第8話 雨のロマンス

 豪雨が窓硝子を打ち付けて、見渡せるはずの中庭が雫で霞んで全く見えなくなっていた。廊下は雨音で騒然としているが、人気がなくて薄暗いのでむしろ森閑としていた。

 今日は数秒だけでも雨晒しになればびしょ濡れになるほどの豪雨だ。そんな日に部活などあるはずがなく、友人たちは早々に帰って行った。

 俺は傘を忘れてしまったため立ち往生となっていた。だが、俺は不運に落胆してはいなかった。傘がなくても雅人の隣に強引に割り込んで帰ることも出来た。それでも帰らず、むしろこの状況をラッキーと思ったのは、クラスメイトの女子からとある噂を入手したからだった。

 木更津玲奈が放課後の図書室でテスト勉強をしている。

 俺はもしかしたらと思い、図書室へ続く廊下をそわそわしながら歩いた。いなければ骨折り損なうえにびしょ濡れだが、いれば嫌いだった雨を一転して好きになれるほど嬉しい。

 図書室内は照明が付いていた。これは誰かいるという証拠だろう。俺ははやる気持ちを抑えながら室内を覗き見た。

 だが、そこに玲奈はいなかった。テーブルの置かれた自由スペースには誰一人いない。

「マジかよ······」

 俺の中に沸いていた熱が急激に覚めた。緊張で力んでいた肩が落ちる。雨音だけが淋しく鳴り響く室内に取り残されてしまった。本でも読んで雨が止むのを待とうと思ったが、この様子では夜中まで振り続けるだろう。

 俺は落胆のため息を溢し、とぼとぼと図書室から出ることを決めた。

「何をしてるの?」

歩き出したときだった。背中に凛とした声を浴び、俺は衝動的に振り向いた。

 目の前には玲奈が立っていた。本を両手で持ちながら怪訝に俺を見ていた。

「玲奈、いたのか!」と俺は驚愕のあまり声を張ってしまった。

 俺の冷めきった心がまた熱を取り戻した。

「そんなに驚かなくても」

 玲奈は言葉とは裏腹に無表情で言った。俺がいることには驚いていないようだ。

「わるい、誰もいないと思ってたから」

「君もテスト勉強?」

「······まぁ、そんなところかな」

 玲奈に会いたくて来たとは決して言えなかった。

「なら、一緒にどう?」

「是非」

 俺はまた一緒に帰れるよう鞄を持っていた。その中には勉強道具も揃っている。念には念をと用意しておいて良かったと心底思った。

 勉強の集中力が途切れ、俺はぼんやりと窓を眺めた。雨に濡れた硝子ではいつものように校舎を見渡せなくて、代わりに俺の好きでもない顔が反射していた。隣には今も集中している玲奈の佇まいがあった。問題に悩む仕草を見せず、淡々と数式をノートに書き込んでいた。俺が苦戦していた問題を難なく解いている姿に、本当に頭が良いんだな、と感心して思った。

 玲奈が最後の問題を解き終わり、ふぅと一息ついた。俺は聞くなら今しかないと思った。

「玲奈、あのさ」

 俺は神妙に言うと、玲奈は怪訝に首を向けた。

「サッカー部の練習を見に来てたって本当か?」

 俺は平静を装いながら言った。すると、玲奈は目を見張り、すぐに俺から目を伏せた。

「······誰から聞いたの?」

「雅人から。たまたま見かけたんだって」

 昨日、練習が終わって着替えているとき、雅人が「木更津さんがずっと見てたけど、雄一なんか知ってる?」と尋ねてきた。俺はそのことがずっと気がかりだったが、聞く機会がなかった。

