第14話 残ったもの

 俺はあの日以来、病室を訪れなくなった。

 何度も病院には向かったのだが、病室をノックする手前で躊躇してしまう。玲奈には会いたい。だが、俺の怒号が脳裏を過って、彼女にどのような顔で接すれば良いか分からなり、病室に入る勇気が湧かずに病院を去ってしまうのだ。そのような行為を何日も繰り返し、いつの間にかクリスマスが近づいていた。今年は陰鬱な気分でクリスマスと年越しを過ごすだろう。そう思うと、せめてクリスマスイブまでには元の関係に戻りたいという焦燥が募った。

 イブの一週間前、俺は今日こそは病室に姿を見せようと覚悟を決めた。玲奈を支えると決めた身でいつまで逡巡していらない。昨日は自室で迷う時間に浪費してしまったが、今なら毅然と病室をノックできる。最初に見せる顔も台詞も全て決めた。

そろそろ家を出ようと思った際、ドア越しから「ゆういちー」と母の籠もった声が聞こえてきた。これから外出しようという時に何の用だろう。

「なにー」俺はと苛々しく声を上げた。

「電話きてるよー」

 そう聞いて怪訝となった。友人か親戚の誰かだと思うが、携帯に直接かけてくれば良いものを何故固定電話なのか。電話の相手が誰なのか予想も付かず、俺は急ぎ足で自室を出て階段を降り、リビングの電話を手に取った。

「もしもし」

「もしもし、雄一君?」

「洋さん?」と俺は電話の相手に驚いた。

彼女の声は涙声で、鼻をすすった音が鼓膜を打った。

「······どうかしましたか?」

 なぜ悲壮な声で俺に電話をかけたのか分からない。だが、決して良い意味ではないことは確かだった。そして、洋さんが俺に電話をかけるということは、玲奈が関わっている。

「雄一君······今から病院に来て······」

 俺の背筋に悪寒が走った。

「玲奈の病状が悪化して、あの子はもう······」

 洋さんの声は今にも崩れ落ちそうだった。

俺も力が抜けたような感覚がして、手から受話器を落としそうになった。遠くなりそうな意識の中で、嘘だ、そんなはずない、と心中で否定の声を叫んだ。

「お願い雄一君······最後に顔を見せてあげて」

 俺は、「はい······」と自分でも言ったかどうか判然としない、霧消しそうな声で受話器を切った。卒倒しそうになるが持ち堪え、半狂乱になりそうな勢いで家を出た。

 バスを待つ時間も、移動している時間も長く感じて、苛々しく脚を揺すった。冷静さを失った頭で、告げられた現実を否定し続けた。きっと嘘だ、姿を見せない俺に痺れを切らし、強引にも呼び出そうと演技をしたのだと、必死に自分を言い聞かせた。

 病院に着き、急いで自動ドアを潜ると、目の前に洋さんが立っていた。どうやら俺を待っていたらしい。

俺は彼女の姿に息を呑んだ。その表情に笑みはなく、目の周りは赤く腫れていた。手には皺だらけのハンカチが握られていた。

「やっと来てくれた」

俺は洋さんの真剣な顔つきを初めて見た。普段の飄々とした面影がまるでない。その表情から、悪い冗談という希望は無情にも砕け散った。玲奈は本当に先が短かった。改めて実感すると、同時に地に伏せたくなるような後悔が湧き上がった。玲奈を突き放した俺の声が脳に去来する。何度も繰り返されて、気が動転しそうになった。

「ついて来て。玲奈に会わせるから」と洋さん静かな口調で言った。

 洋さんが向かった場所は玲奈の病室ではなかった。これまで見たことのない通路を渡ってゆく。毎日通っていた廊下とは違い、静かで緊張感が漂っていた。その最奥。目の前に佇む自動ドアには「集中治療部」と書かれていた。ドラマでも見かける重篤な患者を収容する場所だ。「本当は家族以外の面会は許されないんだけど、君は特別」

