第9話 償い

 慣れというのは恐ろしいもので、神崎との戯れ合いも辟易することはなくなった。

 それどころか、毎朝席を陣取る神崎を追い払う事に楽しさを覚えた自分がいる。彼女と応酬し続けた日々は俺の考えを変えさせた。

虚無な人間になってしまっても、友人と触れ合うことは楽しいと感じる。今の神崎との関わりは、三馬鹿連中と接している状況に近い。

 だから俺は神崎を友人と思うことにした。そう思えば罪悪感を抱くこともない。むしろ現状を楽しむ事ができる。自分の信念を確固にしながら愉快に過ごすのは悪くないと思えた。

 そう、俺たちはただの友達だ。

 自分に納得しながらアスファルトを延々と歩いた。一年以上この道を歩いていないが、案外覚えているものだ。右を見ても左を見ても家ばかりで、迷路のような道でも残っていた記憶で足が動いた。

 歩いて行くと、奥に佇む白い壁と青い瓦の一軒家が見えてきた。

 その家の前に着くと、俺は足を止めて表札を見た。石に彫られた木更津という文字。

 玄関まで行ってボタンを押すと、ピンポーン、とチャイムの音がした。

「はぁい」

 スピーカーから聞こえた声から、洋さんだとすぐに分かった。

「鴨川です」

「あ、待ってて」

 ガチャリと受話器を戻す音がした。数秒待っていると、扉の隙間からつぶらな瞳が覗いた。

「いらっしゃい」

 洋さんは微笑みながら言い、「ささ、はやく入って」と手招きをした。

「お邪魔します」

だが、入った途端、俺は背筋がくすぐったくなるような感覚がした。違和感を確かめるように見回すと、洋さんがしげしげと俺を眺めていた。

「前会ったときも思ったけど、また背が伸びたんじゃない?」と洋さんは言った。

「少しだけど伸びましたね」

「だよね。スタイル良くてびっくりしたよ」

「みんなこんな感じですよ」と俺は苦笑交じりに言った。

 洋さんも、ふふっと微笑した。

「あ、そうだ。お茶用意するけど、その前に······」

 洋さんが付け加えた言葉に、俺の胸がドキリと鳴った。この人の口が紡ぐ先が何なのか漠然と想像がつく。

「お線香上げてく?」

 覚悟はしていたが、それでも直接言われると心がじわりと痛む。現実を直面するのはいつになっても辛い。

「······はい」と俺は小さく頷いた。

 洋さんの黒髪を見ながら付いて行く。その先にある襖が開かれ、薄暗い和室が見えた。その奥にある仏壇には写真が置いてある。

玲奈の哀しくなるほど綺麗な微笑が写っていた。

 俺は淡々と線香を付け、りんを鳴らし、写真の前で合掌した。脳の奥にまで届きそうな金属音が室内に反響した。俺は無心に瞼の裏を見つめた。

 りんの音が鳴り止んだことで、俺はおもむろに目を開けた。すぐに立ち上がって振り向いた先に、洋さんが微笑みながら立っていた。だが、その微笑には哀愁が漂っているようだった。

「お茶とお菓子用意するから、座って待ってて」

 俺は台所に向かった彼女の背を追った。

何度かこの家を訪れたことがあるので家の構造は知っていた。二階には玲奈の部屋がある。あの部屋は時間が止まったままだろう。

 食卓から洋さんがお湯を注ぐ姿が見えた。その可憐な動作に、やっぱり姉妹だなぁ、と感慨深くなった。頬に垂れた黒髪や横顔は玲奈にそっくりだった。俺は何度も洋さんに玲奈の面影を重ねた。だが、違うな、と毎度思うのだ。