「そう······」

玲奈は雨音で掻き消されるくらいに小さく呟いた。俯きながら人差し指で髪を絡めている。決してこちらへ顔を向けはしなかった。

「サッカーに興味あるのか?」

「······少しね」と玲奈は小さく呟いた。

「別に見たければ好きに見て良いんだぞ。隠すことでもないし、全然迷惑じゃない」

「それは、分かってるけど」

 彼女は萎縮しきっていた。顔を紅潮させながらチラチラと俺に一瞥くれている。

「君の姿も見た。練習、随分頑張ってた」

「レギュラーに選ばれたからな。余計に気合入れなきゃならない」

「レギュラーになれたの? 凄い······」

 玲奈はよほど驚いたのか、ようやく顔を向け、感嘆の声を上げた。

「いや、まだまだ全然だよ」と俺は首を横に振った。

「どうして? レギュラーに選ばれることは大変なことじゃないの?」

「そりゃ大変だよ。先輩は当然として、同級生にも上手い奴は多い。俺が選ばれないことだって十分あり得た。でも、俺にとってレギュラーは通過点なんだ」

 直截に言うと、玲奈は押し黙ってしまった。無表情なため、驚いているのか感心しているのかすら判然としない。

「Jリーガーになりたいからな。そのためにも大会で良い成績を残して、高校は県の強豪校に行きたいんだ。一流のプロはみんな強豪校で結果を残してるし、何よりプロになるための最短ルートでもある。当然大変だろうけど、もしもスカウトでもされた時には、夢が半分叶ったようなもんなんだ。そうなれるようにも、レギュラーは必須なんだよ」

 レギュラーに選抜されただけでは終わらず、むしろこれからが戦いだ。まずは次の地区大会で結果を残す。そうでなければ、俺の目指す強豪校では通用できないかもしれないからだ。

 俺は「でさ、」と話題を変えるように言った。

「突然なんだけど、長商高校に興味あるか?」

「······本当に突然なんだけど。何で脈絡もなく高校の話になるの?」

 玲奈は面食らって言葉を詰まらせた挙句、呆れ口調でそう言った。そんな反応を尻目に、俺は「まぁ聞けって」と宥めた。

「あそこは文武両道でさ、偏差値が高い特別進学コースと部活動と両立できる総合コースがあるんだよ。サッカーも全国大会に何回も行ってる強豪だし、勉強でも有名大学に多く輩出してる。俺たちにピッタリだろ」

 俺が長商高校を進路に決めたのはつい二日前だった。サッカーの強豪校には行きたいが、長商高校だけが強豪でないし、県外の高校だってあり得たのだ。それでもこの高校が良いと思えて、此処しかないとも感じた。

「だからさ、玲奈が興味を持てればなんだけど、良かったら一緒に行かないか?」

 俺は玲奈と同じ高校に通いたい、玲奈との関係が続いて欲しいと願っていた。俺の目標は、強豪校に入ることだけではなくなっていた。

「本当に何なの? 驚くことばかり言って」

 玲奈は話について来れないといった塩梅で呆れた。

「同じ高校に誘うだなんて、君ってもしかして私のこと好きなの?」

 そして、口端を吊り上げながら不敵に言った。言葉には俺を動揺させようという悪戯な思考が明瞭に窺える。彼女の度胸には流石に俺も面食らって、凝然と見入っていた。

 だがすぐに、もう良いや、と観念して平静になった。

「好きだよ」と俺は悠然と言った。

 全て事実だから否定のしようがない。想いを蟠ったまま、悶々と過ごす日々に嫌気が差していたのだ。気づいた時には、自分でも誤魔化しきれないほど彼女に魅入っていた。

「俺と付き合ってほしい」

 直截に言うと、玲奈の勝ち誇っていた表情は一転した。白いみるみる肌が紅潮していって、教材で顔を隠した。幾許か顔を埋めてから、双眸だけを出して俺を睨んできた。

「······またそうやってからかって」

「からかってねぇよ。本気だ」

 俺は真剣に玲奈を見ると、彼女は耐えられずにまた教材に顔を埋めた。あとは玲奈の返事を待つだけだった。雨の音だけが響いている時間が滔々と流れてゆく。

 玲奈はようやく顔を上げ、ふぅと一息付いた。ようやく冷静になれたらしい。姿勢を正しながら俺に向いた。

「長商高校だけど、とても魅力的だと思う」

 その言葉は告白の返事ではなかった。だが俺は嬉しかった。曖昧にされたことは残念だが、玲奈が俺と一緒にいることを良いと言ってくれている。

「じゃあ、考えてくれるんだな」

 言うと、玲奈は無言で頷いた。



 雨は止まないどころか強くなっていたので、玲奈の傘の中に入れてもらうことで、俺たちは密着した状態で歩いた。黒髪から甘い匂いが鼻腔を撫でる。図書室では大胆な告白をしたが、それでも近くにいると緊張してきた。玲奈が濡れないように俺は傘から肩をはみ出させる。制服に雨水が染み込んでいった。だが、玲奈が隣にいてくれれば、制服が濡れるなんてことは些細なことに思えた。

