第10話 彼女の秘密
バスの車窓から田んぼや畑の風景が流れていった。
俺は長閑だが退屈な景色を朧げに眺めていると、奥に見えた建物に「あ、」と声が洩れた。
アナウンスが『医療センター前』と繰り返し流れたので、俺は降車ボタンを押した。
降りて真正面に佇む大型病院に、俺は思わず息を呑んだ。大きな病気や怪我はしたことがないから、重症患者が多くいそうな病院は初めてだった。先生が言っていた入院や病気という単語が脳裏に過ぎって胸がざわついた。
自動ドアを過ぎると、息を潜めたような静けさに緊張が走った。ナースステーションに向かう足取りは硬かくて、実際に看護師に尋ねた時は声が詰まりそうになる。だが、看護師の親切な対応に安心し、落ち着きを取り戻して病室へと向かった。白い廊下ですれ違う若い看護師と高齢の患者。ドラマでしか見たことのない光景を実際に体験しているような気分にな離、院長回診のワンシーンが目に浮かんだ。
指定された304号室に着くと、俺はネームプレートを見た。そこに記載された名前は一つしかなかった。俺はふぅと嘆息して気分を整える。とにかく明るく接しようと自分に言い聞かせながらスライドドアを開けた。
ドアの音と共に玲奈は顔を上げた。そして驚愕の顔をする。入院と聞いたからどんな状態なのか不安だったが、ベッドにいる以外は普段と変わらなかった。
「よお」
俺は手を上げながら言った。だが、その先の言葉が浮かばない。元気か?も大丈夫か?も相応しくない気がした。
「······どうして分かったの?」
玲奈の反応は予想通りだった。クラスメイトはおろか俺にまで秘密にしていたのだ。事情を知る筈がない相手が突然現れたなら、澄まし顔ではいられない。
「先生にしつこく問い詰めたんだよ。アイツ隠すの下手だから」と俺は言った。
先生は体調不良としか述べなかったが、一週間も休みでは普通でないと分かる。
「······言わないでって忠告したのに······」と玲奈は俺から目を逸らしながら呟いた。
「玲奈」
俺は不貞腐れた玲奈を尻目に呼び掛けた。彼女はおもむろに向く。その表情は何かを恐れているような剣呑さを感じた。今の状況を問われることを恐れているのだろう。俺にも音沙汰がなかったり、先生にも事情を話さぬよう頼んでいたり、今の玲奈は多く秘密を抱えている。
だが、俺は彼女に辛そうな顔をしてほしくないし、此処を訪れた一番の理由は別にあった。
「試合は勝ったよ」
玲奈の事情を知りたいと思う以上にこの言葉を伝えたかった。まさか試合が終わった一週間後に告げることになるとは。
「えぇ、知ってる」
玲奈は拍子抜けな顔をしたが、すぐに目尻を下げた。
「知ってるって、見てないだろ」
「家族がビデオで撮ってくれたの」
「なんだ、そういうことか」
「だけど、人が小さくて誰が誰かは判別できなくて、君の活躍が分からなかったのが残念」
「俺は8番のユニフォームだよ」と俺は言った。「まぁ、活躍は先輩たちが持っていったんだけどな······」
「試合に出れただけでも凄いことじゃない?」
「そうはいかない。レギュラーに選ばれただけで満足してちゃ成長できないからな」
「そうだけど、でもあまり無理はしないでね。チームワークなんだから、一人で突っ走り過ぎると逆に輪を乱しかねない」
玲奈の冷静な指摘に、俺は笑いながら「それもそうだな」と言った。頑張ってとも応援してるとも言わないのは彼女らしかった。
俺は改めて玲奈を見た。入院用の羽織り物と腕に繋がった点滴。会えたことは嬉しくても、意識してしまうと不安になってくる。
「あのさ、玲奈の病気って······」
何なんだ?と言おうとしたとき、後方からガラリと勢いよく扉が開かれる音がした。俺は思わず振り向くと、視線の先にはスラリとした体軀に長い黒髪が靡いていた。俺はその姿に驚愕して、玲奈の方に目を向け、もう一度後ろを振り返った。玲奈が二人いると思ったのだ。
「玲奈。来たよー」
その人は砕けた口調で言いながら手を振った。そして俺に気付いて不思議そうな顔をした。
「この子は? お友達?」
「······何でも良いでしょう」と玲奈は俯きながら言った。
その恥ずかしそうな様子に、彼女が何を思っているのか分かった。
俺たちは友達ではない。だが、それをハッキリと述べてしまうのは俺も恥ずかしく思う。
「ちょっとなに? その神妙な顔は」
玲奈に瓜二つな人は戸惑っていたが、俺たちは何も言えなかった。玲奈は空咳を溢した。
「その人は私の姉」と玲奈は言った。
俺は薄々気付いていたが、直接聞くと納得できる。表情や口調は明るいが、雰囲気は大人びた玲奈だ。玲奈も成長すればこのような容姿なるのだろうか。
「木更津洋です。妹がお世話になります」と玲奈のお姉さんは言った。
「······どうも」と俺は小さく会釈した。「じゃあ、俺はもう帰るよ。邪魔しちゃ悪いし。大事にな」
俺がいては姉妹水入らずの会話はできないだろうと思った。あまり話せなかったが、元気そうな顔を見れただけ良しとしよう。
だが、離れようとした刹那、俺の腕が掴まれた。見ると、玲奈が無表情に首を振っていた。
「遠慮しないで。玲奈の友達なら大歓迎だから」
