第5話 好きになった理由

 欠伸を溢しながら上履きを下駄箱から落とした。

 靴に入れる足は重かった。この怠さは肉体的な疲労ではなく精神的なものだ。俺は昨日の神崎との一件のせいで朝から物憂げだった。

 所在なげな両手が鬱陶しくなってポケットに入れる。教室までの道のりでクラスメイトの女子数人とすれ違って、「あ、雄一君だ」や「雄一君おはよう」と手を振ったので、俺は「おう」と返した。

俺はクラスの女子たちとの親交がそこそこある。神崎に限らずクラスメイトの女子たちは活発だ。向こうから声を掛けてくることは珍しくない。

 教室に入った途端、俺は席に向かわず立ち止まることになった。

俺の目に映ったのは、神崎朝日が俺の席に堂々と座っている光景だった。ただ座っているだけでは迷惑行動だが、神崎は後方の席に位置している成田と話し込んでいた。 親友と談笑するためという言い訳を持たせているところが憎らしい。起きた時から覚悟はしていたが、授業が始まる前から振り回されるとは。

「おい」

 俺は不躾に言った。

「あ、おはよう。雄一君」

 神崎は気に留めず、清々しい微笑みで返した。

「あぁ、おはよう。あと、そこ俺の席な」

「ごめーん。つい座っちゃった」

「何がついだ」

 誰がどう見ても悪びれてない謝罪だった。むしろふざけていますと迂遠に述べているようなもの。

「でもしょうがなくない? いつも萌香と話してんだから」

「なら他の席にしろ。俺以外の席はどうだって良い」

「うわ、ヒッドー」

 神崎は茶化した態度のままで、席を退く素振りを見せなかった。

 そして、俺は短い応酬の中で引っ掛かることがあった。

「ていうか、毎朝俺の席を陣取る気か?」

 いつも成田と話をしていると証言していた。そして、現在進行形で俺の気を引いている。神崎の悪びれない気振りといい、繋がった点と線が最悪の可能性に導いた。

「さぁ? どうでしょう」

 そして神崎の余裕な笑みである。俺は最低でも一ヶ月はこのやりとりを日課としなければならないと確信した。

「ねぇ、アンタらそんなに仲良かったっけ?」と隣から訝しげな声が聞こえてきた。

 言ったのは神崎の親友こと成田萌香だった。俺と神崎の応酬に肘を突きながら聞いていた。

「何かあったの?」

 成田は更に詰問してきた。神崎が余計な事を暴露しそうで冷や汗が出そうだ。何か言い逃れは出来ないかと脳を巡らすが、去来するのは文化祭と休日の出来事だった。

「ちょっと、色々と」と神崎は言った。

 そして「ね?」と俺に意味深な目配せをしてきた。

俺に振るなよ、と厄介に思いながら目を背けた。

「え、なになに? どういうわけ?」

「ナイショ」

 成田が興奮気味に瞳を輝かせ、神崎は悪戯に隠した。「ちょ、言えよー」と成田は神崎を揺さぶった。

 すると、ホームルーム開始の予鈴が二人を鎮めた。いつもは億劫になる予鈴だが、今日は救いの鐘の音に聞こえた。

 俺は「ほら」と神崎に席を空けるよう伝えた。つまらなそうに退く彼女を目で送る。

 ようやく席に着けると安堵すると、「ねぇ」と後ろから迫るような声を掛けられて、咄嗟に振り向いた。

「朝陽のこと頼んだよ」

 そう言った成田の表情は薄かったが、俺に向かう双眸には真剣さを内包させていた。

「ウチの親友を泣かせたら、マジで許さなから」

 澄ましているが、静かな圧力を掛けられていると悟った。

「泣かないだろ」

 俺は淡白に言いながら背を向けた。

 神崎が泣く姿など想像が付かない。失恋したにも関わらず、休日に誘って戦線布告をする鉄の心を持った女なのだから。

 それとも、親友である成田は、神崎が泣いた姿を見たことがあるのだろうか。どんな出来事に涙したのか興味が沸いた。

 後で聞いてみようかと思ったが、俺はやはり忘れるよう心掛けた。神崎に興味を持つなど有り得ないことだ。


 