「お待たせ」

 洋さんはトレイに二人分のショートケーキとティーカップを乗せて来た。訪問にして随分と豪華な気がする。

「ありがとうございます。ケーキまでご馳走になってしまって」

「良いの良いの。これくらい当然だよ」

 そう謙虚に言い、洋さんはフォークに刺したケーキを頬張った。

「どう? 最近は」

「可もなく不可もなくって感じですね。ずっと勉強ばかりしてますよ」

「お、偉いね高校生」

「特にすることもないので」と俺は苦笑交じりに言った。「洋さんはどうですか?」

「私は空いた時間にバイトをしてる。この前会ったときもその帰りだったの」

「俺は勉強で、洋さんはバイトか。お互い暇はないですね」と俺は肩を竦めて言った。

 洋さんはティーカップを両手で持ちながら紅茶を飲み、平坦な目で俺を見詰めている。

「暇ねぇ······」と洋さんは悪戯に言った。「その割には女の子と一緒にいたけど?」

 その言葉に、俺は言葉が詰まった。

「冗談。でも随分と可愛い子だね」

「そう言ってる奴もいますね」

「いますねって、雄一君は何も思わないの」

「思いませんよ。本当にアイツとは何もありません。ただの友達です」

俺は直截に言い、紅茶に口をつけた。アールグレイの爽やかな香りが口内に充満した。

「でも、あの子はそう思っていないみたい」

 俺の持つティーカップが揺れた。咄嗟に洋さんの顔を見ると、含みのある微笑でこちらを見ていた。この人は気付いている。女の勘は恐ろしい。

「雄一君が否定したとき、彼女凄く悲しそうな顔してたよ。駄目じゃない。女の子にあんな顔させちゃ」と洋さんは笑いながら咎めた。

 神崎があのときどんな顔を浮かべていたかなんて考えてもいなかった。悲しそうな顔と言われても、明朗快活な姿ばかりだったから想像し難い。だが、辛い思いをさせてしまったなら罪悪感が疼いた。

「申し訳ないとは思ってますよ。でも、俺は恋愛とかする気ないんです」

「えぇー、それは勿体ないよ。雄一君は結構モテそうだし」と洋さんは惜しそうに言った。

 これまでの経験から、この言葉が決してお世辞ではないことを知ってしまい、顔を顰めそうになった。神崎が余計なことを言わなければ聞き流していたのに。

「そういうのに関心ないんですよ」と俺は苦笑した。

 俺は淡白に言ったが、洋さんは「そっかぁ······」と残念そうに言った。

 ショートケーキを食べ終え、ティーポットの紅茶を全て飲んだが、俺たちは会話に没頭していた。

とはいえ、俺は特に言うことがなかったので、滔々と話す洋さんの話を聞いて頷いていた。

卒業論文の題材に困っていること、就職では地元の企業に勤めたいということ、三ヶ月前に同学年の男性と交際を始めたこと。

 自身の話を終えると、玲奈に関わる話へと移り変わった。命日だけでなく、お盆のにも欠かさずお墓参りに行っているという。両親は玲奈が亡くなってから元気がない日が長く続き、母親に至っては外に出ることすら億劫だったようだ。

だが、今では心の整理もでき、昔のような前向きさが戻ったらしい。春休みには家族三人で佐渡島へ旅行に出かける予定だそうだ。

 洋さんたちは玲奈のいない世界に馴染んできている。世界が止まらずに動いている事をひしひしと感じた。

「時間が経つと変わるものなんですね」

 洋さんたちは変わってしまった。彼女たちの中に玲奈はどれほど残っているのだろうか。

「雄一君はどう? 慣れた?」

 洋さんの問い掛けに、俺は言葉が詰まった。

「俺は大丈夫です」と俺は曖昧に答えた。

 洋さんは安堵しながら「そう······」と言った。まるで蟠っていた不安が抜けたようだった。

「実はね、まだ玲奈の部屋はまだそのまま残ってるんだけど、家族で話し合って片付けることにしたの。今日雄一君を呼んだのも、君には言っておかないとと思ってね」

「え······」

 洋さんは淡々と言ったが、対照的に俺は唖然となった。

「どういうことですか?」

俺は眉を顰めながら言った。静かな口調だが明瞭な怒りを帯びていた。

「いつまでも玲奈に囚われないためだよ。嘆いてもあの子は戻ってこない。いつかは受け入れないといけないの」

「受け入れるって、玲奈を忘れることをですか?」

「忘れるわけじゃないの。あの子のことはずっと想ってる。だけど、いつまでも死んだ玲奈のことを考えるわけにもいかないの。私たちにもそれぞれの生活があるし、どうしても切り離さなければならないときもあるの」