 洋さんは言うが、俺はそのドアの先に向かうことを躊躇った。

「洋さん、俺は玲奈に会わす顔がありません。だって俺は······」

 俺は酷いことを言ってしまった。玲奈の人生に向き合わず、自分勝手な願いを強要した。そんな男に出会う資格などあるのだろうか。全て言い終わる前に、洋さんは遮るように俺の肩に手を添えた。

「雄一君に会いたいって、玲奈が言ってるの」

 そう言った洋さんの表情は柔和に笑っていた。最低な俺でも玲奈は会うことを望んでいる。洋さんの表情は普段のように弛緩していた。玲奈のため。その言葉の前には、俺は何だって出来た。

「話をしてあげて」 

 洋さんは俺の背を小さく叩きながら言った。

 集中治療室には普段着で入ることは出来ない。医療用の衣服に着替え、顔もマスクの他にフェイスシールドで覆い、手指も念入りに消毒をしなければならない徹底ぶりだった。それだけ玲奈は危険な状態にあるということだ。面会時間も五分から十分。ようやく会えると思ったのに、その時間はあまりにも短すぎる。

 静寂な廊下を看護師の後ろで歩いていると、玲奈がいるであろう病室の前に見知った顔を見つけた。俺と同様に医療服で顔を覆っているが、玲奈の両親だとすぐに分かった。両親側も俺に気が付いたのか、小さく会釈をした。俺も反射的に会釈を返す。二人は既に玲奈との面会を済ませたのかもしれない。

 玲奈は、最後に俺と会うことを選んだ。

 ガラス窓から病室内を見ることができた。集中治療室は玲奈のいた病室とは違い、狭い部屋の中に無数の機械が並べられており、それらに囲まれながら玲奈は寝ていた。雑然としているが、その全てが玲奈を少しでも長く生かすために繋がれている。

「お入りください」

 看護師に促され、俺はゆっくりと室内へ入った。凍りつくような静けさに、ピッピッ、と機械的な音が響いていた。中央には呼吸器を付けた玲奈が目を瞑っていた。その辛うじて生きている姿に、俺の胸は張り裂けそうになった。そして、本当にこれが最後だと、心の底から諦観していた。諦めなければ夢は叶うと信じていたが、残酷にも叶わなかった。

 洋さんに会ってから覚悟はしていた。けれど、この悲痛さでは覚悟は足りなかったらしい。玲奈を失うというのに、覚悟などできるはずがなかった。

「玲奈さん。雄一さんが来てくれましたよ」

 看護師が玲奈の耳元に囁くように言った。すると、玲奈はゆっくりと目を開き、ぼんやりとしながらも俺へ向いた。

「玲奈、俺だよ」

 俺が言うと、玲奈は僅かに目尻を下げた。

「······もう、遅いんだから」

 酸素マスクに篭った声はとても儚かった。力のない声が霧消していく。もう彼女の凛とした声はなかった。

「······ごめん。俺、酷いことを言った」

「······久しぶりに出会って、最初の一言がそれ······?」

「ずっと謝りたかったんだ。だけど、どんな顔をして良いか分からなくて、もう嫌われたとも思って、顔を見せられなかった」

「······君を嫌いになるわけないでしょう。最後までそんな顔をしていたら呪うから······」

 玲奈の目は笑っていたが、言葉は普段のように刺々しかった。彼女に呪われるのは憚りたかったので、俺も笑うことにした。玲奈は最後まで、いつもの日常を過ごすことを望んでいた。

「お前は相変わらず言葉がキツイな」

「でも私らしいでしょ?」

「あぁ、玲奈って感じだ」

 俺の言葉に、玲奈はふふっと笑みをこぼした。一息置いてから再び俺を捉える。薄く開かれた瞳は微かに輝いていた。

「······雄一君、私ね、この人生は君と出会うためにあったんだって、最近思うようになったの。君と出会ってから沢山の思い出を貰って、百年分の恋をして、一生分の幸せを得たの。短かったけど、充実した人生だった······」

