第4話 図書室の記憶

 図書室から眺める景色が好きだ。

 橙色で閑散とした風景には乙な気分になり、休日の学校に一人で訪れたような特別感があった。

 目を凝らして奥の校庭を見やると、豆粒のような点が右往左往に動き回っていた。あれはサッカー部だ。普段なら俺もあの豆粒の一つとしてボールを追いかけているから分かる。今日がそうでないのは、図書委員の仕事が重なっているからだ。

 本音を言うなら、今からでも図書委員の仕事を抜けて練習がしたかった。レギュラー決めや大会も控えているなか、一度たりとも練習は疎かにしたくないのだ。俺は同学年では上手い方だと自負しているし、順当にいけばレギュラー入りが叶うだろう。  だが、たった一日のその小さな差でライバルたちに先を越され、レギュラー入りを逃してしまうと思うと焦燥が募る。まだ中学二年だから、もう一年チャンスがあるとしても、大会に出場できる機会は逃したくなかった。夢に近づくためにも一度でも多く大会に出場して、経験値を積みたい。

 俺はJリーガーになることが幼い頃からの夢だった。小学校の入学前から卒業までスクールに通い続け、多くのジュニア大会に参加してきた。中学卒業後も強豪校に入学し、そこでも大会に出場できるほどの技量を身につけ、いずれはプロチームと契約を結べるまでになりたい。

 夢以前に、俺は純粋にサッカーが好きだ。だから一日でもボールを蹴れないのは心底つまらない。不意に、はぁ······、と夕陽に似合わない落胆が溢れた。

「ちょっと」と後ろから締まった声が聞こえた。「暇なら手伝って」

俺は悪寒で背筋が震え、戦々恐々と振り向くと、やはり木更津玲奈が凝然と睨んでいた。

 何も怒り口調で言うことないだろ、や、もう少し優しく言え、と文句を言ってやりたいが、俺は不満を嚥下した。反論しようなら倍にして返されそうな気がするし、実際に口論で馬鹿みたいな思いをしたばかりだからだ。触らぬ神に祟りなしとはこのことだ。

「はいはい」

 俺は面倒臭さを明からさまにし、木更津から逃げるように持ち場に移動した。これは自分なりの反骨精神だ。従ってはやるが屈したりはしない。

 俺の反応をどう思ったのか、通りすがりに更に深く睨んできた。その氷点下になりそうな冷たい視線はどう訓練したら会得できるのか知りたい。

 返却された図書の戻すため、二人で室内中の本棚を巡った。昼頃の諍いで互い顔を見ることも憚られるほど、俺たちの間には殺伐とした空気が流れていた。先ほどの会話が今日の委員会仕事が始まって初の会話で、もう口を開くことはないだろう。仕事を始めて一時間経っても無言なのだから。

 女子と二人きりなのに気分が高まらず、むしろ陰鬱となるなんて信じ難い現象だ。しかも相手はすれ違えば二度見してしまうほどの美少女だ。こんなにも珍妙な出来事はあるだろうか。

 木更津を一瞥すると、俺との諍いを気に留めていないようで、淡々と業務をこなしていた。品行方正、成績優秀絵に描いたような優等生なため、冷徹な性格でも文句が言えない。

 だが、俺は面白みのない優等生より、一緒にいて楽しい馬鹿野郎の方が好きだった。事実としてクラスのムードメーカーは阿保で俺より成績が振るわないが、嫌っている者は一人もいない。

 コイツにも愛想さえあればなぁ、と惜しく思って木更津を見ると、彼女は本棚に戻す手を止め、ページをぺラペラと捲っていた。日焼けのない澄んだ肌と対照的な黒髪は、いつ見ても文学少女姿が様になっていて、思わず見惚れてしまいそうになる。

