第2話 今日も過去を想う
教室は普段から騒がしい。
だが、今日の喧騒は馬鹿騒ぎといった雰囲気でなくて、そわそわと落ち着きがない空気が充満していた。担任への軽口やお調子者の弾んだ声もなく、クラス中の緊迫した視線が黒板に集まっていた。そこには均等に並んだマス目に一つずつ番号が記載されていた。
ルーム長の田端が教室の最前席へと向かうと、視線は黒板から席の主こと小宮へ移り変わった。田端が紙切れの詰まったビニール袋を差し出すと、小宮は手を入れて紙切れを混ぜた。強く念じるように引かれた手には一枚の紙切れが摘まれていた。彼は 堪らずに紙へと視線を落とす。
「また前かよー!」
その嘆きが叫ばれた途端、教室にドッと笑い声が満ちた。どうやら小宮はハズレくじを引いたらしい。
誰もが美味しい思いをしないのが席替えという儀式だ。大半の者が前席は嫌がるし、嫌いな奴と傍になったらどうしよう、と不安が募る。それでも担任の口から席替えと出れば喝采が上がる。クラス中の期待と不安が交錯した教室には独特な緊張感が揺蕩っていた。
俺も座りたい席に思いを寄せ、同じ班になりたくない奴の顔を脳裏に浮べた。クジを持ったルーム長が近づくに連れて心拍数が上がっていった。
順調に席が埋まっていき、遂に俺の元へクジが回った。黒板に描かれた枠を見ると、まだ希望の席は奪われていなかった。後は自身の幸運に賭けるだけだ。はやる気持ちを抑えながら紙切れを取り、書かれた番号を黒板と照らし合わせた。
その場所に肩の荷が降り、全体重を背もたれに乗せた。場所は一番後ろの一つ前。希望の席ではなかったが、今よりは後方を陣取れた。移動距離も短い。現時点では及第点だった。残りは嫌いな奴が傍に来なければ良いだけだ。
「雄一、お前どこだった?」
既にクジを引いた雅人が尋ねてきたので、俺は「ほれ」と得意げに番号を見せつけた。
「うっわ、お前結構良いポジ取ってんじゃん」
「ま、日頃の行いだな」
俺が自慢げに言うと、雅人は「ウゼー」と笑いながら言った。
「そっちは?」
「俺は真ん中だよ」
雅人は残念そうに番号を見せた。二列目の真ん中。正に中央だ。確かに憚りたい席ではある。
「また一週間後に席替えしねぇかな」
「ないだろ」
好ましくない席になれば誰だって思うだろうが、俺は一ヶ月どころか半年はこの席でも良いと思えてくる。周辺も埋まっているが、嫌いな奴は一人もいなかった。まだ隣が決まっていないが、これは幸先が良さそうだ。
「新しい席を楽しめ」と俺が意地悪く言った。
「地獄に落ちろ」と雅人は置き土産に呪禁を吐いた。
全員の席が決まり、皆一様に机を移動させていった。距離が短い俺は一番に指定の場所で気楽に過ごした。面倒臭い移動を俯瞰して眺めるのは悪くない。その余裕から俺の隣に座る者の名前を確認した。今日の俺は運が良い。この調子ならきっと悪い奴は来ないだろ、と悠然に思った。
だが、その文字を見た途端、俺は「マジ······」と動揺の声が漏れてしまった。
俺の隣には〝木更津〟と書かれていた。
それは、俺がこのクラスで最も苦手としている女子の名字だったのである。
事態に唖然としていると、隣からガタリと不穏な音が聞こえてきた。その先に向くと例の女子こと木更津玲奈が席に着こうとしていた。
「······よろしく」
俺がおずおずと言うと、木更津は一瞥くれただけで完璧に無視を決め込んだ。
しばらくは隣同士で同じ班、協力し合う関係だというのにこの不遜な態度。コイツと一緒に給食を食べると思うと憂鬱になってくる。幸先が良いと思ったが一転して悪化した。
また一週間後に席替えしねぇかな······、と雅人と同じことを思った。
