第9話:このときめきは、恋じゃない。絶対に。

「恋ですね」


 カノンは、食器を片づけながら言った。


「かああーーーーー!?」


 アメリアは椅子からずり落ちそうになった。


「こ、恋じゃないから! ただ、急に、なんていうか……変に見えちゃっただけだから!」

「ええ、それが恋です」

「違うって。恋ってもっと、こう、ドラマチックじゃん? もっと、その、運命的な何かがあったり、きっかけがあったりさ」

「きっかけがなくても落ちます。落ちてから理由を探すのが恋です」

「だとしても弱いっていうか、早すぎるっていうか……」

「お嬢さま、昔から惚れっぽかったじゃないですか。何を今さら」

「な……!?」


 カノンは小さくため息をついた。


「確認です。今日、お嬢さまは何もされてないのに心臓が騒いだ。視線が合っただけで手が震えた。呼吸が浅くなった。これら三点、恋以外で説明できますか」

「それは、あれよ。ハードワークの、あれよ!」

「知りません」


 アメリアは口をつぐむ。

 カノンは淡々と続ける。


「恋はしないと言い張るのは勝手です。でも認めないのは、愚かです」

「……っ」

「“恋をしない私”を守るために、自分の心まで捨ててしまったら、本末転倒です」


 逆立ちだけに。カノンはそう締めた。


 ――ぐうの音も出ない。

 本末転倒なのは、私じゃないか。恋なんてしないと息巻いて辺境の土地まで来て、何をチョロっと、ときめいちゃってんだ。

 そりゃ確かに、昔はそれなりに恋しやすいっていうか、惚れっぽいところがあったけど。ちょっと目が合ったり、ちょっと優しい言葉を言われたりすれば、この人私のこと好きなんじゃない? って身構えたけどさ。

 でも、あれは貴族社会の毒に当てられていただけで、今はもう違う。自意識過剰ともおさらばしたはず。なのに、これは一体どういうこったい。どうする、私――


 しばらく沈黙。ランタンの火が、ぱちっと音を立てる。


「私は『恋はしない』は貫くよ」アメリアは唇を結ぶ。「ここには、新しい人生を手に入れるために来たの。恋をしない女として生きるの。これは譲れない」

「はい。宣言は自由です」

「……なんかムカつく言い方」

「でも、恋は一度芽生えてしまえば、もうあります。否定しても、あります」


 アメリアは視線をそらし、頬をかいた。


「……そうよ。ちょっとだけは、ある。けど、自覚はしない。これは気のせい! 私は私でいくから、そこんとこ、よろしく」

「わかりました。では明日も、いつもどおりで進めます」

「……いつもどおり、ね」


 言ってみたけれど、その言葉がほんの少しだけ、胸に引っかかった。


***


 翌日から。

 “いつもどおり”のはずが、まったくいつもどおりじゃなかった。


 逆立ち前、ハロルドが足首を握る。

(手、大きい。手首、やば……)

 ドキ。


 風が吹いて、ハロルドの寝癖が揺れる。

(その角度、かわいっ……)

 ドキ。


「肘曲げんなー」低い声が耳の奥に響く。

(声、かっこよ……)

 ドキ。


 汗と首すじを伝ったとき、タオルが飛んできた。「これ使え」

(やさしい。いや、やさしくない。ってかこれ、あんたが使ったやつ、じゃないよね? 違うよね?)

 ドキドキ。


 指先が触れただけで、ドキ。

 名前を呼ばれるたびに、ドキ。

 目が合っただけで、ドキ。


(心臓がぶっ壊れたかもしれません)


 それでも、作業は進んだ。

 畑は少しずつ広がり、緑が増えてくる。

 村人の顔にも、以前より笑顔が増えていた。


 ハロルドは、相変わらず表情が読みにくい。

 けれど、見ていれば、わずかな違いがわかってくる。

 合図を出す前に、親指の力がほんの少し強くなるとか。

 突風が来る前には、膝を数センチ突き出すとか。

 誰かが近づくと、ほんの一瞬視線が泳ぐとか。


 ――もしかして、向こうもドキドキしてたり?

 だって、24歳の女の生足だよ? 直だよ?

 しかも今日はカノンいなくて二人きりだし。

 ハロルドだって、心臓バグってんじゃないの?


 そんなことを考えていた、そのときだった。


「――っ」


 逆立ちの体勢で、意識がふっと外に飛ぶ。

 重心がずれる。手首に、嫌な感覚。ぐねり。


「いったぁー!」


 手首を押さえたまま、尻もちをついた。

 情けない格好だ。

 でも、そんな自分も、可愛いと思ってしまった。

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