だがこの女、仕事を放棄して立ち読みに耽っている。これは委員として注意が必要だ。

「おい、何サボってんだよ」と俺は言った。

 すると、木更津はハッなりながら俺を見て、慌てて本を戻した。

「ほら、これ」と俺は本を手渡した。

「······」

 木更津は呆気に取られたようで、本を持たずに静止した。その面持ちは彼女には似合わない阿保さがあって面白かった。

「立ち読みするくらい暇ならこれも戻せよ」

 俺は意地悪な笑みを浮かべながら言った。

 木更津は何も発しなかったが、不機嫌さを顕にして、本を勢いよく掴んだ。彼女が背伸びをしながら戻した時を見計らって、置いていくように移動した。

「ねぇ」

 すると、またも背中に咎める口調で呼びかけてきた。語気の強い声を無視するのは難しい。振り向くと、木更津は腕を組みながら睨んでいた。

「さっきのなに? 当て付け?」

「サボってるから注意しただけだろ。他になにがあんだよ」

 俺は思ったことをそのまま返すと、木更津は「ふぅん」と見透かしたような言い方をした。

「私が言ったことをそのまま返したわけ。意外と根に持つんだ」

 木更津は俺が先ほどしたような嫌味な表情を見せてきた。そんな神経を煽る顔されると、俺の脳は言い返したいという憤慨で満たされた。

「お前だって根に持ってんだろ」

「私の場合すぐに言ったけど、君は時間も経ってたでしょう? それに、昼のことも気にしてるみたいだし」

「あぁ、気にするよ。ムカツク奴が近くにいるんだからな」

「終始むかついてたんだ。気も休まらずにイライラしてわけ」

「お前の方がキレてんだろ」

「今はね。でも、昼間のことなんて気にする訳ないでしょ。私は君に怒っていないし、というより興味がない」

 どうだって良いの。と冷然に言い放った。その人の情を最初から持っていないんじゃないかと思う言い草に、俺は唖然と言葉を失った。

「私をどう思うかは勝手だけど、不機嫌を私で解消しようとするのはやめて。迷惑だから」

「······はいはい」

俺は反論をする気力も失せた。会話を強引に切り上げて、返却図書の積まれたカートを押した。心底嫌気がさして、もうコイツには絶対に話しかけないと決めた。話すだけで癇に障る奴など無視すれば良い。むしろその方が円滑な関係だろう。

 この女を彼女に貰ってくれるような奴はもう勇者だ。それかどんな刺だらけの人間でも優しく包容できる聖人。俺はどちらでもないので、木更津が彼女だなんてもっぱら御免だ。

 無駄な時間を費やしたと思って、俺は仕事のことしか考えないよう努めた。木更津の顔を一瞬でも浮かべるだけで気分が損ねる。彼女の顔を決して見ないよう淡々と仕事に徹する。それでも収まらないなら、明日の朝練でボールにぶつける。

 全ての本を返し終わり、俺はカウンター席へ向かった。こんな時間に本を図書室を訪れる生徒なんて見たことないが、これも責務なので仕方がない。

「鴨川君」

 凛とした声に呼ばれて、俺は背筋が疼いた。また叱責するのなら今度は無視してやる、と確固たる決意のもと、俺は首を少し傾けた。だが、木更津の顔は頑として見ないようにした。

「私はこの後外せない用事があるから、残りの時間はお願いしたいの」

 俺は、帰えんの?と聞こうとしたが、咄嗟に口を噤んだ。木更津には質問に相応しい返事で返すという気概はなく、どうせ余計な毒を吐くに決まっているからだ。それに、木更津が帰ってくれるのなら願ってもない話だ。残りは安寧の時間を過ごせる。

「お達者で」

 俺は淡白さを装って、木更津から逃れようとカウンター席に着いた。残りの時間は暇潰しに漫画でも読んでいるとしよう。この中学の図書室には気が利くことに漫画が置いてある。貸出しは禁止だが、図書室で読むには問題がない。

 だが、3ページも読めずに軽快な足音が近づいてきた。ということは、誰かが図書室に来て本を借りるか返却するかだろう。こんな時間に来る生徒がいたとは意外だ。差し出されたバーコードを前に、一体誰だと確かめると、そこには木更津が木訥に立っていた。

「これ、借ります」と木更津は平然な面持ちで言った。

 俺は、まだ帰ってなかったのか、と思いながら、スキャナーをバーコードに当てた。ピッと機械音がなったと同時にパソコンの画面に本の題名が表示された。俺にはその題名に見覚えがあって、表紙へと目を移した。

