第17話:逆さの庭で、世界は息をする。
雨が過ぎ去ったばかりで、畑の土は黒かった。
さっきまで荒れ狂っていた雨音が消え、世界はひどく静かだ。
アメリアは畑の真ん中で仁王立ちになっていた。
濡れた髪を後ろで結び直し、腕を組み、ハロルドをにらみつける。
「両手つけ!」
「……嫌に決まってんだろ」
「いいから、這いつくばれよ!」
意味がわからない。しかしアメリアの剣幕が有無を言わせなかった。ハロルドは渋々、泥に手をついた。
「足も上げろ」
「……おい。俺に逆立ちさせようってか」
「さっさとしろよ」
「いや、逆立ちはお前さんの仕事で……」
「ぐずぐずしてんじゃない! さあ来いよ!」
アメリアが両手を広げる。肩幅に足を広げて、膝を少し落として、完璧な構えだった。
ハロルドは片足を上げて、もう片足も浮かせる。
世界がくるりと回った。
逆立ち。
足首が小さな手のひらに支えられている。バランスは心許なく、目の前にはぬかるんだ地面。鼻先に泥がつく。
腕はすぐに悲鳴を上げた。
呼吸も荒くなる。
「……おい、もういいだろ」
「まだまだ! 支えてやってんだから、粘ってみろよ!」
「俺に何させようって」
言い返そうとして、顎を引くと、アメリアの大きな瞳。髪。
その先には、
重たい灰色の隙間の、澄み切った青。
「絶望するのは勝手にしろ!」
足首が強く握られる。
「でも、あなたは知るべきなのよ。足元に青空が広がっている。そんな世界があるってことを」
風が吹いた。
雲は速く流れる。
灰色を押しのけて、青空が広がっていく。
ハロルドは腕を突っ張り直し、歯を食いしばる。
泥だらけの靴の向こうの世界。それが、すべてを奪っていった。
***
「ごめん、しんどい」
先に限界が来たのはアメリアだった。手をぱっと離した。
ハロルドは小さな呻き声をあげて、そのまま無様に倒れる。背中も顔も、泥だらけ。
アメリアは満足げに見下ろす。
「うふふ。いい気味ね」
が、次の瞬間。
ハロルドの目に涙がにじんだ。
すぐに、ひと粒。ひと筋。もうひと筋。止まらない。
「え、ちょっと……痛かった? ごめん」
アメリアが慌ててしゃがみ込む。
ハロルドは首を横に振り、肩を震わせながら嗚咽を漏らす。
「おっさんのマジ泣き、きつい! やめて、そう言うの……私が耐えられない!」
それでもハロルドは止まらなかった。
震える息を何度か吐いてから、ようやく声がこぼれる。
「……ありがとな」
アメリアはまばたきをする。
泥だらけのまま、彼は空を見上げた。
「青空を見せてくれて……ありがとう」
その顔は、やわらかさに包まれていた。
いつもの死んだ目じゃない。頬の泥すらチャーミングに見えるほど、やさしい表情だった。
アメリアは二度、まばたきをした。
どわーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
波が溢れ、その場に崩れ落ちた。
「う、うう……うあああああああああああ」
感情が全部、ぐちゃぐちゃのまま飛び出していく。
「お、おい、どうした?」
ハロルドが立ち上がる。
「う、っひ、ぐ……よがっっだあああああああーーーー」
「お前、ちょっと感情が……」
「だっで、私のこと……うう、もう……消えたほうがいいって」
「あれは、悪かった」
「じゃあ……いてもいい?」
「もちろん」
「ほんと?」
「ああ、ほんとうだ」
「うう、うううあああああああああああああああ」
それからしばらくバカみたいに泣いて、ハロルドもちょっとだけ泣いて、最後はお互いの顔を見合って、笑った。鼻水と涙と泥が混ざって、とんでもない顔。みっともなくて、少し、誇らしい。
「これからは俺が支える。だから、お前の希望を俺に見せてみろ」
「……くっさ」
「慣れろ」
「うん、嫌いじゃないよ」
そこで会話は途切れた。
視線は外れない。ちょっとだけ、長く見つめ合う。
こんなふうに、真正面から向き合うのは、初めてだった。
「改めて、よろしくな。アメリア」
「……うん、ハロルド」
恋の行方は、まだわからない。
けれど。
私たちは進んでいく。
畑の一角には、確かに芽吹きが広がっていた。
雨に濡れた葉が光り、空には虹がうっすら架かっている。
世界がまたひとつ、呼吸をした。
<『逆張りと逆立ちの狭間で』 完>
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