玲奈はか細くなった声でも途切れぬよう紡いだ。それからゆっくりと手を伸ばし、俺の頬に触れた。マスク越しでも玲奈の感触の体温が伝わってくる。だが、指に込めている力は弱かった。

「······思い出をありがとうね······」

 その表情は、俺が最後の見舞いに行った日の笑みに似ていた。曇った酸素マスクからも朗らかな唇が見える。俺に触れている指は震えていた。

「なに言ってんだ。思い出をくれたのは玲奈の方だ」

俺は玲奈の手を両手で握った。細くなってしまった指に自身の熱を伝える。握り返してくれることはないが、俺に強く触れようと指に力を込めていると分かった。

「小さい頃、誰か死んでしまっても、大切な人の記憶や思い出だったり、想い続けてさえいればその人の中で生き続けるって聞いたの。ドラマや映画で耳にタコができるくらいにね。だけど、最初はそれを聞いて馬鹿らしく思った。だって、自分の意識もないのに生きているなんて変な話だから」

そのような台詞は俺も聞いたことがある。玲奈と同様に馬鹿らしいと一蹴していた。そう思ったのは、玲奈のいない現実を受け入れたくなかったからだ。最後まで助かると信じていたから、思い出の中で生きるなんて無縁だと思いたかったし、ずっと目を逸らしていたかった。

「······でもね、君の思い出の中にいて、私を想い続けてくれるなら、それはとても素敵なことだって、今ならよく分かる······」

玲奈は「······だからね、雄一君······」と続けた。

「私を忘れないでいてね」

 あの日と同じ言葉を繰り返した。玲奈は約束と言って、その言葉を託した。俺が無碍にしてしまった約束だ。

「あぁ、約束する。俺は玲奈を一生憶えているし、いつまでも想い続ける。俺が玲奈を忘れない限り俺たちはっ······」

 俺は言う途中で胸が込み上げてきて、最後を紡ぐ前に途切れてしまった。言葉の代わりに涙が流れてマスクを濡らした。喉が震えて声が出なかった。だが言わなければならない。俺はずっと玲奈に笑顔でいて欲しかった。今もその想いは変わっていない。

「俺たちはずっと一緒だ」と俺は絞るように言った。

 すると、玲奈が笑みで閉じた目蓋から、一筋の雫が流れる。

 俺は涙を堪えて、彼女に笑みを見せた。俺が玲奈の笑顔を望むように、玲奈もまた俺が笑顔で見送ることを望んでいる。最低な彼氏でも、せめて最後くらいは男らしい姿を見せてやりたかった。

「······そうだ。最後に一つ言いたいことがあった」

 玲奈の最後の言葉。彼女の声は徐々にか細くなっている。体力が限界に近いのだろう。俺はそれを聞き逃さないよう耳を凝らした。

「君が好き」

 穏やかな瞳でそう告げた。

その言葉に、俺は遂に耐えらなくなって両眼から涙を溢した。涙を流さない男らしい姿を見せたくても、その言葉の前では無力だった。喉が震え、玲奈の姿が霞んで見えなくなる。

「俺もだよ。玲奈っ······!」

 俺は震えた喉から声を絞り出した。握っている玲奈の手を縋るように、自身の顔に押し付けた。

 玲奈はこれ以上何も言うことはなかった。

看護師から「お時間です」と忠告が入り、俺は玲奈の手を離した。彼女の微笑を背に集中治療室を後にする。出る前に玲奈へ一瞥すると、やはり彼女も俺を見ていた。満たされたような微笑で見送ってくれた。

 集中治療室から出た後、俺は洋さんと一緒に集中治療室近くの長椅子に座っていた。俺は帰る気にはなれなかった。玲奈の彼氏として最後まで居続けようと決めていた。一日中病院にいると決めたのは夏休み以来だった。

茫然と天井を眺めながら玲奈との思い出に浸った。隣の席になったとき、図書室で二人きりでいたとき、告白をしたとき、一つの傘に並んで歩いたとき。部活中に人目を盗んで会っていたとき。病室で試合の観戦をしたとき。映画を観たとき。