 分かっていたが、一週間同じような応酬を繰り返すのは精神的に疲弊する。俺は毎 朝ぞんざいな扱いで神崎を追い払ったのだが、本人はめげなかった。

 俺は溜まったストレスを体育の時間で発散した。部活は辞めても体を動かすことは今でも好きだった。火照った体を冷ますため、体操着で胸を仰ぐ。良い汗をかいたのは久しぶりで、爽やかな気分で渡り廊下を歩いた。

「これで球技大会は楽勝だな」

 浩二は調子良く俺の背を叩いて言った。

「なんたって、こっちには元サッカー部がいるんだからな」

 文化祭が終わったばかりだというのに、もう新しい行事に切り替えていた。

「お前も少しは動けよ」

「オメェが一人で突っ走ったんだろ」

 浩二の言い分に、正太郎が「それな」と同調した。

「コイツだけガチのサッカーしてたわ」

 正太郎の指摘には反論の余地はなかった。

 俺は昔から感情をボールにぶつける悪癖がある。神崎のこと、玲奈のこと。呆然としていると二人に翻弄されそうになる。雑念を攘うためにプレイに一意専心となっていた。

「まるで現役時代みたいだったな」

 雅人は感慨深く言った。

「一人で三点も決めるような奴だったん?」

「あんな感じだった」

「マジか!」

 浩二は大仰に驚いた。

「雄一は何でサッカー辞めたんだよ」

 聞かれるだろうと予感はあったが、あまり人に言える事情ではなかった。俺の事を深く話したところで、場の雰囲気が悪くなるだけだと分かる。

「······気分的に」

 だから曖昧に濁しておく。今となってはサッカーを辞めたことに未練はない。続けたとしてもプロになれるほど上達しないと悟ったからだ。高校ではサッカーはしないと決めたとき、俺の心中には葛藤も懊悩なく、飽きた玩具を放り投げるように無情だった。

 それ以来、俺は無味乾燥な日々を過ごしている。直向きに打ち込む趣味もなく、学校と家を往復しているだけ。必要なことだけをやり、不要ならやらない。目標を作らず、失敗しない程度には考えて行動する。そんな空虚な生活が馴染んでいった。

「雄一くーん」

 背後から呼ばれた大声に、俺の背筋に悪寒が走った。忘れられない声に戦々恐々と振り向くと、やはり神崎が大きく手を振っていた。隣には成田もいて、肩を組みながらこちらに向かって来ていた。

「······なんか用か?」

 きっと大した用事なんてないだろうが、俺は一応の体裁として言った。

 眼前まで来た神崎も汗をかいていた。首筋に滴が流れていて、顔も熱っていて赤い。直接見ていなくても、体育時の精彩な姿が如実に感じられた。運動後の爽やかな様相は神崎によく似合っていた。今日みたいな快晴が似合っているな、と漠然と思った。

「今日のサッカー見ててさ、なんか凄かったね」

「見てたのか」

「うん。女子の間で盛り上がってたよ」

 そう言われても俺は微妙な反応しか示せなかった。言葉に詰まり、「······そうか」と咄嗟に頭を掻いた。

「お、なんだコイツ、照れてるやん」と正太郎が俺を小突きながら茶化してきた。

「照れてねぇよ。どんな目してんだ」と俺は即座に反論した。

 断じて照れなどではない。反応が淀んだのは、女子に好印象を持たれたら困るからだ。神崎と同じ轍は踏みたくない。

「ていうか、女子の体育は何だっけ?」

 雅人が話題を変えてくれた。丁度良いので浩二に話させておこう。

「ウチらはバドミントン。球技大会と同じ」と成田が言った。

「勝った?」

「全勝」

 成田は白い歯を見せて言った。二人はピースサインをした手を伸ばした。

俺以外の男共が声を弾ませ、「マジかよ、スゲェ」や「流石ビーチバレーコンビ」「球技大会も勝ち確定だな」と称賛の声が上がった。

「男子もサッカーは勝てそうじゃん? 雄一君いるし」

 安堵していた束の間、神崎が俺の名を上げた。周囲の視線が一様に集まる。

「分かんねぇよそんなの。もう部活自体辞めたし。本試合は浩二に任せる」

「あ、コイツ俺になすりつけやがった」

「お前は現役だろ。頑張れよ」

「ところでさ、浩二のプレイはどうだったん?」

 正太郎が親指を指しながら神崎に言った。コイツはマックでの会話を覚えていたのだろう。神崎の浩二に向いた好意がどれほどか遠回しに確かめようとしている。だが、俺には神崎が浩二の期待に答えられないと知っているため、口元が苦く歪んだ。

