第8話:そして大事件は起きた

 作業は、日に日に形になってきた。

 最初はぐらぐらで転倒ばかりだった逆立ちも、今では呼吸を合わせれば、そこそこ安定する。

 ……あくまで、そこそこ。そして尻もちをつくのも、擦り傷が増えるのも、アメリアだけ。なんとも理不尽な世界である。


「おい、肘が曲がってきてるぞ」

「わかってるって!」


 そんなやりとりも、いつの間にか決まった合図のようになっていた。


 畑の土は、柔らかくなってきている。

 芽が小さく列を作り、村の人々も少しだけ顔を上げるようになった。

 コンビネーションは悪くない。


 ただ、ハロルドは相変わらず死んだ目だ。

 逆立ちの最中、ふっと力が抜けるときがある。

 休憩中も、ぼんやり地面を見つめ、何を考えているのか読み取れない。


 ――まあ、そういう年頃なんだろう。おっさんの生態は、よくわからないけど。俯きがちって影があって、そういうのに憧れる時期が、おっさんにだって、あるのかも。知らんけど。


 アメリアは、特に気にしないことにしていた。

 こんなふうに、小さなトラブルはあれど、逆立ち開拓は順調に進んでいるように思えた。


 しかし。

 神はそんな順調な物語を望んじゃいない。


 ――大事件が起きたのだ。


 それは、ほんとうに突然だった。

 きっかけなんて、なにもなかった。

 ただいつものように休憩をして、カノンが用意したお茶を飲んでいたとき。


 風が吹いた。

 前髪を指で払う。――その先に、ハロルド。


 目が合った、わけじゃない。

 彼はただ、遠くを見ていた。

 寝癖が風で揺れて、まつ毛の影が小さく震えて。

 たばこのにおいがほんの少し。


 それだけだ。

 それだけなのに。


 胸が、きゅっとなった。


(……え?)


 心臓がうるさい。

 息がつまる。

 なにこれ。なんなの、これ。


「おい」


 不意に目が合った。ハロルドが顎をしゃくる。


「お茶、こぼすぞ」

「あ、え、うん」


 見たら、コップが震えていた。

 一体、どうしたというのだろう。

 でも、このまま黙っていたら、もっと何か、その、危ない気がする。


「さ、再開するわよ!」

「……急に張り切るな。年長者を労われ」

「うるさい、年長者なら生き急げよ!」


 両手を土に置いて、足を持ち上げる。

 心臓の音が、さっきより、はっきり聞こえる。


 甘くて、すこし痛い。

 アメリアは、ゆるみそうになる頬を、布の陰でごまかした。

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