 そして、もうその日々が訪れないと、ひしひしと胸に響いてきた。

「ねぇ、雄一君。玲奈ってさ、友達いなかったでしょ?」と隣に座っていた洋さんが尋ねた。向くと、彼女の頬にはまだ涙の跡が残っていた。

俺は毒気を抜かれて言葉を失くした。だが洋さんの言う通り、かつての彼女は誰にでも等しく冷然で、人と関わろうとしなかった。俺がそのことを咎めて喧嘩をしたこともあった。

「······はい、教室でも一人で本を読んでいましたよ」

 俺が感慨深く言うと、洋さんは「やっぱりね」と笑いながら言った。

「あの子はね、悲しい思いをするのは家族だけにしたかったの。友達ができるとその子たちも悲しむし、その分自分も辛くなる。だから他人には冷たく接していたの。だから雄一君を見た日はびっくりした。友達だけでも驚きだけど彼氏だなんて」

滔々と話された事実に、俺は玲奈らしいと思った。彼女は冷厳な一面もあったが、その奥には彼女なりの優しさが内包していた。アイツは常に誰かを想っていたのだ。

「きっとあの子も寂しかったんだね。寂しさには勝てなかったから、雄一君が関わってくれたことが嬉しかったんだと思う。悲しい思いをさせてしまうって分かっていてもね」と洋さんは言った。

「······洋さん、俺はやっぱり玲奈の恋人失格です」

「どうして?」

「俺は命の大切さとか、尊さとか、全然考えてきませんでした。玲奈を失いたくない。そればかりだったんです。だから玲奈の人生に向き合ってやれなかった。あいつが人生を受け入れても、俺は受け入れられなかったんです。彼氏である俺が支えなくてはならないのに、最後に放り投げた。俺は本当に最低な奴ですよ」

 玲奈は人一倍強い心を持っていたが、それは寂しさの裏返しでもあった。誰よりも寂しい思いをしていたから、俺がずっと傍にいなくてはならなかった。

「私からは何も言えない。でもね、玲奈は雄一君を失格だなんて思っていなかった。それだけは分かってあげてね」と洋さんは言った。「それに、私も命の尊さは分かり切っていない部分も多いの。だから考えながら生きていくの。どうしようもなく悲しくても、私たちの人生は続くからね」

 人生は続く。俺はその言葉を舌の上で転がした。

これから先、玲奈のいない人生が続いていく。俺はこれまで思い描く未来には、必ず隣に玲奈がいた。玲奈と一緒に未来を歩んでいくことを夢見ていたのだ。夢がなくなった今では、先の人生が見通せない。

 だが、俺はそれでも生きなければならない。



 俺と洋さんは一言も話すことなく、じっと待合室で時間の流れに身を委ねた。随分長い時間を茫然自失と過ごした気がする。腕時計を見ると、まだ正午を回ったばかりだった。

 なるべく玲奈の近くにいたいため、集中治療室前から動きたくなかった。だが体は正直なもので、喉が渇きを訴えている。俺はお茶でも買おうと席から立った。

洋さんと玲奈の両親は変わらず、黙然と座っていた。彼らにも水かお茶を追加で買おうと決めた。

俺が向かった場所にあった自動販売機は、かつて玲奈が助かってほしいと願った自動販売機だった。よくもこんな物に縋ったものだと、自嘲じみた笑いが溢れた。この自販機や毎日拝んでいた寺も、結局叶えてはくれなかった。

玲奈は元々決まっていたと言っていた。ならば、俺の願いは無駄だったのだろうか。

 俺は結論を出さないまま、投げやりに4人分の麦茶を買った。

 とぼとぼと元の場所に戻るに連れて、女性の泣き声が聞こえてきた。徐々に明確に鼓膜へ響いてくる。俺は悪寒が走り、早足で集中治療室前へ戻った。遠くに四人の人影が見える。その内の一人、医者らしき白衣姿が目立っていた。