「うーん、まぁ、良かったんじゃない?」

 神崎のおざなりさが浩二に関心がないということを証明してしまった。僅かな応酬でも失恋の要素が交じっている。ノリが軽いとは言え、公開告白でフラれるのは見ていて気まづい。

「だってさ。ドンマイ」

 正太郎が浩二の肩に手を置いて言った。

「てめぇ、わざとだろ!」

 浩二は正太郎に勢いよく腕を首に回した。強く締め付けて、正太郎を「ギブギブ!」と悶えさせている。

「ちがう、ちがう! そんなつもりじゃないから」

 神崎はそんな二人を見て、面白そうに宥めてた。浩二と正太郎の主張が強いおかげで、俺は存在感を希薄に出来そうだ。俺は蚊帳の外で良い。

「バカやってないで教室戻ろうぜ。着替える時間なくなるぞ」と雅人が言った。

こんな時は誰かが雰囲気を変えなくてはならない。流れを察してか、神崎が「次は数IIじゃん」と言い、「うわ、ダルー」と成田が落胆の声を上げ、二人は更衣室へ向かった。

「凄いんだぜ、俺の彼女」

 雅人は俺に自慢げに言った。

「前の大会で表彰されたんだよ」

「大会って、バレーの?」

「そ。ビーチバレー」

「てことは、神崎もか」

「そうそう。他校の上級生も倒したらしい」

「知らなかった」と俺は意外に思って言った。「神崎が······」

 俺は並んだ二人の背中を見た。肩を組んだ姿は、本当に足を結んで二人三脚をしているように見えた。

「凄いな······」

 俺は不意に呟いた。

 そして、俺は大会の二文字を無言で口ずさんだ。随分懐かしい響きだった。



 全ての授業が終えて、クラスメイトらが一様に教室を後にしていった。放課後は部活で慌ただしくなるが、引退している俺は緩慢に廊下を歩いた。大人しく家に帰って試験勉強をすることが俺のすべき事だ。

 勉強には精を出しているが、好きで励んでいるわけではない。東大合格みたいな高尚な目標もない。怠ったところで責める者は親くらいだし、赤点を取らないくらいの励みでも良い。

 具体的な夢を持っていないから、何のために勉強をしているのかは俺にも分からない。ただ最低限の勉強をしなくてはならないという、脅迫じみた使命感だけが俺を突き動かしていた。

 まるでロボットみたいだな、と自嘲的に思っていると、後方からパタパタと音が聞こえた。誰かが廊下を小走りしている。きっと部活に遅れそうな奴だろう。軽快な足音が徐々に大きくなっていった。

「オッス! 一緒に帰らない?」

 突如として背中を叩かれた。振り向きたくはなかったが、無視が通用しそうな相手でもないので、俺は渋々と振り向いた。そこには、やはり神崎の人の気も知れない万遍の笑みだった。

「いきなり叩くな。しかも普通に痛ぇし」

「あ、ごめん。アタックする感覚で叩いちゃったかも」

「俺はボールか」

 俺は始業から就業まで気の休まる時がないのか、と辟易しながら思った。それと同時に、一つの疑問が過った。

「てか、お前部活は?」

 試験期間でもない限り、部活がない事など滅多にない。大会が近ければ尚更だ。まさかコイツ、サボったのか?と懐疑的に見ると、神崎は悠然と口を吊り上げた。

「なんと! 今日は女バレだけ休みなのです!」

 ピースサインを毅然と伸ばした。

「そんなことってあるのか?」

「現に今起きてるじゃん」

 その自信から説得力を感じた。神崎という奴は簡単に嘘を付くようにも見えないし、バレー部での実績も充分にある。サボるような奴でレギュラーに選ばれる訳がない。まだ関わって間もないが、彼女は部活には絶対に手を抜かないという信頼を持っていた。