俺が木更津と隣の席になったのはこれが二度目だった。初めて見たときは、艶のある長い黒髪と凛とした面持ち、長い睫毛、品のある佇まい。ニキビもない白い肌。桃 色の小さい唇。そんな大和撫子な風貌に、なんて綺麗な子なんだろう、と見惚れたものだ。
だが、彼女が最初に放った一言で全てが暗転した。「見ないでくれる?」と鋭利な視線と、舌鋒に帯びる冷淡さに、俺の背筋は震撼した。その後も会話を心掛けては不機嫌な態度であしらわれた。
一目でも合えば、獲物を猟る蛇のごとく眼光で、俺は震える小鹿のようになった。
クラスの評判も、美人だけど怖いや近寄りづらいといった印象を持たれている。一部の女子からは、ちょっと顔立ちが良くて勉強も出来るからって調子乗っている、と陰口を囁かれていた。(それは嫉妬だろうと思ったが)俺も遂には無愛想な態度に嫌気がさして、接することを断念した。
だが、俺が木更津と隣に座ることを避けたいのはこの出来事だけではない。
俺と彼女は、あろう事か同じ図書委員会に所属しているのである。
当初は木更津のいる委員会など御免だったが、希望した委員会のジャンケンに負けて選ばざるを得なかった。せめて席くらいは遠くに座りたかったが、遠くはおろか隣人だ。これなら雅人の席の方がまだマシだ。
俺の悩みの種である張本人は、黙然と読書に没頭していた。木更津は友達を一人も作らず、休み時間も今のように本を読んでいる。そんな彼女を寂しそうと思えず、むしろ孤高に映るから不思議だ。こうして端正な横顔と黒髪の艶を眺めるだけなら恍惚となるのだが、あまり見過ぎているとかつての二の舞となるため、咄嗟に目を離した。
クラスメイトたちは、既に新しい席に馴染んでいるように見える。会話を弾ませるなか、俺と木更津だけが取り残されていた。読書を楽しむのは勝手だが、一人寂しく時間を浪費される身にもなってほしい。そう思いながら恨めしい視線で木更津を睥睨した。
すると、木更津は苛立ったような嘆息をして、パタンとしおりを挿んだ。
「何か用なの?」
「え?」
唐突に木更津から眼力で威圧され、俺は狼狽を隠せなかった。
「さっきからため息をついたり、こっちを見てきたり、何か言いたいことでもあるの? 用があるならさっさとして」
「いや、ないけど······」
俺は冷然に睨む木更津に気圧された。緊迫した空気が数秒流れた後、彼女は素っ気なく目を離して再び読書へと戻った。
「なら大人しくしていて。気が散るから」
人が下手に出てやったのになんて奴だ。お前がそんな態度だから仮に用事があったとしても切り出しづらいことを分かっていない。コイツだって好き勝手言ってるんだ。なら俺が何を言っても構わないだろう。
「お前さ、いつまでもそんなんで良いわけ?」と不躾に言った。
「は?」と木更津は俺へ目を眇めた。
その低く濁った声は、たった一言なのにとてつもない威圧感があった。冷酷な双眸には寒気がする。だが引き下がるわけにはいかない。
「そうやって刺々しくしたり、友達も作らず本ばっかり読んでさ、嫌われたまんまで満足なのかよ」と俺は咎めた。
木更津はすぐには答えなかった。数秒の間を置いてから、眉間に皺を寄せた。
「私がしたいようにして、何か問題があるの?」
「楽しいのかよそれ。もっと人付き合いして、振りでも愛想良くしてさ、そっちの方がよっぽど楽しく過ごせると思うぞ」
「何でつまらないことをしていると思うの? 本を読んだり、一人でいることを君は異常に見えるの?」
「そこまでは言ってねぇよ」
「だったら何?」
木更津が更に機嫌を損ねてゆくなか、俺は「そりゃあ」と答えた。
「一人は寂しいじゃんか」
その言葉に、木更津は虚を突かれたように一瞬だけ目を見開いた。だが、すぐに本へと顔を伏せた。