 俺の足は、近づくに連れて力を失くしていった。傍に行かなくても判ってしまった。玲奈の母親が父親に縋って泣いている。医者の人が伝えてくれたのだろう。

俺は脱力して、ダラリと両手のペットボトルをぶら下げた。あと少し力が抜ければボトルを全て落としそうだ。自分に出来ることはもうないと悟り、四本のボトルを椅子に置いてからその場を去った。

 何も考えられず、何も感じられず、ただ足だけが動いている感覚だった。体に刻まれた記憶が自動的に出口へと向かわせているようだった。

「雄一君!」

 洋さんの呼び止める声がして、俺は自然と立ち止まった。振り向くと、洋さんが真剣な面持ちで俺に向かって来ていた。黙って立ち去ろうとした俺を咎めに来たのかもしれない。

「雄一君、これ」

洋さんは咎めると思いきや、ポケットから何かを取り出し、俺の前に腕を伸ばした。その手の中に何が入っているのかは分からないが、俺は考えなしに手の平を差し出した。すると、金色のチェーンが手の中に落ちていった。既視感を抱いてまじまじと見ると、それは俺が拒んだネックレスだった。

「お願い。貰ってあげて」

 洋さんの懇願するような声に俺は顔を上げると、彼女の瞳は潤んでいた。

 俺は胸の前にネックレスを握りしめた。今度こそ手放すわけにはいかないと思った。

 俺は無言で洋さんに会釈をし、再び出口へと向かった。歩いている最中、泣き崩れる母親の叫びが背中に響いていた。



 俺はバス停を通り過ぎ、蹌踉とした足取りで道を歩いた。じっとはしていられなかった。動いていないと考えてしまうから、家までの長い道程を茫然と歩いた。どれ程の距離を歩いたかは分からない。前を進んでいるのか、又は逆方向に進んでいるのか、何も分からないまま、足だけを交互に動かしている。眼前には悠久のアスファルトと澄んだ青空が見渡せた。

首に伝わる鉄の感触に、俺は立ち止まって首にかけたネックレスを眺めた。蓋を開けると、俺が一目惚れした玲奈の微笑が映った。


—— また話をしてね。


 玲奈の柔和な声が脳裏に蘇った。だが、もう話すことはできない。病室に行っても玲奈はいない。世界の何処を探しても見つけることはできない。

 俺は最愛の人と二度と会えない。

 自ずとペンダントから目が離れて青空を仰いていた。もう冬だというのに、真夏のような陽光が燦々と差し込んでくる。その眩しさに目を瞑った。光が痛くて涙が滲んできそうだ。

 俺はこの太陽が憎らしくて堪らなかった。全ての人間に光を注ぐと宣いておきながら、玲奈には一筋の光も与えてくれなかった。陽光の届かない病室にずっと閉じ籠って、最後には冷たい治療室で息を引き取ったのだ。

 喉が震えて、ううっと嗚咽が洩れた。上を向いていても涙が溢れて服を濡らしていった。せめて雨でも降っていたら涙を隠せたというのに、何故このような日に快晴なんだろう。

何故お前は澄まし顔で燦々と輝いているんだ、何故玲奈がいなくなったというのに、お前はそんなに陽気なんだ。

俺は、馬鹿野郎、馬鹿野郎、と恨み言を太陽に投げつけた。みっともないと自覚している。だが、抑えていた感情を何かに当て付けないと気が済まなかった。

俺は閑散とした道の隅で、空を仰ぎながら泣き叫んでいた。



 時間の感覚が曖昧で、家に着いたときには、どれ程経過したのか判然としなかった。辺りは薄暗くなっている。太陽は赤くなって雲に溶け込んでいた。

気付いたら目の前に家があったような気分だった。疲れや空腹、喉の渇きも感じず、足の裏が裂けそうな痛みだけは実感していた。

 空白な脳のまま歩く様は、まるでゾンビにでもなった気分だ。俺の魂はどこかに飛んでいってしまったのかもしれない。だがそれでも良いと思えた。今なら飛んだ先で玲奈の魂と出会えるのだから。でも出会っていないということは、俺の魂は辛うじて留まっている。

俺は自室の明かりを付けずにベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋めて茫然となるも、すぐに苦しくなって仰向けになった。もう今日は動く気力はない。

ぼんやりと天井を眺めると、玲奈の表情が次々と浮かんでくる。手に触れられそうなほど近くにあるのに触れられなくて、愛おしさばかりが募っていった。

俺はまた耐えらずに泣き崩れた。枕はあっという間に濡れていった。



 気付けば朝になっていた。どうやら泣き疲れて、自分でも気がつかぬ内に眠ったらしい。

「······ひでぇ顔」

 窓に反射して写る自分の顔に自嘲が漏れた。それは疲弊し切って、まるで生気がなくなったように窶れていた。目も死んだ魚のように暗然としている。自分は健康体だというのに、玲奈の方がずっと精彩な顔付きをしていた。

 昨日の昼から何も口にしていないせいか、流石に限界がきて、空腹の音が鳴った。未だ力のない足取りで出口へ向う。すると、目の前に一枚の張り紙が留まった。それは習字で、長商合格!と書かれた張り紙だった。勉強机には片付けていない教材が乱雑していた。

勉強机の下にはサッカーボールが置いてある。昔から自主練に使用している愛用ボールだ。このボールをドリブルしながら大会で活躍すること、Jリーグの球場を駆けること、長商高校でもサッカー部に入って玲奈がマネージャー。そんな未来を焦がれていた。

それらは全部、俺の夢と努力の結晶だった。

「······もういいや」

 俺は嘆息しながら張り紙を破り取り、紙屑同然の扱いでゴミ箱に入れた。

彼女のいない世界で長商を目指して一体何の意味がある。

サッカーもそうだ。俺のプレイを見て喜んでくれる玲奈がいないのに、一体どのようなモチベーションで続ければ良いのか。Jリーグの夢は既に俺だけの夢ではなかった。玲奈に夢を叶えた姿を見てほしかった。玲奈がいない世界で夢を叶えたところで、心の底から喜べる自信がない。

もう何も感じられないなか、ペンダントを棚に閉まった。ひとまず腹が減ったから何か食べようと、蹌踉となりながら部屋から出た。

その後は、特にすることはない。



 玲奈を失ってからの俺は、勉強にも部活にも精が出なくなっていた。テストでの成績は急下降し、長商に合格するなど夢のまた夢となっていった。最も、既に長商に入学するという目標は失われていて、高校など何処でも良いとさえ思っていた。二年最後の三者面談では、担任に「最近の鴨川は腑抜けている」と叱られる始末だ。

部活でもプレイに身が入らず、顧問から「やる気があるのか!」と叱責を受けた。だが、どんなに厳しい言葉を投げられても、かつてのような向上心は回帰しなかった。三年に進級しても状態は変わらず、大会の選抜ではレギュラーを後輩に譲ることになった。それでも俺は悔しいという気持ちにはならなかった。

今の堕落しきった俺に、流石の両親も将来を憂いた。神妙になった家族会議で特に紛糾することもなく、「せめて大学か専門学校に進学できる高校に入学してくれ」という結論に至ったので、俺はせめて両親を心配をかけさせない程度の成績を維持することにした。別にどうでも良いという投げやりな塩梅で、最低限のことを淡々と済ます一年を過ごした。

俺が最終的に決めた進路は、家から一番近いという理由で選んだ公立高校だった。

そこで腐れ縁のように入学した雅人に、「また一緒にサッカーやらないか?」と誘いを受けたが、俺にはもうサッカーの情熱は消失していた。昔は綺麗に磨いてた自室のサッカーボールは埃を被っている。ユニフォームやスパイクも引退以来触れていない。かといって、これまでサッカーしかしてこなかった男に他のスポーツの関心は抱けなくて、結局家と学校を往復するだけの学校生活を選んだ。

俺に残ったのは、玲奈から授かったペンダントだけだった。

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君は快晴のようで…… ジョン・スミス @masahumi0412

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