、えっと……美咲、今のうちに防御策を……!」

 あかりは小声で囁きながら、美咲の手を握りしめる。


 美咲は肩を揺らしながら微笑む。

(あー、かわいい。何この緊迫感と必死感。笑い死ぬ……)


 妄想はさらに加速する。


 前を横切る自転車のベル音が、敵の暗号通信に聞こえる。

 道端の犬の鳴き声が「こちら本部、ターゲット確認」と訳されてしまう。


(ここは……星座の配置から推定して……!)

 妄想宇宙の中で、あかりは路地の街灯を星図のように読み取り、敵の侵入経路を計算する。

(……やっぱり、あの角度から来る! 包囲網だわ!)


 商店街の信号機は監視塔。魚屋のスピーカーから流れるセールの声は、敵のコードネームを告げる暗号。

 あかりは完全に“肛門宇宙論防衛作戦”の司令官だった。


「……あかり?」

 美咲の声が現実に引き戻す。


 振り返ると、眞鍋くんはただコンビニの袋を下げて歩いているだけだった。

 鋭い目つき? ただ前を見てるだけ。

 USB? それは肉まんとホットドリンク。


「……はぁ、はぁ……違ったのね……」

 あかりは肩で息をつき、顔を真っ赤にしたまま美咲の背に隠れ込む。


 美咲はもう限界だった。唇を押さえ、目尻から涙がにじむ。

(ああーーー無理……! 最高すぎる……! 本気でこの子、世界ランク1位のアホ……!)


⸻夕暮れの商店街


 眞鍋くんの姿が人混みに消えていく。

 安心したあかりは、そろそろと顔を出し、深呼吸をした。


「……あー、びっくりしたぁ……」

「ふふ、もう少しで本気で正体ばらすとこだったね」


 美咲がからかうと、あかりはさらに耳まで真っ赤になる。


 夕焼けが商店街をオレンジ色に染め、看板のネオンがひとつ、またひとつと灯る。

 あかりの目には、その光が恒星の瞬きに重なって見えた。


(やっぱり……肛門宇宙論の研究よりも、こういう妄想の方が……広がりがある……!)


 彼女の脳内で、新しい銀河が静かに形成されていく。


 美咲はそんなあかりを見て、小さく笑う。

(……この子の宇宙は、まだまだ膨張を続けるんだろうなぁ)


 冬の風が二人の髪を揺らし、商店街のざわめきが遠ざかっていく。

 妄想と現実の境界線は、今日もまた曖昧に揺れていた。

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