洋さんは言うと、二人分のパイプ椅子を用意してくれた。手で座るよう促され、俺は遠慮がちに座った。
「この人は鴨川雄一君。サッカー部に所属していて、同じクラスで図書委員」と玲奈は淡々と俺の紹介をしてくれた。
「サッカー部って······そういうこと!」
洋さんは得心をついた声を上げながら手を叩いた。俺と玲奈を交互に見る。
「玲奈が急にサッカー観戦をしたいなんて言うから驚いたけど、鴨川君の応援だったわけね。サッカーなんて興味なかったから変だと思った」
「え?」
俺は洋さんの発言に違和感を抱いた。玲奈は以前、サッカーに興味があると言っていたから食い違いがある。興味があるから玲奈はサッカー部を観に来ていたはずだ。
「お前、この前サッカーに少し興味あるって······」
「姉さん、余計なこと言わないで」
俺が言い切る前に玲奈は遮り、洋さんに語気を強めて言った。
「まぁともかく、次の試合頑張ってね。今度はしっかり撮るから」
「はい、ありがとうございます」と俺は礼を述べた。
だが、洋さんが試合を撮る機会は訪れてほしくないと思った。今度こそ玲奈に試合を観に来てほしい。そう思って、俺は速く病状が回復することを心中で祈った。退院が長引いたとしても、回復するまで勝ち抜いてみせるとも心に誓った。
入院の事情は定かでないが、軽い病気だと思いたい。命に関わるような病でないでほしい。
二時間以上三人で話し続けた。俺が玲奈は学校では主に本を読んで過ごしていると言うと、洋さんは、「そこは家でも同じ」と楽しそうに言った。大人しい性格ではあるが、家ではよく笑うらしい。そこは姉妹同士の軽口を見ていて分かった。どうして学校での玲奈が人との関わりを稀有にしているのか不思議なくらいよく喋っていた。
洋さんは玲奈とは正反対に明朗で会話上手な人だった。僅かな会話でも懐に入られたような気がして、玲奈と同様に一緒にいて楽しく感じた。
玲奈と別れるとき、洋さんと一緒に病室から出た。俺に付いて来るように「私も帰るね」と言った。
白い廊下を黙然と並んで歩いていると、「ねぇ、鴨川君」と洋さんが尋ねてきた。
「玲奈とはどんな風に知り合ったの?」
「席が隣になったときに話をしたんです。同じ図書委員会にもなって、その後にガッツの大冒険で盛り上がって、そこから話す頻度も増えました」
「あぁ、ガッツ! あの子らしい。鴨川君も好きだったんだ」と洋さんは手を合わせながら嬉々と声を上げた。
爛々とした瞳を見て俺は、似ているけど違うな、と思った。玲奈も笑う子だが、洋さんのような無邪気さはない。俺が好きになった控えめで柔和な微笑は洋さんにはなかった。
「玲奈に友達がいるなんて知らなかったから驚いたけど、なるほど、共通の趣味を持った人だと心を開くんだね。本当に人と関わりたがらないでしょ? あの子」
「はい、俺も最初は拒絶されて酷い言われようでした」
「玲奈らしい」と洋さんはクスッと笑いながら言った。「ごめんね、妹が失礼なこと言って」
「いえ、もう気にしてません」
「でも、本当は優しい子なんだよ? 不器用なだけで玲奈なりの気遣いがあるの。持病さえなければ友達もたくさん作れたのに」
その言葉に、俺は唖然と立ち尽くした。これまでの会話が全て吹き飛んで、脳内が持病一色に染まっていった。彼女の声脳を反響している。
洋さんはそんな俺を訝しげに見た。
「······持病って、ずっと前から持っていたんですか?」
先生からは病気を患って入院したという話を聞いてた。持病とは述べなかったので、俺は突然のことだと思っていた。
「あの子から何も聞いていないの?」
洋さんが驚きながら聞いたので、俺は頷いた。
「そうだったの······」
洋さんは失言を悔やむように顔に手を当てた。俺は普通でない気配を感じて息を呑んだ。
「あの、玲奈の病気って何なんですか? その病気は治るんですか?」
俺は食い付くように尋ねたが、洋さんは無言で俯くだけだった。その姿に、何故黙っているんだ、と怒りが湧きそうになる。玲奈は大丈夫だと、いずれは病気が治って元気になると言ってほしかった。僅かな間で怒りが恐怖に変わっていく。口を噤んだ洋さんに、俺は我慢ができなくなった。
「俺たちはもうただの友達じゃありません。玲奈と俺は付き合ってるんです。玲奈に何かあるのなら教えてください」
直截に言うと、洋さんは頭を上げた。そして、その表情は蒼然となっていた。微かに動いた唇から「うそ······」と溢れたように見えた。
「付き合ってる······?」と洋さんは言った。
俺は洋さんの双眸を見据えながら頷いた。
「そうだったの······」
虚言でないと分かった彼女は口に手を当てた。明らかな動揺を見せながら目を床に伏せる。
「だったら、鴨川君には伝えなくてはいけないことがあるの」
幾許か黙ってから、洋さんは俺に真摯な目を向けた。それは覚悟が決まったような眼差しだった。その言葉に俺も覚悟を決めて頷く。軽い病気でないことは望めそうになかった。
「玲奈は心臓に疾患があるの」
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