 洋さんは口ではそれらしい事を言っているが、俺には忘れようと努めているように聞こえてならなかった。

「······そんなの、ただ考えたくないだけじゃないですか」

 俺は両手を握っていた。掌からじわりと汗が滲む。

「雄一君、君はまだ······」と洋さんはおずおずと言った。

 俺は彼女の動揺が正体がすぐに分かった。

「えぇ、好きですよ」と俺はハッキリと告げた。「俺、今でも玲奈から貰ったペンダントを大切に持ってるんです。あれを眺めていると落ち着くし、傍にいるような気がする。だからずっと持ってるんです。玲奈を忘れないで想い続けるためです」

 滔々と述べると、洋さんは耐えられず目を伏せた。衝撃で言葉を失ったようだ。途方に暮れながら顔に手を当てた。

「それは大丈夫とは言えない」と頭を振りながら言った。「今の雄一君は以前の母とそっくりだよ。まだ玲奈の死に囚われてる。辛いのは分かるけど、いつかは気持ちとの折り合いも付けないといけない。でないと、いつまでも何も変われない」

「寂しくはありません。俺には一生分の思い出があります。それで良いんです」

「駄目だよ、そんな後ろ向きままでいては」と洋さんは諭した。「君は新しい出会いを見つけた方が良い」

「はい?」

「ううん、もう出会ってる。君には好意を抱いてくれている人がいるでしょう? その子の気持ちに応えてあげなさい」

「俺に玲奈を裏切れって言うんですか? できるわけないでしょう。俺は玲奈と約束したんです」

「でも約束を守る相手はもうこの世にいないの」

 俺はその洋さんの言葉がとても冷然に聞こえて、愕然となった。

「玲奈が生前に君とどんな約束をしたかは知らない。あの子を想ってくれることも嬉しい。だけど、人は自分のために生きなければならないときもあるの。だから君がいつまでも玲奈に執着する必要はない」

「そんな玲奈の命を軽んじるようなこと、俺にはできません」

 俺は即座に首を振った。玲奈を忘れて自分のために生きるなんて、そんな不誠実があってたまるものか。

「さっき寂しくないと言ったけど、今の君はすごく寂しそうだよ。人は寂しさには敵わない生き物なの。玲奈だってそうだった。想い続けることも素晴らしいけど、想われることも大事なの。でないと心は満たされないまま虚しくなるだけ。でも玲奈では君はずっと······」

「もう良いです」

 洋さんの説教を聞きたくなくて、俺は苛々と吐き捨てながら立ち上がった。椅子が雑に引かれてガタリと嫌な音を立てた。

「あなたとこんな話はしたくなかった」

 そう冷たく言い捨てから玄関へ向かった。

「待って雄一君!」

後ろから椅子を引きずる音が聞こえたが、俺は無視した。パタパタと足音が次第に大きくなって、唐突に俺の腕を掴まれた。悲痛な視線を背中に感じたが、振り向くことはなかった。

「あなたは家族だから忘れることはないかもしれない。でも俺は違うんです」と俺は言った。

 洋さんは何も言わなかった。荒い息遣いだけが部屋に響いていた。

「恋人の繋がりは切れやすいんです」

 俺は腕を振り解き、逃げ出すように外へ出た。

帰り道を影を見ながらとぼとぼと歩く。ぼんやりと空を仰ぐと、自分の影が空に写った。何も考えず眺めたいと思っても、洋さんの言葉が脳を過ぎる。

あの人は前向きになれと言った。だが、俺はその意味に釈然としなかった。前を向くことは玲奈を忘れることと同じだ。そんなものは前向きなどでない。ただの逃避だ。

好きな人を忘れて新しい出会いに一喜一憂し、今だけを見ながら自分だけの人生を過ごす。

だとしたら、俺は前に向きたくない。

 それだけ玲奈を大切に想っていた。大切だったから簡単に切り離せない。

 玲奈を忘れずに生きていくことは、俺にできる唯一の償いだった。

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