第3話 おしり洗浄、宇宙的実験

 日曜の昼下がり。

 ストーブの前でぬくぬくと丸まる猫を横目に、あかりは机に医学書を広げていた。

 ページには「便と健康」「洗浄と感染症」の見出しがずらり。世間の女子高生なら雑誌の占いやアイドル記事を読む時間帯に、彼女は肛門研究の真理を追いかけているのだ。


「なになに……“トイレットペーパーで拭くのは平均三回”……?」


 ページを見た瞬間、あかりの口から素っ頓狂な声が飛び出した。

「え、三回!? うそでしょ!? 私なんて……最低七往復はしてるんですけど!? しかもトリプル層の高級ペーパーで……!!」


 机のノートを勢いよく開き、《トイレットペーパー3回 vs 私7回》と大きく書き込む。数字の周りをぐるぐると囲み、さらに「地球人基準外」「銀河系アウトライアー」と派手な注釈を加えた。


「……つまり私は……統計から弾かれた異端児。孤高の宇宙人……!?」


 額に手を当て、わざとらしくため息をつくあかり。

 だが次の瞬間、さらにページをめくった先でとんでもない文言に遭遇してしまった。


——洗いすぎは粘膜を弱らせ、逆に病気の原因になる。


「……な、ななな……なんだってぇぇぇぇっ!? いままでの私の努力……ぜんぶ逆効果!? つまり私は……健康志向だと思い込んで自爆してたってこと!? 宇宙で一番マヌケな実験者じゃん!!」


 両手で頭を抱え、ぐるぐる机の周りを歩き回る。猫が驚いて椅子の下に逃げ込んだ。


 だが衝撃はまだ終わらなかった。

——ウォシュレットの水流は強すぎるため、粘膜を傷つける恐れがある。


「はぁぁぁぁぁ!? ウォシュレット文明を全否定!? あれって人類が誇る21世紀の叡智じゃなかったの!? じゃあ現代人はみんな……肛門絶滅危惧種!? いずれ“人類の肛門は退化しました”って教科書に書かれる未来が来ちゃうの!?」


 机に突っ伏し、ノートに「ウォシュレット=諸刃の剣」と走り書き。

 その字の横には、なぜか宇宙戦艦がビームで穴を撃ち抜かれる落書きが追加されていた。


 そして極めつけの一文が、あかりを完全に混乱させた。

——理想的な洗浄法は、たらいにぬるま湯を張り、肛門を浸すことである。


「……たらい??? ……いやいやいやいや! 令和の今どき誰が持ち歩いてんのよ!? “お昼休み入ってきまーす”って会社の給湯室でたらいにお尻突っ込むサラリーマンとか見たことある!? ないでしょ!? いや、もし居たら新聞一面だわ!!」


 机をバンッと叩いた瞬間、インク瓶が倒れ、ノートに黒いシミが広がった。

 だがあかりはそんなこと気にしない。胸の奥に、妙なざわめきが芽生えていた。


「でも……これは研究のため……真理に近づくためには……誰かが犠牲にならなきゃ……!」

 その“誰か”は、もちろんあかり本人である。



 夕方。

 浴室にこっそりとたらいを持ち込み、蛇口からぬるま湯を注ぐ。お湯が溜まる音は、まるで宇宙船の燃料が満ちていくように響いた。


「こ、これが……宇宙に通じるたらい……」


 白い湯気の中、彼女は静かに服を脱ぐ。冷たいタイルの床に足をつけるたび、緊張が増していった。


 そして——ゆっくりと腰を下ろす。


「……あっ……あったか……」


 肛門がじんわりとぬるま湯に包まれる。

 足先から背筋まで、電気が走ったかのように全身がふわりと緩む。


「な、なにこれ……すごい安心感……。宇宙に還ったみたい……母なる銀河に抱かれてるみたい……」


 瞳が潤み、思わず両手で顔を覆う。

 頭の中では、肛門が小さな恒星となり、ぬるま湯が銀河の星雲となって広がっていった。

 自分は今、銀河の中心に腰を下ろし、無限の宇宙と一体化しているのだ。


「……これこそ……宇宙的洗浄……。人類は今、たらいを通してビッグバンに回帰する……」


 勝手に哲学的な結論まで出しつつ、ノートに記録したい衝動をこらえる。



 そのとき——。

「ちょっと! あかりー! お風呂で何やってんのー!?」

 母の声がドア越しに響いた。


「ひゃあっ!? な、ななな、なんでもないーっ!!」


「“なんでもない”で十分長いんだけど!? のぼせるよー!」


 慌ててお湯をかき混ぜるあかり。顔は真っ赤だ。

 たらいの中でバシャバシャと水しぶきが上がる。


「ち、違うのよ……これは修行……いや研究……! 私は今、宇宙と交信してるのよ……!」


 もちろん、誰にも伝わらない。母に言えば即通報レベルだ。


 心の中で何度も「研究、研究」と唱えながら、あかりはたらいに腰を据え続ける。

 まるで自分の肛門が、宇宙のアンテナになっているかのように——。



 夜。

 湯上がりのパジャマ姿で、あかりは机に向かった。

 濡れた髪をタオルで拭きつつ、さっそくノートを開き、大きな字で書き込む。


《肛門洗浄=宇宙母胎回帰現象》


 その下にイラスト。たらいに腰を下ろした自分が、銀河を背負っている図だ。

 描きながら、あかりはふっと笑う。


「……やっぱり、肛門は宇宙だった。いや、今日は確信した。

 だって、ぬるま湯一杯で、私は銀河とつながれたんだから……!」


 窓の外には冬の星が瞬いていた。

 彼女の胸の奥でも、小さな星が新しく輝き始めていた。


——それは、たらいから始まる宇宙への扉。

少女の肛門宇宙論は、今日もまた一歩、膨張を続けた。

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