第10話:手当の距離、心の距離

 畑の真ん中。

 アメリアは、土の上で手首を押さえて悶えていた。


「ほら、見せろ」


 ハロルドがしゃがんで、アメリアの手を取る。

 袖をめくられ、水筒の水で冷やした布を、そっと当てられる。

 冷たいし、近い。ほんのり漂う体温。土の匂いと、たばこの匂い。

 指が動いて、結び目が作られる。


「っ……」


 息がうまく吸えない。まつ毛。無精ひげ。喉ぼとけ。


「痛むか?」

「……だいじょうぶ」


 嘘。ほんとうは心臓がうるさすぎて、痛みのありかなんて見失っている。


 ――言っちゃう? これ、言う流れじゃない?

 いや、何を考えているんだ。言うって何をだ、ばか。

 でも……もしも、相手も同じなら、問題ない?

 両思いって、恋? 恋ではなくて、愛だとしたら? 恋をすっ飛ばして、愛を見つけたのだとしたら? それならセーフなのでは? いや、セーフってなんだ! 落ち着け。息しろ、私。


 けれど、言いたくなってしまう。

 今の空気は、なんとなく、そういうタイミングにみえた。

 カノンもいない。神様が用意してくれた、告白の舞台。


「気をつけろよ」


 ハロルドが布を押さえたまま、低く言った。

 空気が少し変わる。いつもの死んだ目より、もっと冷たい感じだった。


「心配してくれてんの? んもー、優しいじゃん!」


 軽く笑って逃げようとした。

 でも返ってきた声は容赦なかった。


「俺もお前も、仕事でここにいる。役割がある。貴族の遊びに付き合ってんじゃない」


 胸の奥で、何かが割れた。


「……わかってる」

「なら、ちゃんとしろ」


 手が、するりと離れた。


***


 あの日から、ハロルドはさらに無口になった。

 合図は短く、作業音のようだった。

 支える指は必要最低限。作業が終われば、すぐ離れる。


「次」「――はい」「終わり」


 距離が一歩ぶん、確実に増えていた。


 支えてくれるのは変わらない。

 けれど、その手は淡々としていて、どこにもぬくもりは残さない。

 この前までの近さが、幻だったようだ。


 日が昇る。逆立ちする。芽が出る。日が傾く。


 世界は少しずつ綺麗になっていくのに、胸の奥だけが冷たい。

 アメリアは「いつもどおり」を演じながら、笑えない自分を抱え込んでいた。


 ――にしたって、急に態度変わりすぎだろ。

 ちょっと手首捻っただけじゃんよー。怒りすぎじゃない?

 それとも、他のやらかしが原因? お弁当の梅干しを盗んだこと? 逆立ち中にバタ足して顔を泥まみれにしたこと? タバコをこっそり水に沈めたこと?

 なんて小さい男!

 ま、世間じゃ、怒りは溜まりに溜まって、最後の一滴で溢れ出すって言うけどさ。些細な出来事も危ないって言うけどさ。にしたって、あんまりじゃんよー。


 それとも、まさか……。

 私がちょっと、その、恋しているのがバレた?

 ありえなくはない。手当してもらったとき、私の顔は真っ赤だったし、作業中もチラチラ見て、休憩中も盗み見して……察した?

 実は奥さんと子どもがいて、私みたいな可憐な美少女に恋されるのが、危ないって思っているとか?


 いや、ない。

 そんなの、ない!

 絶対、ありえない! ということにする!


 だとすると……本当に、なんなのだ。

 私が、気にしすぎなだけなのか……。


 考えれば考えるほど、答えは遠のいていった。

 新しい芽が、小さく揺れた。


***


 その日は少し曇っていた。


「いつもどおり」に見える日。けれど、最近の「いつもどおり」は、前とは違う。作業は同じペースで、同じ温度で、淡々と進む。

 カノンは今日も買い物で不在。ハロルドと二人きり。それでも、もう気にしないふりができるようになっていた。

 休憩中も、互いに言葉は交わさない。粛々と、水分補給をする。


(ふふふ。これぞ、プロの姿勢! あるべき距離感!)


 アメリアは胸の中でつぶやいた。


 ――ありがとう、ハロルド。あなたのおかげで、私は、本当に大事なものを見失わずに済んだ。


 やれやれ、全く。

 何を浮かれていたんだ。

「恋はしない」と宣言してここに来た。彼の言うとおり、私には役割があって、この土地の人たちは、少しずつ笑顔を取り戻している。

 最高じゃないか。

 誰かの役に立って、誰かの幸せの礎になって、私自身も生きがいを感じて、みんなが幸せになっていく。幸せの循環が生まれている。

 まさに思い描いた、理想の世界!


 そうだ。

 これでいい。

 これがいい。


 ……はずなのに。

 胸が痛い。

 痛いのに、どうすることもできなくて、息がつまる。

 視界がにじむ。

 やめろ、泣くな。

 ばかやろう。

 みっともない。

 ここで泣くな。仕事中だろ。


 ぽと。

 涙が土に落ちた。


「今日は……ここまで」


 声は自分が思っているより小さかった。

 ハロルドは何か言ったけど、アメリアは返さない。

 そのまま歩き出す。引き止める声はない。


 涙があふれる。

 どうして悲しいのか。どうして寂しいのか。わからない。

 たぶん、それは、これまでの生き方の負債――どうしようもない、馬鹿野郎な自分の、延長線。


 ぼやけた視界のまま、アメリアは屋敷に帰った。

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