第4話 小さなビッグバン

 トイレの個室。静まり返った空間に、あかりの小さな息遣いだけが響いていた。便座に腰かけ、真剣な表情でつぶやく。


「……やっぱり、そうだわ……!」


大きく息をのむ。その表情は、疑念が確信に変わった者のものだった。目の奥で小さな光が瞬き、頭の中では膨大な情報が渦巻いている。



ーーー昨夜。


机の上に広げられた医学書のページに、あかりの目が釘付けになっていた。


「ふむふむ……排泄は“体から不要なものを出す行為”……」


彼女の指がページをなぞり、文字を追うたびに眉間に皺が寄る。しかし、突然ぱちんと目を見開く。


「……違う! “終わり”じゃない、“始まり”なんだ!」


頭の中で、文字や図が立体化し、次第に色鮮やかな映像に変わる。小さな茶色の惑星が宇宙に向かって飛び散るイメージ——まさに「小さなビッグバン」だ。


「食べたものは便となり、土に還る。草木を育て、家畜を養い、食卓に戻る……!

つまり便は“輪廻転生”のスタート地点! 小さなビッグバン!」


あかりは勢いよく机を叩き、ノートに図と文字を書き込む。文字は躍動し、線は宇宙の光線のように跳ねていく。


「しかも、肛門括約筋はリング状……まるで土星のリング! 肛門は小さな土星!

さらに、無数の神経=無数の電波! 人体の“お尻電波天文台”だ!」


立ち上がった彼女の手にはペンが握られている。声が次第に大きくなる。


「排泄は“出す=終わり”じゃない! “放つ=始まり”なんだ!

宇宙もそう! ビッグバンは終わりじゃなく、誕生の瞬間!

だから便意は“小さなビッグバン”なんだぁぁぁ!」


その瞬間、家中に声が響き渡る。


「アンタ! 夜中に“ビッグバン”とか“宇宙”とか叫ぶのやめなさい!

ご近所にどう説明すればいいのよ!」


母の怒声に、あかりは赤面して口を押さえる。


「……え、えっと……小さな……ビッグ……えへへ……」


誤魔化すように笑いながらも、手はノートから離さない。ページには力強く文字と図が刻まれていた。


《肛門は宇宙。排泄はビッグバン。終わりではなく、始まりである。》


彼女は机に突っ伏したまま、頭の中の宇宙を整理する。小さな肛門管の中に広がる無限の星々、便が放たれるたび生まれる小宇宙、体内の神経を通して発信される膨大な情報——すべてが有機的に連動し、無限の循環を描いている。


(……これ、もしかして、私だけが見えている世界……?)


小さな声でつぶやき、目を閉じる。心の中で、茶色い惑星が次々と飛び散り、リング状の肛門括約筋が銀河の輪となり、神経の電波が宇宙空間を駆け巡る。


「やっぱり、これは宇宙……小さなビッグバン……!」


あかりは再びペンを握り、ノートに細かく描き込む。線を引くたびに、星の軌道が変わり、便の流れが銀河の運行にリンクする。鉛筆の先端が、彼女の思考の光をノートに写し取る。


「……この宇宙、完成させなきゃ……!」


立ち上がり、体を伸ばすと、窓から差し込む月明かりがノートを照らす。部屋の影が揺れ、机上の図がまるで生き物のように微かに動く気配さえある。


(排泄=小さなビッグバン。肛門=土星。神経=天文台……すべてはつながっている……!)


息を整え、あかりは再び座り直す。ページを開き、夜が更けても書き続ける。小さな個室で生まれた妄想宇宙は、ノートの中で広がり続け、少女の胸を高鳴らせていた。


外の世界では静かに風が吹き、街灯が点灯し始める。しかし、あかりの心の中には、まだ燃え続ける星々と、小さなビッグバンの余韻があった。


「よし……この宇宙、もっと広げる……!」


そして夜は深まり、少女の妄想宇宙は小さな便器の個室から、無限に拡張し続けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る