「なら成田と帰れよ。ついでにどっかで遊んでけ」

「萌香は親戚の家に用事だって」

 なぜ今日は不都合なことばかり起こるのか。俺は嘆息して、諦観の構えに切り替えた。

「言っとくけど、俺は遊びには行けないからな」

「えー、どっか行こうよー」

 神崎は幼い子供然と駄々をこねた。

「そんな暇ないだろ。試験まで一ヶ月くらいだぞ」

「試験勉強してんの? 真面目か」

「大抵の奴はもう始めてるだろ······」

 俺は話すのが面倒になって、神崎を尻目に歩き出した。来たければ勝手に来いという合図を背中で見せた。勉強前だ。問答で無駄に体力を浪費したくない。

 昇降口を出たとき、涼しげな微風が吹いた。今のような夏でも冬でもない時期は心が安らいだ。冬は俺が最も嫌いな季節だ。マフラーや手袋が必要になる頃、もうこんな時期か、と憂鬱になるのだ。

「ねぇねぇ」

 唐突に制服の袖を引っ張られた。俺は黙っていたため、神崎の方が我慢の限界がきたのだ。彼女は沈黙が耐えられない性格なんだろう。

「球技大会の日さ、あたしらのトコ応援に来てね」

「行けたら行く」

「それ行かないやつじゃん! ダメ絶対来て」

「······横暴過ぎる」

 嘆息交じりに言った。観客を無理やり応援に行かせることは応援とは言わない。サクラに近い気がした。

「あたしも応援に行くから。応援団集めて大きい声で雄一君の名前叫んであげる。校庭の中心で愛を叫ぶ」

「それだけはマジでやめろ」

「来なければするよ?」

「······分かった。行くよ」と俺は渋々と言った。

「よろしい」

 こうして、またも俺は敗北を期して口車に乗ってしまった。勝利を知りたい。

「雄一君にあたしらの活躍を見せてほしいし、雄一君たちにも頑張ってほしいわけよ。分かんないかなぁ、あたしの愛が」

 俺は「あのさ、」と前々から気になっていたことを耐えられずに尋ねることにした。

「お前、俺のどこが良いんだ?」

 その言葉に、神崎の緩んでいた表情が硬くなった。驚きからか、見開いた瞳でまじまじと見詰めてきた。

「俺って性格暗いし、特に取り柄もない。そんな俺のことを好きになる気持ちなんて分かんねぇよ」

 悲観的言い方だが、裏腹に俺は今の自分が案外気に入ってもいた。今の生活を渇望したからそうなるように立ち回った。こんな自分に好意を抱くような奴は神崎くらいだ。異性に好かれなくとも、男友達連中と楽しく過ごしていれば満足だった。

「雄一君って女子人気高いの知らないの?」

「は······?」

 俺は驚愕の発言に言葉を失った。立ち止まって放心し、神崎を凝然と見据えた。

「雄一君と雅人君と正太郎君と浩二君。その4人ってクラスでも目立ってるし、面白いし、運動も出来るからかっこよく見えるんだよね」

「そうか······?」

 全く釈然としなかった。確かにアイツらはよく騒ぐから地味とは言えない。友好関係も色んな奴と築いているから狭くない。だが、本当に馬鹿みたいな話しかしていないから悪目立ちしていると思っていた。そんな俺たちがクラスで好印象を抱かれていたなんて。

「でもあの三人はなんか馬鹿っぽい感じじゃん? でも雄一君は大人っぽくてクールだし、顔だって悪くないし、それに彼女もいない。案外狙ってる子は多いんだよね」

 大人っぽくてクール。その言葉を舌の上で転がした。反芻するほど苦笑を禁じ得ない。人を見る目がないにも程がある。大人しく見えるのは単に根暗だからだ。目立ってると言ったが、それは雅人たちのおかげだ。アイツらいなかったら、俺は空気と同じで誰の目にも留まらないだろう。

「やっぱり付き合うなら、目立っててかっこいい人が良いよね」

「お前なぁ······、目立ってるとか、顔とか、そういう表面的な見方で人を判断するもんじゃないぞ」

 神崎がそのような理由で好意を抱いたのなら、気持ちに応えたとしても長続きはしないだろう。軽はずみな行動の結末は、殆どが後悔だ。雅人と成田の付き合った理由が同様なら、行き着いた結末も同じになる。

「雄一君ってピュアなんだね」と神崎はクスッと微笑みながら言った。「最初に人を好きになる理由なんてそんなもんだよ」

神崎はさも当然と豪語するように言った。

俺は反論ができなかった。それはきっと、彼女の意見に納得してしまったからだ。

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