「······私は君とは違うの。強要しないで」
迷惑だから。そう呟くように言い、それ以上は俺に苦言を呈さなくなった。最後の台詞は木更津にしては芯のない声音だった。
「あっそ」
俺は拍子抜けして、彼女から目を離した。
数分の短い応酬だったが、精神は多く磨耗していた。木更津とは僅かな会話でもここまで疲弊するのかと思い知らされた。
再び沈黙の時間が流れて、快活な空間の中で一人となった。そういえば、今日の放課後は図書委員の仕事がある日じゃないか。こんな不協和音の中で木更津と二人きりの放課後。急激に気が重くなり、軽率な言動を今更ながら後悔した。苛立ったとはいえ、今後を考えれば控えた方が平穏に過ごせただろう。
ホント何してんだ俺······。とため息が溢れた。
一人で本を読んでいると、俺は昔の出来事を思い返すときがあった。
かつては苛々して堪らなかったのに、今では良い思い出になっている。
昔の自分は読書は好きじゃなかった。外で遊ぶ方が楽しいし健康的だ、でも今は違う。静かな自室で本を読むことも悪くないと思えるなんて、当時の自分が知ったら驚くだろう。
半分まで読み進めたとき、ぐぅ、と籠もった音が静寂を破った。読み始めたときは9時くらいだったが、いつの間にか正午になろうとしていた。時間の感覚が鈍くなるほど読み耽っていたらしい。
「なにか食べるか」
俺は呟き、何か食う物あったっけ?と思考を巡らすと、何故か千円札が脳を過った。母が仕事に行く前に「昼ご飯代だよ」と言って、遠慮したのに渡してくれたことを思い出した。つまり、家には食べる物がないということだ。
外食でもするか、と思い、雅人に電話をかけることにした。今日は部活もないから家にいるはずだ。
「もしもし」
「ん······もしもし······?」と電話越しから雅人の朦朧とした声が直に聞こえて、雅人の状況をありありと想像できた。
「寝てたか?」
「今起きたわ」
「どっかで昼飯食いに行かね? 今日は暇になりそうなんだよ」
「う〜ん、パス」
「おい、そりゃねぇだろ」と俺は面食らった。
普段なら「オッケー」と気さくな二つ返事が来るはずなのに。
「お前こそ何でそんなパワフルなの? 昨日文化祭の片付けしたばっかりじゃん」
正直今日出かけるのはダリぃ。と雅人は感情のままに言った。声と共に布団が擦れる音がして、未だ体を起こしていないことが分かった。確か雅人は現役運動部という理由から率先して重い物を運ばされていた。
「俺はあんまり重い物は持たなかったからな。見えないところで楽させてもらった」
「せこい奴だな」
「賢く生きてんだよ」と俺は毅然と言った。
「何言ってんだ」と雅人は笑い声を上げた。
「まぁ、無理にとは言わねぇよ。しっかり休め」
「おう」
俺は雅人の雄々しい返事を歯切りに、「じゃあな」と電話を切った。
浩二か正太郎なら空いているかもしれない。何故なら、奴らは俺と違って堂々とサボろうとして女子に文句を言われた剛の者達であり、愛すべき馬鹿共だ。奴らなら喜んで誘いに乗るだろう。そう嬉々と思いながら連絡先を探した。
すると、〝Asahi〟という英単語目に指が止まった。それは神崎朝日のアカウントだ。連絡を取り合う仲でなかったから、以前に神崎さんとも交換していた事を忘れていた。あの一件がなければ、何事もなくスルーしていただろう。
今思えば迷惑な話だ。後夜祭では心底驚かされたが、あれは気に病むことではなかった。
片付けの日は積極的に働いていた他、成田との会話に手を叩いて爆笑していた。俺に一瞥もくれず、告白が無かったかのように、文化祭が終わったことを名残惜しくしていた。その明朗快活振りが清々しくて、俺が変に意識した事が馬鹿らしくなった。