「ガッツか······。懐かしいな」と俺は感慨から呟いていた。

『ガッツの大冒険 〜12匹の仲間たち〜』。それは俺が小学生の頃に読んだことのある児童文学だった。

「え······?」と木更津の不審な声が聞こえてきた。

 俺の独り言が聞こえたのだろうが、気にせずに本をぞんざいに渡した。

だが、いつまで経っても本が手元から離れなくて、俺は訝しく顔を上げた。そこには驚愕に目を見開いた木更津がいた。

「えっと······なに?」と俺は怪訝に尋ねた。

 すると、木更津は我に返って、空咳を交えながら本を取った。だが、両手で持ったままで立ち去る素振りを見せなかった。

「この本、知ってるの?」

 そう尋ねた木更津の双眸は、感嘆に輝いているように見えた。俺がこの本を読んだことに何でそこまで驚くのか。俺は動揺から変な汗をかきそうになった。

「あ、あぁ······。昔読んでたよ」

 簡潔に答えると、木更津は「そうだったの······」とまだ瞳を爛々とさせていた。見慣れない表情に耐えきれず、俺は咄嗟に表紙へと目を背けた。

 カモメに乗っているネズミのガッツ。その絵を見ていると、かつての記憶が蘇ってくる。文面を追いながら、ネズミが見ている情景を想像することを楽しんでいた。人ではなくネズミが強大で凶暴な動物に立ち向かっていく物語を当時は面白く思っていた。

「そんなに好きだったの?」

「繰り返し読むくらいにはハマってたな」

 小学校低学年くらいの頃は児童文学を読み漁っていた。その中でもガッツの大冒険は特に俺のお気に入りだった。

「私も······」

 ぽつりと呟いた声が聞こえた。

「私もガッツ、すごい好きなの」

 木更津は本を両手で抱えながら、弾んだ口調で言った。こんなにも大きく上下した木更津の唇は初めて見た。

「まさか、こんな所に分かってくれる人がいたなんて」

「いや、分かるも何も、結構有名な話だろ。アニメ化もしてるし」

「でもテレビ版も古いから、同年代で知ってる人がいなかったの」

 確かに俺の周りでもガッツを知っている者はいなかった。同年代で知っている者に会うのは木更津同様に初めてのことだった。

「まぁ、再放送もやらないしな。俺は母さんにアニメを見せてもらってなかったら、多分本の方も手に取ってないし」

「えぇ、アニメの方も凄く良い。原作ではリアルなタッチで姿が描かれていたけど、アニメでは子供向け用にキャラクターチックで親しみ易いデザインになってる。それぞれの性格の特徴にデザインで相対的に魅力も上がっているし覚えやすい。何より原作では12匹だったところを7匹してるけど、描かれなかった5匹分の特徴を他のキャラクターに受け継がせ得ることによって原作の面影を残しているのが良い。話も原作通りの過酷な流れを踏襲しつつオリジナルストーリーのコミカルな話を挟むことで飽きさせない工夫を凝らしているし、何より笑いと可愛さも存分に出ていて面白い。でも本筋のタタリとの戦いは子供向けとは思えないほどホラーテイストで戦闘描写も過激。コミカル調の中でも自然の過酷さを上手い具合に混ぜてあるからハラハラドキドキも十分。やっぱり語り継がれる作品なだけあって全てが入っていると言っても過言じゃない。劇場版のガッツとカワウソの大冒険も······」

 木更津は途中で話をやめた。

「なに?」と怪訝な眼差しで俺を見た。

 そのはずだ。俺は今、口を愕然と半開きになって固まっているのだから。あの冷静で寡黙な木更津が、こんなにも興奮して饒舌に語っている。俺がこれまで培ってきた彼女の印象がボロボロと崩壊していった。

「いや、めっちゃ喋るなと思って······」と俺は言った。

 木更津は自分でも気が付いたのか、ハッとなった後、徐々に顔が紅潮していった。視線を伏せながら、目から下を本で隠している。

「······ごめんなさい、つい······」

「いやまぁ、別に良いけどさ」

 困惑から言葉が出ない俺。

 恥ずかしさで言葉が出ない木更津。

 当然ながら気まずい沈黙が間を包んだ。いつもは心地よい閑静さを持つ図書室が、今はむしろ息苦しい。

「それより、用事は良いのか?」と俺は言った。

「そうだった。ありがとう、伝えてくれて」

 そう一息で言った後、早足で図書室から去って行った。俺はサラサラと流れる木更津の後ろ髪を呆然と眺めた。冷徹に罵ったり、興奮して饒舌になったり、羞恥で言葉を失くしたり、その感情の起伏についていけず、ずっと放心状態だった。

 けれど、そんな木更津の変化を思い返していると、俺はフフッと吹き出していた。

 なんだ、面白いとこあるじゃん、と思った。

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