 玲奈はずっと木訥なままだった。突然の告白だったから当然だが、まだ気持ちの整理が付いていないのかもしれない。

「玲奈」

 俺は神妙な空気にさせてしまった負い目もあって、想いを告げた後も率先して話しかけていた。

玲奈は返事をしなかったが、僅かに首を俺に傾けた。

「今度の大会、玲奈も来てくれないか?」

 言ったが、玲奈が表情を変えなかった。彼女の心情は分からないが、俺はそれでも構わず言い続けた。

「絶対勝ってみせるから」

 玲奈が応援に来てくれたら、俺は誰にも負けない気がした。

「えぇ、もちろん行く。頑張ってね」

 玲奈はずっと無表情だったが、ようやく笑ってくれた。長い睫毛に縁取られた瞳が俺を捉える。柔和な声が俺の耳に近くで届いて、耳元で囁かれているようだった。

「それと、長商高校は総合コースでも偏差値は高いんだから、本気で目指すなら勉強も疎かにしないようにね」

「あぁ、それも頑張るよ」と俺は肩を竦めた。本調子の玲奈に戻ってくれて安心した。

 前を見ると、俺たちが別れる道へと差し掛かっていた。

「さて、ダッシュで帰るか」

 俺は密かにびしょ濡れになる覚悟を決めて傘から出ようとした。だが、玲奈は「駄目」と言って首を振った。

「送ってあげる。大会近いのに風邪ひいちゃいけないでしょ」

「じゃ、お言葉に甘えて」と俺は即答した。

 申し訳ないと思ったが、玲奈と一緒の時間が長引くことの嬉しさが圧倒的に勝っていた。

「傘持ってくれない?」

 玲奈は悠然と傘の持ち手を渡してきた。俺は突然のことで不思議に思ったが、確かに女子をエスコートするときは、男である俺が傘を持つべきだろう。嫌なことではないので平然と傘を持った。

 すると、玲奈は俺の傘を持った腕に自身の腕を回した。内側に入るように抱き寄せられた。肌と肌が重なる感触に心臓がドクリと鼓動した。雨の空気で肌が冷えていたが、玲奈の体温で暖かくなっていった。伝わる鼻息に俺自身の内側からも熱が沸いてくる。玲奈が今どんな気持ちなのか知りたくて、彼女の心音でも聞こえれば良いのだが、聞こえるのは俺の鳴り止まない鼓動だった。

 


 俺と玲奈は練習の休憩時間に会うことにした。雅人が言った通り、玲奈は木陰から見守るようにサッカー部を眺めていたのだ。気付いた俺は皆の目を盗んで会いに行った。彼女の希望で俺たちが付き合っていることは秘密にしていた。だから秘密裏に会うしか玲奈との時間を作れなかった。

 真夏の陽光で汗まみれになっている俺に、玲奈はスポーツドリンクをくれた。その親切な姿に、「高校はサッカー部のマネージャーになったら?」と提案した。だが、玲奈は答えずにクスッと笑うだけだった。

 大会の当日に、俺たちはいつものように二人だけで会う約束をした。試合は無事に勝ち進むことができたから、俺はすぐにでも勝利を玲奈と分かち合いたかった。俺自身は目立った活躍は出来なかったが、それでも彼女の喜ぶ顔が見れるかもしれない。そう思うと高揚して、ユニフォームのまま会場内を駆けた。観客や選手を掻き分けながら玲奈がいる観客席へ向かった。

 だが、そこに玲奈はいなかった。

その翌日、玲奈は学校にも来なかった。

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