第7話 夢追い人

「あ、鴨川君じゃん。おはよう」

 教室入る手前で俺は人懐っこい声に呼び止められた。声の相手は神崎ではなく細川と後藤。彼女たちとはそこそこ話をしたことがあった。

 入り口で偶然にも出くわしたことで、俺の脳裏に神崎の言葉が浮かんだ。


—— 雄一君、結構女子人気高いの知らないの?


 俺は素っ気なく「······おはよう」と返して、即座に室内に入ろうとした。誰が俺をどう思っているかは知らないが、何事もなく挨拶だけで済んだなら、彼女たちは違うだろうと安心できる。

「ねぇ、鴨川君」

 だが俺の期待を裏切るように、俺の制服を摘まれた。振り向くと後藤が上目遣いで俺を見ていた。端正に整えられた、自信に満ちた前髪が見てほしいと言っているようだった。

「見てたのか?」

「うん! みんなで男子の試合見て盛り上がってたの」

「······そっか」

「次の球技大会はサッカーを選ぶんでしょ?」

「そうなるだろうな」

「頑張ってね! 応援しに行くから!」

「······あぁ、ありがとう」

 俺は礼を言い、会話を強引に切り上げて彼女たちから離れた。神崎から何も知らされていなければ気にも留めなかったが、今となっては言葉の全てが気がかりだ。余計なことを言いやがって、と神崎を恨めしく思った。

 そんな反感を抱いたばかりの相手が目の前に座っていた。無論、俺の席にだ。

「ヤッホー」と神崎は勝ち誇った笑みで手を振った。「なんか眠そうだね。寝不足?」

「まぁ、一時まで起きてたからな」

「どうせゲームでもしてたんでしょ?」

「違ぇよ。試験勉強だよ」

「そんな時間でも勉強してんの? 偉っ!」

「試験まで時間ないからな」

「やっぱ成績良いだけあるなぁ」

神崎が感嘆すると、隣の成田が「ちょっと」と声を掛けた。

「アンタは次の試験どうなん?」

「あたし? 一言で言うとヤバイ」

「一緒だね」

 二人は「イエーイ」とハイタッチした。

 俺は面倒になって、席を奪還することを諦めた。男連中の場所に行って暇を潰そうと去ることにした。

「ちょっとちょっと、鴨川君」

 だが、成田に制服の背を引っ張られたことで逃げ道を阻まれた。女子に服を伸ばされたのは今日で二度目だ。振り返ると、隣に神崎もいた。

「あたしらに勉強教えてくんない?」

「はい?」

「あたしら勉強できないんだよ」

「そう、バカコンビだから」と神崎は自虐的に言った。

 だが口調は砕けていた。彼女たちは肩を組みながら「イェーイ」と軽佻にピースサインをした。

「そんくらい一人でやれよ」と俺は苦々しく言った。

「だってしょうがなくない? あたしら部活が大変で帰ってくるの遅いから、あんまし勉強する時間作れないし」

「それじゃあ言い訳にならねぇよ。部活入ってて俺より成績良い奴だっているし、ちゃんと授業を聞いて······」

「あーあー! 聞きたくない! 正論は嫌い!」と神崎は片耳を塞ぎながら喚いた。

「お前な······」

「お願い! なんでもするから!」と神崎は片手だけで合掌した。

「いや、別に何でもはしなくて良い」

「あたしからもお願い!」と成田は神崎の掌に自分の掌を重ねた。

二人一緒に合掌して懇願する奇妙な格好をしている。人にものを頼む格好には見えない。俺はやれやれと嘆息した。

「いつが空いてる?」

「え、良いの?」

「どうせ断っても引きそうにないしな」

 俺は投げやりに言うと、彼女たちは「イェーイ」と声高らかにハイタッチをした。

「土曜日でお願い」

「分かった。午後で良いか?」

「オッケー!」

 神崎の嬉しそうな声に、明瞭な罪悪感が俺の胸を締め付けた。

 俺は憮然と俯いていると、クスッと溢れた笑いが聞こえた。顔を上げると、神崎が手を口に当てて微笑んでいる。一体何が可笑しいのか。

「なんだ?」

「雄一君って、押しに弱いよね」と神崎は言った。

 全くだ。こんな自分に嫌気が差す。本当はこんな事をしてはいけないはずなのに。

 だが、神崎に振り回されているが、心まで奪われたつもりはない。今でも俺は神崎に特別な想いを抱いていないのだから。

俺が振り向きさえしなければ、神崎の情熱的な恋もいずれ冷めるだろう。

 そう、俺は自分を納得させた。



喫茶店に流れるジャズを聴きながら抹茶ラテを啜った。予備校の自習室で集中出来ていたためか、苦味にほのかに混ざる甘みに一息つけた。

此処には雅人らと何度か来たことがあるため、暖色系に彩られた店内は見慣れていた。落ち着いた内装がお洒落とも見て取れて、神崎こんな感じ店が好きなんだなぁ、とひしひしと思った。以前行ったパスタ店と似た雰囲気だった。

待ち合わせの4時には余裕があって、所在なげな気分を単語帳で誤魔化した。

親交を持ってから数日経っただけだが、神崎とは深く関わっている気がしてならなかった。平日で彼女の顔を見ない日はないし、声も必ず耳に入る。そして今日のように休日ですら顔を合わせることになった。元の淡々とした日常が回帰する日はいつになることやら。

「あ、いたいた」

 俺はその軽やかな声に、やっと来たか、と思っておもむろに顔を上げた。そして、直後に神崎の様相に目を見張った。

 頭のお団子はそのままだが、整った化粧と私服に、俺の抹茶ラテを持った手が固まった。口紅、ファンデーション、ネックレス。どう見ても勉強をするという身なりでなかった。デートに行くかのような気合が如実に現れている。水色のノースリーブから露わになる小麦色の腕を見て、俺は咄嗟に目を伏せた。純白のロングスカートには皺が一つもない。

 椅子を弾く音を聞き流しながら、俺は教材を机の上に並べた。自然と勉強だけを考えるよう努めいていた。

「あれ、成田とは一緒じゃないのか?」

「萌香は来ないって」

「は?」と俺は素っ頓狂な声で言った。「じゃあ、俺とお前の二人だけか?」

「うん」と神崎は悠然と肯いた。

 今回は成田が同伴のはずだから安閑でいられたというのに。

 そこで俺は大きな見落としに気が付いた。神崎の親友なら俺のことを聞いている可能性も十分に考慮できる。そして、親友ならばこそ、どのような行動をするかも想像がついた。少なくとも俺の味方ではないだろう。

「まさか、俺をはめたのか?」

「さぁ? どうでしょう」神崎はわざとらしく肩を竦めた。

 これは確信犯だろう。彼女が虚言を吐かないことは今までの付き合いで分かっていた。

「まぁいいや。さっさと始めようぜ」

 俺は現状を受け入れ、神崎に勉強を促した。今回は勉強会という名目だ。だから他の事は考えなければいい。

 神崎に英語や数学を主に教えながら自分の課題をこなしていった。現代文の出題小説を面白いと思いながら、線で引かれた平仮名を漢字で解いた。

 向かいの神崎は俺の想像に反して黙然と勉強に励んでいた。途中で集中力が尽きて、無駄話を始めるんじゃないかと不安だったが、話すときは俺に分からない問題を尋ねるときだけだった。

 むしろ、集中が途切れていたのは俺の方だった。神崎の右手には、親指以外の指に白いテープが巻かれていて、痛ましさに時折目が行ってしまった。練習中に捻挫をしたのだろう。呑気さが目立つ神崎だが、それでもバレーではレギュラーに選出される腕前を持っている。俺の見ていない所での努力が如実に見て取れた。

 俺は怪我をする機会が格段に減った。昔は疲労骨折をしたこともあったが、今では疲労と無縁の生活を送っている。それだけ俺と神崎は正反対だ。

「少し休憩」

 そう言いながらストローを口につけた。それは生クリームにチョコレートらしきパウダーが振りかかっている何かだった。見るからに糖質の塊だ。しげしげと見入っていると、神崎はストローを離してホッと嘆息した。ストローの先に口紅が付着していた。

「雄一君、午前は何してたの?」

「今と変わんねぇよ。予備校の自主室で勉強してた」

「マジか。そんなに勉強好きなんだ」

「好きじゃねぇよ。むしろ嫌いな方だ。でもこれ以外することないから仕方なくやってる」

「ふぅん」と神崎は興味深そうに呟いた。「行きたい大学とか進路は決まってるの?」

 その言葉に、俺は声を詰まらせた。

「いや、まだだ」と俺は首を振った。「大学は今の成績で入れるところに行くだろうな。そんで普通に就職する」

「お堅いね」と神崎は言った。

「そういうお前は決めてるのか?」

「決めてるよ」

 即答した神崎に、俺は少し驚いた。普段呑気な割にしっかりと考えている。

「スポーツ推薦で大学行って、萌香と一緒にビーチバレーでプロを目指す」

 その毅然とした発言に、俺は更に驚愕した。〝ビーチバレーのプロ〟と言った神崎の声が脳に反芻した。

「デカイ夢だな」

「大きい方がやりがいあるからね。そのために頑張れば、叶わなくても後悔しないし」

 彼女のやりがいがある、叶わなくても後悔しないという発言に、俺の耳がキンと痛くなり、何故だか追い討ちをかけられた気分になった。

「いつか有名タイトルの大会に出場して、二人で表彰台に立つの」

「大会って、オリンピック?」

「いや有名過ぎるでしょ」と神崎はケタケタと笑いながら言った。

 確かに自分でも飛躍しすぎたと思う。俺は、そこまで大きな夢は彼女でも持てないだろうと安堵して、抹茶ラテに手を伸ばした。口を付けようとした刹那、神崎の「でもありかも」という声が聞こえた。

「オリンピックってことは日本一だし、萌香となら目指せる」と神崎は迷いなく言った。

 その曇りのない双眸を、俺はただ呆然と見つめた。そして目を伏せて、抹茶ラテを啜った。

「······良いな、やりたいことがあって」と俺は不意に呟いていた。

 神崎は何も言わず、粛々と生クリームを吸った。反応に当惑したのだろう。明るい店内には不相応な神妙となった空気が、俺と彼女の机を包んだ。俺自身が失言に気まずくなって、またもカップに口をつけた。抹茶ラテは底をつきそうだ。

「雄一君、インスタ始めない?」と神崎は言った。

「なんだ急に······」と俺は困惑した。

「あたしのインスタフォローしてほしくて」

「アカウントは持ってるけど」

 俺は、フォロワー数を稼ぎたいだけか、と思いながら携帯を開いた。

「ウソ! やってたんだ。意外」

「やっているというか、見てるだけだ。自分から投稿はしてない」

「見せて見せて」

 神崎は弾んだ声で机をパタパタと叩きながら催促した。興奮している彼女にやれやれと思いながら携帯を差し出した。

「サッカー選手のインスタフォローしてるんだ。あ、この人海外で有名な人だよね。てか猫と犬アカウント多っ! 似合わな」

「ほっとけ」

 神崎は興味津々といった面持ちで画面に見入ってた。時折、「へぇ」や「可愛いー」などと呟いている。見終わった後、「はい」と携帯を返した。画面を見ると、そこには見たことのないアカウントが追加されていた。

「それあたしのね。鍵垢だけど雄一君なら見ていいよ」

 俺はとりあえずといった塩梅で神崎のアカウントを見た。投稿数も多いし、内容も食べ物や友人たちと遊んだ時に撮ったのだろう画像が多かった。他にも文化祭や体育祭、球技大会、クラスマッチ。部活の練習風景や大会模様も載せてあって内容豊富だった。以前に友人が多いと断言していただけあり、多くの女生徒らと親交があることが一目で分かった。活発な神崎の人間性が全て詰まっている。その中でもやはり成田とのツーショットが最も多く占めていた。彼女らの自撮りやプリクラが連続して流れた。本当にこの二人は仲が良い。


 —— 萌香と一緒にプロを目指す。二人でメダルを取って表彰台に立つの。萌香となら目指せる。


 神崎は俺が失くしてしまったものを持っている。その姿が堪らなく眩しくて、快晴の太陽に目を眇めたときの気分だった。

 悄然となってきとき、流れてきた写真群に、俺は息を呑んだ。そしてすぐさま目を背ける。見てはいけないものを見てしまった。

「見ちゃった?」と神崎が悪戯な声で言った。

 俺は顔を向けると、やはり彼女は肘を突きながら俺を茶化した面持ちで見ていた。

「······お前さぁ」

 海やプールに行った画像も載っていた。当然神崎の姿も写っている。おまけに成田とのツーショットなため二人分の負い目を感じることになった。恬然と晒した二人の薄小麦肌。男に水着姿を見せるなんて何を考えているんだコイツは、と苛々しく思いながら彼女を睨んだ。

「ピュアだなぁ」と神崎はクスクスと笑った。

「お前、他の奴にこんなん見せて良いのか? 何に使われるか分からねぇぞ」

「さっき鍵垢だって言ったじゃん。男子のフォロワーは雄一君だけ。他の男子からもフォローリクエスト来るけど全部拒否してる」

 俺は返す言葉がなくて、抹茶ラテを口にした。今ので飲み切ってしまったから、もう誤魔化しは効かない。

「······そろそろ再開しよう」

 俺は話を強引に切り上げて現代文の続きを始めた。神崎が今の俺を見て何を思っているのかは分からない。だが、俺では神崎の想いを受け止めてやれないから、彼女に一瞥もくれずに問題集に専心した。

 あれから勉強以外の会話はしなかった。というより、俺が勉強以外の会話を憚ったのだ。集中していると時間の流れが速く感じた。

 俺は勉強を切り上げて、神崎を駅のバス停まで送るために歩いた。いつの間にか外は薄暗くなっていた。

「雄一君」

 黙然と歩くことに耐えかねたのか、神崎が声を掛けてきた。

「焦らなくても、やりたいこと見つかるよ」

 その言葉に、最初は何を言っているのか分からなかったが、俺の呟きを思い出した。神崎なりの励ましてくれているのだろう。

「雄一君、サッカー好きじゃん? だからもう一度始めてみても良いと思う」

「サッカーはもう良いんだ。今は自分のやるべきことで手一杯だしな」

 俺が一蹴すると、神崎は黙ったまま目を伏せた。普段より元気がないその表情には何を思っているのか伺えない。

「市原君がね、中学時代の雄一君、凄いサッカー上手かったって言ってた」

 顔を上げて俺を見据えた。だが、俺は彼女の真摯な瞳に耐えられず、雑踏の中に逃げ場を探した。中学時代。神崎のような夢を持っていた時期が俺にもあった。彼女が抱いてるような大きな夢だった。

「あたし、雄一君がサッカーしてるとこ見てみたいよ」

 神崎の声は胸に刺さる。俺にとって痛い部分を的確に付いてきて、虚無な自分ばかりが露わになる。だが、今更サッカーを見たいと言ってくれる人がいても、もうあの頃に戻れない。

俺がサッカーを見せたい相手は、この世に一人だけなのだ。


「雄一君? もしかして雄一くんじゃない⁉︎」


 俺は言い淀んでいると、神崎ではない声を背中に浴びた。ハッとなって振り返ると、長い黒髪の女性が驚きながら立っていた。そして「やっぱり!」と声を上げた。

「洋さん······」と俺はその姿に息を呑んだ。

「久しぶり。元気にしてた?」と洋さんは嬉々として俺に歩み寄った。動きに艶のある髪が後ろに流れる。

「えぇ、それなりには」

「なら良かったけど、最近全然顔見せないから心配しちゃった」と洋さんは朗らかに言った。

 俺はその笑みに、やっぱり違うな、と俺は何気なく思った。

「その子は?」

 神崎に気づいたのか、洋さんは俺の後方を見た。やはり神崎との関係が気になるようだ。だが、俺はどう言葉に表せば良いか判然とせず、「えっと······」と言い淀んでしまう。

「あ、もしかしてそういう関係? ごめんね。お邪魔だったね」

「違います」

 俺は洋さんの勘違いを一蹴した。その声音は自分でも驚くほど冷然に響いた。

「コイツとはなんでもありません」

 張り詰めた俺の声に、洋さんは気圧されたように沈黙した。

 俺は目を伏せていると、コツコツと疎らな雑踏の音が鼓膜を打った。

「······雄一君、いつでも良いから、また家に遊びに来てね」と洋さんは神妙な空気を和らげるように言った。

「はい、時間があれば······」

「雄一君」

 だが、次に放った洋さんの声は険しかった。小さくも威圧感がある声音に、俺は衝動的に顔を上げた。そこには洋さんの真剣な双眸があった。

「好きな時においで。あの子も喜ぶから」

 そう言いながら、俺の肩に優しく触れた。社交辞令のような言い方だが、内心はその逆だ。必ず来いと目で訴えていた。

「じゃあ、またね」

 別れを告げた洋さんに、俺は小さく会釈をした。佇みながら彼女の足音が小さくなっていくまで待った。暫くして振り返ると、洋さんの黒髪は雑踏の中に消えていた。

「綺麗な人だね」と神崎は言った。「雄一君の先輩?」

「······そんなところだ」と俺は言った。「行こうぜ」

 俺は会話を切り捨てるように歩き出した。彼女が俺と洋さんに何を思ったかは分からない。だが、洋さんの話はしたくなかった。

 神崎だけではない。俺と彼女の過去は誰にも話すつもりはなかった。

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