第6話 好きになった理由。〜過去〜

 彼女はいつも俺より早く席に着いている。朝の練習がない日も一番乗りに教室に来ていて、黙然と読書に耽っていた。その佇まいは、遠目で眺める分には絵画でも見ている気分になる。だが、あまり凝視していると冷厳に咎められそうなので、一目見る程度に留めておく。木更津は人の視線に敏感なのだ。

 昨日の図書室では盛り上がった会話ができたが、今日も同じとは限らない。あれは高揚した状態であって普段の木更津ではないだろう。無慈悲、冷酷、高圧的、毒舌。それが俺の知る木更津玲奈という女だった。だが、俺は昨日の木更津が忘れならなくて、もう一度見てみたいと思ってしまった。

 自席に座りながら木更津の姿を流し見ると、彼女は昨日借りたガッツの大冒険に没頭していた。心成しか口元が微笑んでいるように見えた。楽しげに読んでいる様相に、本当にこの物語が好きなんだなぁ、と感慨深くなった。

 俺は小さく空咳を溢して、自身を落ち着かせる。相手は恐怖が先んじる木更津だ。話しかけるにしても相応の覚悟が必要だ。

「その本、俺も久々に読んだよ」

 声が緊張でくぐもりそうになったがなんとか出せた。木更津はピクリと反応して、即座に俺へ振り向いた。全く内側が読み解けない無表情がそこにあった。

「やっぱり、面白い話は何度読んでも面白いよな」

 俺は平静を装ってはいるが、内心は穏やかではなかった。手で胸元触らなくとも心拍の高鳴りを感じた。木更津の口から出る言葉に戦々恐々としている。俺から話しかけて愛想の良い顔をしたことは一度もないからだ。

「えぇ、本当にそう」

 木更津の下がった目尻を見て、俺は今まで経験したことがないほど安堵した。全身の力が抜けて、背もたれに寄り掛かりそうになる。

「私も何度読んだか分からない。キャラクターの台詞も覚えたし、先の展開も分かってる。だけど全然飽きないの」

「そんなに好きなんだ。まぁ、昨日あんなに熱く語られるくらいだしな」

「あのことは忘れて。私だって、何であんなに興奮しちゃったのか分からないんだから」

「なんで? 熱中できることがあるのは良いことじゃん」

 俺は昨日の木更津が想起して、不意に口元が緩まった。咄嗟に手で隠すが、彼女は剣呑に目を細めた。

「顔が笑ってる。絶対馬鹿にしてるでしょ」

「してねぇって」

 俺は笑いを含みながら言ってしまったので、木更津はフンと鼻息を上げて顔を背けた。柔らかな黒髪が首の動きに合わせて揺れる。その一本も跳ねていない整った髪質に、俺はドキリと鼓動が跳ねた。

「そんなことより、君は誰が好きなの?」

「え······?」

 木更津は突拍子がないかつ衝撃的なことを聞いてきた。聞いてきた理由と木更津らしからぬ言動に放心する。困惑を顔に出したまま固まってしまった。

「えっと、急になに······?」

「なにを阿保みたいな顔しているの。ガッツ大冒険でどの子が好きなのかって聞いてるの」

「あ、そういうことか······」

 俺は安堵から胸を撫で下ろした。紛らわしいにも程がある。俺でなくても勘違いする聞き方だ。木更津は意図していないようだから、ふしだらな気が全くない純粋な奴なんだろう。同時に自分の不純さが恥ずかしくなってきた。

「やっぱりドッコイかな。ああいうガタイが良くて男らしいキャラには惹かれる」

 言うと、木更津は「ドッコイかぁ」としみじみと呟いた。

「男子は好きそう」と木更津はフフッと微笑みながら言った。

「お前は?」

「私はボウ」

「ボウ? マジか」

 ボウとは怠け者で食いしん坊なキャラクターだった。それ故にふとましく、ドッコイのマッチョ体型とは正反対のネズミだ。

「なんでボウ?」

「なんでって、可愛いでしょ」

「可愛いか? チュータロウなら分かるけど」

「ボウみたいな丸くてフクフクな感じが好きなの」

「へぇ······」

 どうやら木更津は丸いものを可愛いと思うらしい。ぽっちゃり体型が好みなのだろうか。

「最後のボウは残念だったな······」と俺は話の展開を思い出して苦笑が浮かんだ。

「それは言わないで。悲しくなるでしょ」と木更津は鋭い眼光で咎めた。

 やはりボウ好きにとっては思うところがあるようだ。仲間の一人であるボウは、物語の終盤に敵役のイタチによって殺されてしまうのだ。

「でもテレビ版では生き残ったし、タラフクの代わりにガッツの相棒になってたから良いの」

「あぁ、そうだった」

 木更津の不貞腐れた表情を見て、俺の口からは自然と笑いが溢れていた。

「今はどこらへんを読んでるんだ?」

「ちょうどタタリが登場したところ」

「アイツか。怖かったなぁ。昔のトラウマだ」

「えぇ、私も怖くて夢に出たことがある」

 木更津がそう言い終わったと同時に、始業の予鈴がなった。普段よりも時間の流れが速く感じて、終わってしまった会話が名残惜くなった。もっと話したいと感じていた。

「鴨川君」

 そう言った木更津は柔らかく微笑んでいた。まるで両腕で優しく包容されたような気分になった。俺は言葉を失ったまま木更津を凝然と見つめる形となっている。担任が教室へ入って来ても、俺は彼女から目が離せなかった。

「また話をしてね」

 俺はその顔を一生忘れないと確信した。ふとした瞬間に脳に浮かんできて、上の空のように呆然となる。授業にも集中できなくて、教師に数学の問題を当てられても答えられず、しっかりしろ、と叱責を受けた。部活の時間もプレイに身が入っていないと顧問に注意された。

 俺の中に木更津が入り込んでしまっていた。

 この気持ちはきっと、そういうことなんだろう。

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