文化祭の興奮から勢いで告白なんて珍しくもない話だから、神崎さんもその類だったのだ。単なる思い出作りの一環で、特別な感情は持たず、付き合えればラッキー程度の軽薄な行動だったのだ。今頃は失恋すら思い出として美化されていることだろう。
その身勝手さに振り回されたことに苛立ってくる。俺は遊びに付き合ってやるほどお 人好しではない。そもそも俺は恋人を必要としていない。
これ以上神崎さんに意識を奪われるのは時間の無駄と判断して、〝Asahi〟を無情にも指で流した。正太郎のアドレスを見つけてタップする。
すると、俺の携帯が着信音と共に振動して、ついビクリと肩を震わせた。雅人か?と思ったが、そこに表示されていた名前に意識が消えかけた。
〝Asahi〟の文字。電話の相手はあの神崎朝日だったのだ。
ついさっきまで忘れようとしていた相手から急な着信だった。
静寂な室内に電子音を響かせている。受けるべきか居留守を使うか判断に迷う。逡巡しながらも、神崎さんの心境が気になってしまった。一体何のつもりだろうと、戦々恐々となりながら着信ボタンを押した。
「······もしもし?」
「もしもし? 鴨川君?」
「······あぁ」
電話越しに流れてきた声は、遠慮も臆面もなく、今日の天気のように晴々としていた。
「ごめんね、急に電話かけちゃって。忙しかった?」
「いや、ちょうど退屈してたとこだけど」
「ホント? あたしも暇だったからさぁ」
「う、うん」
「萌香にも電話したんだけど、今日はバイトでさ」
「う、うん」
「でも鴨川君が暇なら良かったよ」
「う、うん」
「空いてるなら昼頃に会わない?」
「う、うん」
「さっきから同じことしか言ってないじゃん。ウケる」
神崎さんはケタケタと笑った。
「あ、いや······」
俺は動揺から上辺返事をしていると知らず、神崎さんの言葉を理解してから自分の失態に気が付いた。
「12時頃に会お。駅前で待ってて。西口のバス停あたりで」
「いや待て」と俺はようやく平静を取り戻した。「急にどうしたんだよ、電話してくるなり会おうなんて。なんかあったか?」
「え? さっき暇だって言ったじゃん」
「本当にそれだけ······?」
「そうだけど、他に理由いる?」
お前の場合は暇だけが理由だと思えないから疑心暗鬼にもなるんだ。まさか神崎さんは俺にあの一件を言わせるつもりじゃないだろうか。俺だって気持ちに答えられなかったことの負い目がある。もうあの出来事には触れず平穏に過ごしたいとも思っているのだ。
「で、鴨川君も暇なんでしょ?」
「そうだけどさ·····」と俺は何も言えずに屈する形となった。
「なら良いじゃん」と神崎は飄々と言った。
「······」
「そういうことだから! よろしくねー」
俺の沈黙を承諾の合図と解釈したのか、勝手に言うなり通話を切った。本当に神崎のペースに狂わされただけの会話だった。茫然自失となって、意味もなく携帯の画面を眺めた。
「······意味分からん」
半ば強引に約束されてしまったが、やっぱり行けないと一報を送れば解決できる。
だが、俺は文化祭の一件と今の電話の矛盾を払えなかった。釈然としない気が胸に蟠った。
考え方によっては、これから会うことは都合が良いかもしれない。本人が気にしていなければ、一度会って水に流すことが出来るかもしれない。そうすれば友達という関係から始められて、お互いに気を遣うこともなくなるからだ。
準備を済ませて部屋から出る前に、再び机の引き出しを見た。
俺が気を遣うのは、後にも先にも一人だけだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます