第3話 ゼータの誕生
約十九万五千年前に出現したホモサピエンスは、アフリカ大陸から世界中に移動・拡散していく過程で様々な系統に分かれた。約四万年前から一万年前まで、ヨーロッパ大陸の一部にいた地域的集団であるクロマニヨン人はその系統のひとつである。またヨーロッパには約三万年前まで旧人類といわれるネアンデルタール人がおり、クロマニヨン人と同じ時代を生きていた。
現在の人類の遺伝子情報を解析すると、ネアンデルタール人の遺伝子と考えられるものが幾つか見られる。現在の人類に繋がるクロマニヨン人と三万年前に絶滅したネアンデルタール人との交雑が一部で行われていた痕跡ではないかと考えられている。
ネアンデルタール人の地域集団のひとつに、言語が未発達であった代わりに狩猟や集団生活を効率的に行えるように、複数の個体間で意識を同化することのできる能力を得た集団Xがあった。そして意識の同化は記憶の共有へと進化し、集団Xで記憶を共有する特殊能力にまで発展した。
集団Xで共有された記憶は、世代を超えて数万年という長い時間、集団Xのネアンデルタール人を渡っていくうちに特殊な生命体へと進化した。記憶生命体の誕生である。ネアンデルタール人は約三万年前に滅びたが、交雑によりその遺伝子はクロマニヨン人へ、そして現在の人類に引き継がれている。そして集団Xのネアンデルタール人の遺伝子(遺伝子X)と共に記憶生命体も現在の人類に渡ってきたのである。
ネアンデルタール人からクロマニヨン人を経て現在の人類の文明黎明期までは、記憶生命体に蓄積される記憶は極めて少なかった。しかし、世界の三大文明の発生以降、記憶生命体に蓄積される記憶は加速度的に増大していった。過去の記憶を基礎として新しい技術や文化を構築することができるようになったのである。
人類の歴史の中で、転換点をもたらす理論の構築、技術の開発や文化芸術の発展には、記憶生命体を脳内に宿した天才たちがいた。プラトン、アリストテレス、ニュートン、レオナルドダヴィンチ、アインシュタイン・・・彼らの卓越した頭脳の中には記憶生命体の影が見える。
先駆的な理論を発表して科学分野の目覚ましい発展に成果を上げた研究者、高い交渉術で世界をリードする政治家、全世界のビジネスモデルを一変させた天才的な実業家などで構成される組織が『世界賢人連盟』である。構成メンバーの職業や国籍は区々だが、いずれも並外れた知識・能力を有しており、定期的に会合を開いて世界の進むべき方向について提言を発していた。人類が自ら滅亡の道を進まないように、賢人の立場から舵取りをする役割を果たしているのである。
この世界賢人連盟のメンバーが、脳内に記憶生命体を宿している者であり、彼らは記憶生命体により活性化された脳と厖大な記憶を背景に超人的な能力を発揮して、科学・社会・経済の分野で活躍していた。
世界賢人連盟による会合は、記憶生命体の宿主である個人の記憶の集積に加え、他の記憶生命体が蓄積した記憶情報の共有を図るために行われていた。
神宮寺孝晴も記憶生命体の宿主である。その超人的な能力をもって陸軍での昇進や神宮寺商事の経営に手腕を発揮し、いまでは世界規模のコンピュータネットワークの構築にも関係していた。
神宮寺孝晴に宿る記憶生命体は、人類の「テレパシー(精神感応)」「サイコキネシス(念動)」「レアボヤンス(透視)」といった超能力に関する過去の文献や研究資料に触れ、人類が進化の過程で超能力を発現する可能性を知った。テレパシーによって記憶自体を改ざん・消滅させることができるのであれば、それは記憶生命体の存在そのものを脅かす脅威になり得るのである。
そして神宮寺孝晴は、佐渡博士が連れてきた伊東よね子の強力なテレパシーの能力を目の当たりにして、超能力の発現が単なる可能性ではなく現実に人類に起こり始めている事実であることを確信した。
神宮寺孝晴は、超能力が記憶生命体の脅威となる場合には先手を打って人類の超能力発現を阻止しようと、特殊能力兵器開発と称して陸軍に特殊潜在能力開発室を設立し、超能力の実態研究を進めた。戦後、神宮寺商事を興した神宮寺孝晴は、特殊潜在能力開発室の施設を買い取り、特殊潜在能力研究所として超能力の研究を続けてきたのである。
二十年前、神宮寺孝晴はゼネラルソフト社の実験室でコンピュータネットワーク内の情報データの流れを視覚的に表現した画像を見た。巨大な渦巻星雲の形状に似たネットワーク網集合体の中を無数の雷光が複層的に走り抜けるさまは、脳内における生体電気パルスの情報伝達の姿と同じであると理解したのだった。
そして、コンピュータネットワーク内の情報の流れを統合的に制御するシステムができれば、それは脳の前頭葉にある意識を司るニューロン群に相当する機能を有することになる。その結果、人間の脳と同じ仕組みが『電脳』として全世界のコンピュータネットワーク上に構築されるのだ。電脳に集約される情報と言う記憶の厖大な量とその質は、一個人の記憶の積み重ねで得られるものとは比較にならない。
神宮寺孝晴の脳内に共生する記憶生命体は、そのときから電脳世界に転移して全ての情報を自分のものとして独占し、新しい記憶生命体に進化することを熱望していた。
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七月十五日 東京都内
東京都新宿区にある六十階建ての神宮寺ビルの最上階フロアに神宮寺商事会長室があった。強化ガラス張りの窓から東京都庁や新宿高層ビル群が手に取るように見える。夏本番の空は毒々しいほどに青く、天空から降り注ぐ矢のような日差しがブラインドカーテンを透過して会長室内を明るく照らしている。
寒いくらいに空調の利いた会長室のソファーに神宮寺孝晴は座っていた。
見事な白髪をぴっちりと撫で付けたオールバックの髪型、秀でた額と細くて高い鼻梁、削ぎ落されたように凹んだ頬と痩せてスッキリと尖った顎、そして三白眼の細い目は氷のように冷たい光を放っている。痩身の身体にぴっちりとしたグレーの三つ揃いのスーツをまとっている。旧日本陸軍大佐で、戦後に神宮寺商事を興し、一代で世界的企業に育て上げた立志伝中の人物である。
神宮寺の正面のソファーには佐渡博士が太った身体を窮屈そうに縮めて座っていた。極度の暑がりなのだろう、くしゃくしゃに丸めたハンカチでひっきりなしに額の汗を拭っている。
ふたりは一枚岩の分厚い大理石のテーブルを挟んで向かい合っていた。
神宮寺が低い声で言った。
「佐渡から連絡を受けて、矢沢とか言うジャーナリストの自宅を竜神会のチンピラに襲わせたが、まんまと逃げられた。チンピラ三人は記憶を改変されているようだ。おそらく明石の仕業だろう」
「やはり、矢沢と明石は繋がっていましたか。それで、これからどうしますか。矢沢はサイコキネシスを操れる資質を持つ潜在的超能力者です。私の研究に是非使いたいのですが」
佐渡博士は上目遣いで神宮寺の表情を窺っている。神宮寺はさも興味なさそうに言った。
「こうなった以上、矢沢は当分姿を見せないだろう。まあ、明石の居場所を突き止めた後、矢沢をどうするかは佐渡に任せる、好きにしろ」
佐渡博士はホッとした表情を見せた。サイコキネシスを操れる資質を持つ被験者は数が少なく、研究用に数を確保するのが大変なのだ。
神宮寺は青白く光る三白眼で佐渡博士を見た。身体に冷気を纏っているようだ。
「それよりも、ゼネラルソフト社のジェフ・マクラネルCEOから連絡があった。いよいよ来週、AI(人工知能)を搭載したスーパーコンピュータ『ゼータ』が起動されることになった。全世界のコンピュータネットワークが『AIゼータ』により統合的に制御されるのだ。巨大な電脳世界の誕生だ。私の悲願である電脳世界への転移がようやく実現するときがきた。佐渡、電脳転移装置の開発は終わっているだろうな」
「もちろんです」
「よし。私はジェフ・マクラネルCEOからの招待で、ゼネラルソフト社の本社で行われるAIゼータの起動セレモニーに出席する。一週間ほどアメリカに滞在するから、帰国後に電脳世界への転移を実行しよう。私が帰国するまでに電脳転移装置の最終調整を済ませておけ」
「承知しました」
神宮寺は満足そうに頷くと、話は終わったとばかりに立ち上がった。長年の悲願が成就する日が近づいているのだ。神宮寺の顔には普段見られないような笑みが浮かんでいた。
七月二十日 アメリカ合衆国カリフォルニア州
ゼネラルソフト社は、世界中のコンピュータOSの中で独占的なシェアを持つ『シグマ』シリーズを開発・発売し、更に全世界を結ぶ巨大コンピュータネットワークを構築してその運用を一手に担っている。ゼネラルソフト社の構築したコンピュータネットワークは、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンノゼ市にあるゼネラルソフト社の本社ビル地下の巨大なメインサーバーで総合的な運用管理がおこなわれていた。
ゼネラルソフト本社ビルの地下八十メートルにあるメインサーバー室は、硬い岩盤の中に作られた東京ドーム半分ほどの広さを持つ巨大地下施設で、周囲は厚さ十メートルの強化コンクリートで覆われており、巨大地震や核攻撃にも耐えられる構造になっていた。
ゼネラルソフト社の創始者でありCEOのジェフ・マクラネルは地下施設内の中央コントロール室にいた。ジェフの隣には神宮寺商事会長の神宮寺孝晴と香港のIT企業大華集団の会長サミュエル・リーの姿があった。この三人はいずれも記憶生命体の宿主であり、世界賢人連盟の構成メンバーである。
中央コントロール室の一階下にはメインサーバー室とサブコントロール室があり、メインサーバー室の中では最新鋭のAIを搭載したスーパーコンピュータ『ゼータ』が起動され、メインサーバーに接続されるところだった。全世界のコンピュータネットワークが『AIゼータ』により統合的に制御される歴史的瞬間である。
中央コントロール室の正面の壁には十台の大型モニターが掛けられていて、メインサーバー室やサブコントロール室の様子がリアルタイムで映し出されている。中央コントロール室のマネージャーデスクの上にメインサーバーと直結したパソコンが置かれていて、技術主任が最終作業を行っていた。全ての作業を完了した技術主任がジェフを見て頷いた。
ジェフの前に置かれているパソコンの画面に最終操作の表示が出た。ジェフは太い指でキーボードを操作し「YES」を入力するとエンターキーを押した。
メインサーバー室内の独立区画に設置されている五台のサーバーが一瞬薄緑色の光に覆われ、陽炎のような炎が立ち昇った。
AIゼータが起動し、全世界を結ぶ巨大コンピュータネットワークとの接続が完了した。
起動セレモニーに出席している来賓の間から拍手が沸き起こった。ジェフは笑顔で拍手に応えると、背後に立っていた神宮寺と握手をした。いつもは冷ややかな神宮寺の三白眼が心なしか潤んでいる。心の中の歓喜を抑えきれないのだ。
「おめでとうジェフ。新しい電脳世界の幕開けをこの目でしっかりと見届けた。これもジェフのおかげだ、感謝する」
「ありがとう、神宮寺」
続いてジェフは神宮寺の隣に立っているサミュエル・リーに手を差し延べた。握手をしながらサミュエル・リーはジェフに話し掛けた。
「うちの大華集団でもあと少しでAIの開発が終わります。『天人』と名付ける予定です。完成した暁にはAIゼータとの連携をお願いします」
「こちらこそよろしく」
ジェフと神宮寺とサミュエル・リーの三人は、改めてがっちりと握手をすると、ゼネラルソフト社の広報係の構えたカメラに向かって満面の笑顔を向けた。
七月二十三日 東京都 羽田空港
瞭と明石は羽田空港第三ターミナルの二階到着ロビーの人ごみの中に立っていた。
瞭は白のポロシャツにジーンズ姿、明石は相変わらずくたびれた開襟シャツを着てよれよれの黒いズボンをはいている。ふたりはサングラスをかけてマスクをして顔を隠した姿で、柱の陰に隠れるようにして到着出口から神宮寺孝晴が出てくるのを待っていた。
瞭の調査したところによると、神宮寺は七月十七日から今日まで、アメリカ合衆国に出張しており、七月二十日にはカリフォルニア州にあるゼネラルソフト社の本社で行われたAIゼータの起動セレモニーに出席していた。アメリカでのスケジュールをこなした神宮寺は、ロサンゼルス空港を出発して約十一時間のフライトを経て、羽田空港に十六時三十分到着のユナイテッド航空三十九便で帰国する予定となっていた。
神宮寺商事の本社ビルや神宮寺の自宅はセキュリティが厳しく、また、移動に際しては常に秘書とふたりのボディーガードが付いているため、部外者である瞭と明石が神宮寺に接触するどころか、近づくことも困難だった。しかし、空港ロビーの雑踏の中なら、隙をみて近づくことも可能であろうと瞭は考えたのだ。
場内掲示板にはユナイテッド航空三十九便が定時に到着したと表示されている。間もなく、入国手続き・税関検査を終えた神宮寺が姿を現すだろう。出迎えの人たちが到着出口の前に集まり始めた。しばらくすると、大きなキャリーケースを曳いた家族連れの旅行客らしき外国人やアタッシュケースを持ったビジネスマンたちがワラワラと到着出口から出てきた。気が付くとあっという間に到着出口前の二階ロビーは人でいっぱいになっていた。
瞭はロビー内をザッと見回した。
「明石さん、そろそろ出てきますよ。準備はいいですか」
「いつでもOKなのです」
OKだと答えた割には明石の顔は引きつり、声は緊張のためか震えている。
見事な白髪をぴっちりと撫で付けたオールバックの男が見えた。神宮寺孝晴だ。紺のピンストライプのスーツを着ている。神宮寺の前後を挟むようにふたりのボディーガードが立っていて、不審者がいないか周囲に目を配っていた。神宮寺の右にはカバンを持った秘書が付いていて、電子手帳を開いてこれからのスケジュールを説明している。神宮寺はさもうるさそうに眉間にしわを寄せて頷いている。
ボディーガードと秘書を引き連れた神宮寺が、瞭と明石の隠れている柱に向かって足早に近づいている。恐らく柱の先にある一階行きエスカレーターを使うのだろう。神宮寺もボディーガードも柱の陰に潜む瞭と明石に気付いていない。
瞭は柱に背中をつけて横目で通り過ぎる人を確認した。
・・・ボディーガードが通った。
・・・その後ろに神宮寺が続いた。神宮寺の背中が瞭の目の前にある。
・・・今だ!・・・
瞭が右手の親指を立ててGOサインを出した。瞭の横に立っていた明石が柱の陰から飛び出した。明石が神宮寺の背中に手を伸ばす。
「あ!」
明石と神宮寺の間に、双子用の大きなベビーカーが突然割り込んできた。ベビーカーを押している若い母親は、邪魔するなとばかりに明石を睨みつけた。ベビーカーの後ろには小山のように大きな若い男が、死体でも入っていそうな大きなキャリーケースをガラガラと曳きながら、母親の後に続いている。双子の赤ちゃんの父親だろう。
明石の前を父親が通り過ぎたときには、神宮寺の背中ははるか彼方に去っていた。
千載一遇のチャンスを逃してしまった。
神宮寺は背後に近づいた明石に気付くことなく、人込みの中を足早にエスカレータ―まで進み、姿を消した。
ショックのためだろう、明石は神宮寺の背中に向けて腕を伸ばしたままの姿で固まっていた。瞭は明石の背中を擦りながら声を掛けた。
「大丈夫、この次がありますよ」
瞭は「たぶん」という言葉を呑み込んだ。
七月二十四日 千葉県千葉市
千葉市緑区にある神宮寺商事の電子機器開発研究部第二研究棟の一室にレーシングカーのドライバーコクピットのような形状の機器が置かれていた。コクピットの上部は鷲の嘴に似た頭部ユニットが取り付けられている。佐渡博士が開発した電脳転移装置である。周囲は複雑な大小の機械類で埋め尽くされ、無数のコードで繋がっていた。
「いよいよ私の永年の夢が実現するときがきた」
電脳転移装置を前にして神宮寺孝晴がひとりごちた。いつも沈着冷静な神宮寺の顔が興奮のためか薄っすらと赤らんでいる。神宮寺は横に立っている佐渡博士にチラリと目をやった。始めろという意味だ。
佐渡博士は了解したという風に頷くと、電脳転移装置を指差しながら説明を始めた。
「これが電脳移転装置です。これまでのネオニューロン増殖実験では電磁気振動波を使用していましたが、電脳移転装置では生体電気振動波を照射することで、脳内の記憶生命体を生体電気振動波とシンクロさせて、それを特殊ルータで電気信号化します。その際には脳内のニューロンを極限まで活性化させる必要がありますから、SPD強化剤を一般ニューロン用に転化させたニューロン強制覚醒薬を投与します。
電気信号化された記憶生命体は電子の流れに乗って脳内から頭部ユニットのケーブルを通ってコンピュータ内に移動し、そこで再度特殊ルータを経由することでコンピュータネットワーク上に電脳型記憶生命体として実体化します。
但し、記憶生命体としての意識はAIゼータが統括するコンピュータネットワーク上に構築される仮想空間に宿るという形を取ります。手っ取り早く言えば仮想空間に居て、AIゼータを通じて全ネットワークから情報を取得したり、外部と交信したりするというイメージです」
「テストはしたのか」
装置を眺めながら神宮寺が尋ねた。佐渡博士は当然のように首を横に振る。
「テストはできません。テスト用の記憶生命体がいませんから。ですからぶっつけ本場となります。どうされます?」
佐渡博士が伺うような、それでいて挑むような目で神宮寺を見た。神宮寺は氷のような三白眼でジロリと佐渡博士を見返した。答えは決まっている、今更やめることなどあり得ないだろう。
「分かった、始めよう」
神宮寺の答えを聞いて、佐渡博士の顔がスウッと引き締まった。それはマッドサイエンティストの顔だ。
神宮寺は電脳転移装置のシートに全身を預けていた。頭全体が鷲の嘴に似た頭部ユニットで覆われている。頭部ユニットの内側から無数の細い針が伸びて頭皮に刺さっているが痛みはない。腕には点滴用のカテーテルが刺さっており、脇にある点滴スタンドには薄緑色の薬剤の入ったパックがぶら下がっている。これがニューロン強制覚醒薬だ。
佐渡博士が緊張した声で言った。
「それでは開始します。生体電気振動波照射量五パーセント、ニューロン強制覚醒薬投与開始」
機械を操作しながら佐渡博士は、神宮寺が連れてきた男をチラッと見た。初めて見るその男は長谷川と名乗った以外は全く無言だった。長谷川は佐渡博士の後ろに回り機械の陰に隠れるように立っている。その目は虚ろで、これから目の前で何が行われようとしているのかなど、全く興味がないという顔をしている。
佐渡博士がモニターに表示されている数値を読み上げる。
「生体電気振動波照射量二十五パーセント、ニューロン強制覚醒薬投与五十パーセント完了。気分はいかがです」
「頭が少し痛いが大丈夫だ」くぐもった神宮寺の声がした。
「振動波照射の急激な増幅は脳への負担が大きいので、これから一時間ほど掛けて徐々に出力を上げていきます」
佐渡博士はそう言うと、パソコンのモニター画面に映し出されている記憶生命体と生体電気振動波のシンクロ率のグラフを見つめた。佐渡博士の額には既に汗が滲んでいる。
一時間が経過した。
室内にはブーンと言う低い音に混じって小さな羽虫が飛び回っているようなワーンという音が大きくなったり小さくなったりを繰り返していた。そしてその間隔がだんだん短くなってきた。神宮寺の意識は既になく身体が小刻みに揺れている。
「生体電気振動波照射量九十パーセント、ニューロン強制覚醒薬投与完了。シンクロ率六十五パーセント。出力を最大に移行。いよいよだ」
佐渡博士の顔面は緊張のために青ざめて引きつり、禿げ上がった額から滝のような汗が流れ落ちている。眼鏡の奥の充血した両目はモニター画面を凝視している。しかし、発せられる声は冷静そのものだ。
「生体電気振動波照射量百パーセント、シンクロ率八十パーセント・・・八十五パーセント・・・九十五パーセント。よし、いけそうだ」
佐渡博士の言葉と同時に神宮寺の身体が大きく痙攣を始めた。羽虫が飛び回っているようなワーンという音がハウリングを起こして部屋中に充満している。聴覚神経がマヒした佐渡博士は不思議な静寂に包まれていた。
「もう少しだ・・・シンクロ率九十八、九十九・・・百パーセント! シンクロ完了」
佐渡博士は横目でチラリと神宮寺を見た。電脳転移装置のシートの上で拘束具に固定された神宮寺の身体は、弓のように仰け反ったまま硬直している。
佐渡博士は一瞬ためらってから、両目を閉じてパソコンのエンターキーを静かに叩いた。
「コンピュータネットワークへ接続」
神宮寺の頭部を覆う頭部ユニットの内側が一瞬眩いばかりに光った。それまで部屋中に響いていた音が全て消えて完全な静寂が訪れた。頭部ユニットの内側にあった無数の細い針は焼き切れて無くなっていた。神宮寺はピクリとも動かない。
佐渡博士は壁際に移動するとAIゼータのメインサーバーに直結している専用パソコンのモニター画面を食い入るように見つめた。
モニター画面にはAIゼータが構築した仮想空間がひとつの電脳都市として映し出されていた。無数の高層ビルが林立していて、ビルとビルの谷間を家々が埋め尽くしている。都市には大小の道路が縦横に張り巡らされていて、ひと際広い中央の幹線道路は都市を切り裂くようにして遥か彼方まで真っ直ぐに延びている。
幹線道路に面した大きなビルの正面玄関の回転ドアから男が出てきた。
男は周囲をゆっくりと見回してから満足したように頷き、佐渡博士の方に顔を向けた。それは旧日本陸軍の将校用正装軍服を着用した二十五歳位の神宮寺孝晴だった。胸に参謀飾緒が下がっている。痩せてスッキリと尖った顎や底光りするような三白眼は変わらない。
パソコンのスピーカーから金属的な神宮寺の声が響いてきた。
「素晴らしい。完璧だ。なんという世界。世界中のすべての情報が私の手の中にある。記憶生命体が時間の大河を渡るために必要としていた人類などという脆い舟はもう不要だ。私は神になった。電脳世界の神『ゼータ』だ」
神宮寺は近くにある巨大なビルを見上げた。
「アメリカ国防総省か・・・まずここの情報から始めるか、楽しみだ。そうだ、佐渡、ご苦労だった。お前はもう不要だ。さらば」
神宮寺は背を向けると仮想空間内に構築されたアメリカ国防総省に入った。
神宮寺が残した別れの言葉は、佐渡博士に耳には入らなかったようだ。パソコンのモニター画面に釘付けになっている佐渡博士の背後に長谷川が足音も立てずに忍び寄った。長谷川の手には刃渡り二十センチほどのナイフが光っている。
背後の気配に気づいて振り返った佐渡博士の腹に、長谷川がナイフを突き立てた。痺れるような感覚はたちまち痙攣を伴う灼熱の痛みに変わった。
「うぐぅ・・・」
佐渡博士の口から呻き声が漏れた。長谷川は佐渡博士の腹にナイフを突き立てたまま両肩で佐渡博士を壁に押し付けた。佐渡博士は必死になって両手を壁に回し、手に触れるものを手あたりしだい掴んで長谷川に叩きつけたが、長谷川はびくともしない。
長谷川は無言のまま無表情でナイフを引き抜くと、片手で佐渡博士の口を塞ぎ、二度三度と佐渡博士の腹にナイフを突き立てた。東山を殺害したときと同じだ。長谷川は神宮寺の子飼いの殺し屋だ。
激しい痛みのために振り回した佐渡博士の手が、壁に掛けてあった電気工事用のラジオペンチに触れたのは偶然だった。佐渡博士はラジオペンチの柄を夢中で掴むと、細く尖ったペンチの先を長谷川の顔面に思い切り叩きつけた。ラジオペンチの先端は長谷川の左眼球を突き抜け脳に達した。
長谷川は立ったまま暫く痙攣していたが、突然グシャリと膝から床に崩れ落ちると動かなくなった。最後まで一言も発しなかった。蛇のように不気味な男だ。
佐渡博士は刺された腹を抑えて呻き声を漏らしながらよろよろと出口に向かった。
七月二十四日 千葉県鴨川市
猛烈な衝撃波が次元を振動させながら未来から過去へと走り抜けていった。未来から飛来した、千々に割れた鏡の破片のような未来の映像の断片が、幸子の脳裏に突き刺さる。その衝撃波は幸子の脳内に強烈なイメージを植え付けた。
《無数の閃光と爆発・・・一面の炎・・・逃げ惑う人々・・・夥しい血と焼け焦げた死体・・・無人の廃墟・・・世界賢人連盟・・・ぼんやりとした男の顔・・・底光りのする三白眼・・・凄まじい狂気・・・男の顔が融けて光の束の絡み合った集合体に変わる・・・人類を滅ぼす厄災がくる》
これは予知だ。
厖大なエネルギーの奔流の直撃を避けるため、幸子の脳は無意識の内に思念波の繭に包まった。繭により緩和されたものの幸子に届いた衝撃は強く、幸子は酷い眩暈に襲われてソファーに倒れ込んだ。目の前がグルグルと回り、頭が痺れて手足に力が入らない。
幸子が衝撃波を感じたと同時に隣の部屋から早苗の悲鳴が上がった。テレパスの能力を発現している早苗もあの衝撃波を感得したのだろう。しかし、いまの幸子には為す術がない。
二十分ほどソファーに横になり、何とか動けるようになった幸子が隣の部屋へ入ると、早苗は床に倒れていた。
「早苗!」
幸子が駆け寄って声を掛けても返事がない。早苗は意識を失っていた。幸子のように思念波の繭を構築するほど、早苗のテレパスとしての技能は向上していないのだ。
早苗をベッドに寝かせて頭をタオルで冷やしてから、幸子は炎で炙られるようなチリチリとした焦燥感に苛まれて部屋の中をウロウロと歩き回った。頭から人類の厄災のイメージが離れない。佐渡博士に相談したいが、博士は朝から外出していて戻りは明日になる予定である。外出先は知らされていないため、こちらから連絡もできない。
幸子は早苗の枕元に座り、早苗の頭を撫でながら『早苗、早苗』と思念波を送り続けた。
車が止まる音と同時にクラクションが響いた。
幸子はハッと顔を上げた。少しウトウトしていたのか、時計の針は既に日付が変わり午前二時を指していた。早苗は未だ意識が戻っていない。幸子がボンヤリと早苗の顔を見つめていると、またクラクションが鳴った。
「佐渡博士が戻ってきたみたいだけど。クラクションを鳴らすなんてどうしたんだろう?」
幸子はまだ少し痺れが残っている頭を小さく振ると、佐渡博士の様子を見るために部屋を出た。
研究所の玄関前に佐渡博士の車が止まっていた。まだエンジンがかかったままで運転席に人影が見えるが降りてくる気配がない。幸子は羽織っているカーディガンの前を掻き合わせながら車に近づき、運転席を覗き込んだ。佐渡博士が上を向いて目を瞑っている。幸子が声を掛けると佐渡博士は薄っすらと目を開け、ドアのロックを解除した。
ドアを開けた途端、ムッとするような血の匂いが幸子の鼻をついた。幸子はハッと息を呑んだ。
「佐渡博士!・・・ひどい出血」
運転席のシートは血で真っ赤に染まっていて、佐渡博士の服も血でぐっしょりと濡れていた。
佐渡博士は片手で腹を抑え肩で息をしながら震える声で幸子に言った。
「早苗を、早苗を呼んでください・・・もう時間がない、早く・・・」
「早苗は意識を失っていて動けません。佐渡博士、いったい何があったのですか」
幸子が佐渡博士の肩に手を掛けると、佐渡博士は痛みで顔をしかめた。
「やられた、神宮寺孝晴に騙された。腹を刺されて出血がひどい。もうあまり長く持たない。早く早苗を・・・」
「とにかく救急車を呼びます。それまで頑張って下さい」
幸子は携帯電話を部屋に忘れてきたことに気づいた。幸子が慌てて部屋に戻ろうとすると、佐渡博士が呼び止めた。
「いかん、救急車はいかん。・・・それにどうせ助からん。それよりも私の話を聞いて欲しい」
「でも・・・」
「とても大事な話だ・・・私の意識があるうちに伝えておきたい」
佐渡博士はすがるような目で幸子を見た。その目には必死の思いと悲愴な色が浮かんでいる。幸子は頷くと車の助手席に座った。
佐渡博士は目を瞑り空気が漏れているような弱々しい声で話し始めた。
「神宮寺孝晴の正体を言いましょう。彼は記憶生命体の宿主です。彼の脳内には記憶生命体という特殊な生命が共生していました。彼の類まれな記憶力や折衝能力などは記憶生命体によるものです。そして私の脳内にも記憶生命体が共生しています」
「記憶生命体?」
幸子は初めて聞く名前に首を傾げて佐渡博士の顔を見た。佐渡博士は痙攣のように襲ってきた痛みに顔をしかめてグウウと小さく唸ってから再び話し始めた。
「記憶生命体は記憶自体に生命が宿った特殊な形態で、人類の有史以前から脈々と人から人へ宿主を変えながら時間を渡ってきました。ただ、人類なら誰でも宿主になれる訳ではないのです。遺伝子Xというネアンデルタール人の一系統の集団に備わっていた特殊な遺伝子を受け継いでいる人類であることが必要なのです。
ですから宿主になることができる資質を持つ人類は限られています。宿主が死ぬと脳内の記憶生命体も死んでしまいますから、宿主が生きているうちに新しい宿主に転移する必要があります。記憶生命体には増殖という機能がないのです。
私たち記憶生命体の数はどんどん少なくなってしまい、現在では十八体しか残っていません。この十八体の宿主で構成されているのが世界賢人連盟という組織です。主な活動は、賢人の立場から世界の進むべき方向について提言を発すること、すなわち、人類が自ら滅亡の道を進まないように舵取りをする役割を果たすことです。また、個々の宿主を通じて得た記憶を記憶生命体の間で相互交換するほか、宿主と成り得る遺伝子Xを持った人類を探し出すことも目的としています」
「しかし、記憶自体が生命体になるなんて・・・生命体の概念とかけ離れていますよね」
幸子は信じられないという顔をした。佐渡博士は幸子の顔を見て小さく頷くと、ゴクリと生唾を飲み込んでから話を続けた。痛みのために額が脂汗でヌラヌラと光っている。
「生命とは何なのか、今の科学では明確に説明できないのです。『自己と外界との境界がある』『自己複製を行う』『代謝活動』などの生命体の定義は生命活動の現象部分を説明しているだけで、そもそも生命が宿るとはどういうことなのか、その要因は何なのかという根本的な疑問に対する説明になっていません。
例えば、単細胞生物のアメーバー。これも立派な生命体ですが、生きていたアメーバーがたった今死んだとすると、生きていたときと死んだ後でアメーバーを構成している有機物質に変わりはない、同じものです。それではこの同じ有機物質の塊に『生きていたとき』には何が作用して生命活動をさせていたのか、解明できてないのです」
「生命体を構成する有機物質以外に何かファクターが有るということでしょうか」
佐渡博士は小さく頷いた。
「有機物質の塊が生命活動を行う、すなわち『生きている』ためには、生体エネルギーが必要なのです。生命活動の中の代謝活動で生み出される活動エネルギーではありません。もっと根源的なエネルギーです。私は記憶生命体としてこの生体エネルギーを解明したかった。有機物質で構成されない我々記憶生命体がどうして生命を有したのか。そこに記憶生命体が増殖するためのヒントが隠されている・・・」
佐渡博士が話している最中に、助手席側の窓ガラスがコツコツと叩かれた。早苗が青白い顔をして立っていた。まだ少しふらついている。早苗は車の中を覗いて佐渡博士と幸子の姿を確認すると、助手席側の後部座席のドアを開けて車内に入ってきた。
「お母さん、さっきの凄い衝撃波を感じた?」
「早苗、よかった気が付いたのね。勿論、あんな衝撃波は初めてだわ」
早苗の顔を見た佐渡博士はほっとしたように「ああ間に合った」と呟き、後部座席の早苗に向かって手を差し出そうとしたが、大量出血により力が入らないため手が上がらない。
早苗は佐渡博士の血に気が付いて驚きの声を上げた。
「まあ佐渡博士! その血は・・・」
絶句した早苗に向かって幸子はゆっくりと頷き『佐渡博士の話を聞きなさい』とテレパシーを送った。言葉ではなくテレパシーで伝えられたことに、何か理由があるのだと早苗は合点した。早苗はその先の言葉を呑み込むと、促すように佐渡博士を見た。
佐渡博士は早苗の顔を見て安心したのか、小さいなりに確りとした口調で話を続けた。
「私は脳と超能力の研究を進めるうちに、ネオニューロンが発する特殊なエネルギー波を検知したのです。これは超能力の根源であるとともに、生命を構成するファクターで有る生体エネルギーであることに気付きました。超能力を発現していない一般人のニューロンからも極めて微弱ながら検出できました。検出の精度と方法が向上すればニューロン以外の他の細胞からも検出されるでしょう」
早苗は大学のゼミの受講生のように質問した。
「生命体の代謝活動から生じるエネルギーでないとすると、それはどのような仕組みで発生するのでしょうか」
「超能力、特にサイコキネシスの研究から私がたどり着いた仮説ですが、それは『次元のずれ』によるものだと考えています」
「時空のずれ? 時空の歪なら聞いたことがありますが・・・」
幸子が首を傾げた。佐渡博士は小さく首を横に振った。
「時空ではなく次元です。時空の歪というのはあくまで、ひとつの次元の中で生じる質量がもたらす物理現象です。我々の世界は無数の次元が重なり合ったもの、すなわち多層のパラレルワールドで構成されています。お菓子のミルフィーユのようなイメージと言った方が分かり易いでしょうか。
無数のパラレルワールドの中の一枚の次元が我々の世界ですが、何らかの理由により次元がずれて振動すると他の次元との干渉により、次元の振動からエネルギーが放出されます。この次元のずれに有機物質が巻き込まれると、有機物質に次元の振動エネルギーが伝わり生命として活動を始めるのです。生体エネルギーとは次元の振動エネルギーに他なりません。
そしてこの次元のずれはあくまで特異な状態であり、次元の振幅は徐々に小さくなって正常な静止状態に戻っていきます。振動が止まり次元のずれがなくなると振動エネルギーの供給がなくなり有機物質も活動を止めます。この状態が死です。
すべての生物は太古に偶然生じた次元のずれに巻き込まれた有機物質が獲得した『生命という次元のずれから生じる特異な状態』を次の世代へと脈々と繋げてきたのです。
そして、有機物質だけではなく、特殊な遺伝子Xを持つ人類に宿った記憶の集合体という微弱なエネルギーの塊が、次元のずれに巻き込まれた結果生まれたのが、我々記憶生命体です。
そして次元のずれから生まれた生命の一つである人類は、その進化の過程でネオニューロンという特殊な細胞を得て、そのネオニューロンの活動から独自の生体エネルギーを創出する能力を得たのです。この独自の生体エネルギーは次元の振動エネルギーと同質ですから、次元を振動させることができるのです。
サイコキネシスとは意図的に次元を振動させて、別の次元の事象を現在の次元の事象に同化させることなのです。現在の次元で曲がっていないスプーンを別の次元で曲がって存在しているスプーンに置き換える、次元のシンクロ能力なのです。テレパシーもレアボヤンスも形は異なりますが、次元のシンクロ能力によるひとつの形態でしょう」
喋り終わった佐渡博士の顔は間欠的に襲ってくる痙攣的な痛みのために醜く歪んでいる。顔色は青白いをとおり越してどす黒く変わっている。死期が近いのだ。
幸子は佐渡博士の顔をジッと見つめながら尋ねた。
「佐渡博士、先程、私は人類の厄災を予知しました。早苗も予知をもたらした衝撃波を感得しています。予知のイメージの中に世界賢人連盟という言葉が浮かびました。記憶生命体は人類を宿主にして共生してきた訳ですが、世界賢人連盟すなわち記憶生命体が人類に厄災をもたらすことは有るのでしょうか」
佐渡博士はフッと顔を上げて幸子を見た。
「人類の厄災を予知した? 幸子のテレパシー能力は元に戻っていたのか・・・。記憶生命体は世界賢人連盟を通じて人類を守る活動を展開していますが、その活動は結果として遺伝子Xを持った人類を守ることにも繋がるのです。共生者にとって宿主の生存は表裏一体です。宿主を殺してしまうことは共生者自らの死と同義なのです。記憶生命体と人類が共生の関係にある以上、記憶生命体が人類を抹殺することはあり得ないでしょう。ただし・・・」
「ただし?」
幸子の目に力がこもる。佐渡博士は幸子の目に気付かない。
「記憶生命体と人類の共生の関係が崩れる、すなわち、記憶生命体が人類を宿主とする必要がなくなれば、記憶生命体は人類を守る必要がなくなるということです」
愛とか情念とか相互信頼とかいう訳の分からないもので繋がっているのではない。表裏一体と言いつつ、その根底にあるのは無味乾燥な利害でしかないと、佐渡博士、いや、佐渡博士の脳内の記憶生命体は言っているのだ。
その意味を理解した早苗が冷たく言った。
「新しい宿主・・・例えば今開発が進められている人工知能とか・・・何年か先には人類の知能を越える『シンギュラリティ』を迎えるとされているわ。そうなったら記憶生命体は人工知能を新しい宿主として選択する可能性がある訳ね。その場合、人類は記憶生命体にとって不要な存在となる」
早苗の言葉を聞いて、佐渡博士は神宮寺孝晴の脳内から電脳世界に転移した記憶生命体が、幸子の予知した人類の厄災をもたらす元凶であることを理解した。
「そうか・・・そうなのか。・・・早苗の言うとおり、人類の厄災をもたらすのは記憶生命体だ・・・私は何ということを・・・」
佐渡博士は絞り出すように言った。幸子が念を押すように繰り返す。
「やはり、人類の厄災は記憶生命体が引き起こすのですね」
佐渡博士はコクリと頷いた。
「これだけは伝えておかなければならない・・・人類の厄災をもたらす記憶生命体は・・・」
そこまで口にした佐渡博士は大量の出血のために一瞬意識を失い、ガクリと首を垂れた。そしてハッと顔を上げると、突然早苗の方を見て声を絞り出すように叫んだ。
「早苗、私の手を取って下さい。時間がない、早く!」
佐渡博士は渾身の力を振り絞って血まみれの両手を早苗に向かって突き出した。早苗は佐渡博士の異常な剣幕に押されて、意味が分からないままおずおずと片手を伸ばした。早苗の掌が佐渡博士の掌に触れるまであと一ミリ。
佐渡博士、いや、記憶生命体の意図に気付いた幸子は両目を見開いた。記憶生命体は早苗の脳内に移転するつもりだ。
「ダメ!」
幸子が叫び、佐渡博士の身体を思いきり突き飛ばした。
佐渡博士の頭は運転席の窓に激しくぶつかり、ゴクッと鈍い音を立てて佐渡博士の頸骨が折れた。佐渡博士は鼻から血を流して不自然に首を曲げたまま動かなくなった。
佐渡博士は神宮寺孝晴の脳内から記憶生命体が電脳世界に転移したことも、その記憶生命体こそが人類の厄災を招く元凶であることも幸子たちに告げることなく死んだ。幸子たちに告げられたのは、人類の厄災は記憶生命体が引き起こすということだけだ。
「お母さん! どうして・・・」
早苗の悲鳴が上がった。幸子はギラギラした目で早苗を見た。
「佐渡博士はどうせ助からないわ。人類の厄災は記憶生命体がもたらすのよ。佐渡博士の脳内に共生している記憶生命体を逃がしてはいけないのよ」
幸子の顔には、佐渡博士の死を悼む気持ちも悲しむ気持ちも浮かんでいない。幸子は佐渡博士がこれまで手を染めてきた人体実験という悪魔のような所業を知っているのだ。
清澄寺から四方木方面に向かう細い県道の緩いカーブの先で、路肩工事のためにガードレールが途切れている場所から、一台の車が五十メートル下の谷底目掛けて横転しながら落ちた。
カーブの手前で止まっている車の運転席に早苗が座っている。助手席のドアを開けて幸子が乗り込むのと同時に、谷底から爆発音が響いてきた。明日になれば、谷底の車の残骸の中から、佐渡博士の焼死体が発見されるはずだ。
早苗の運転する車は東京に向かって走り出した。後部座席に置いてある幸子のカバンの中には、特殊潜在能力研究所の佐渡博士の研究室の金庫から持ち出してきたUSBメモリとSPA強化剤が入っていた。幸子の予知したイメージの中のひとつに、SPD強化剤の瓶がハッキリと見えたからだった。
車の助手席に座ったまま、幸子は明石にテレパシーを送った。
《明石さん、助けて・・・》
七月二十五日 東京都
明石の部屋の粗末なテーブルを囲んで、瞭、明石、幸子親子の四人は座っていた。
幸子は疲れた顔をして目の下に隈を浮かべながらも、しっかりとした口調で人類の厄災を予知したこと、記憶生命体のこと、佐渡博士と神宮寺孝晴の関係と世界賢人連盟のこと、佐渡博士の死亡の状況、人類の厄災が記憶生命体によって引き起こされることを話した。
黙って聞いていた瞭が顎を指で擦りながら、分からないという風に首を傾げて幸子に尋ねた。
「予知によって未来の出来事を知ることができるということは、未来の出来事はあらかじめ決まっているのでしょうか。それが幸子さんには見えたと・・・」
幸子は、これは佐渡博士から以前に聞いた話だと前置きしてから言った。
「未来の出来事は決まっているのではなく、無限のバリエーションの未来がある中で、何らかの要因でそのバリエーションの中のひとつが『現在』として確定していくのだそうです。その確定した現在の積み重ねが『過去』となります。ですから過去は確定していますけど、未来の出来事は確率的にしか存在しないということになります。ですから私の予知が外れることもあります。
未来に起こる出来事で非常に大きなインパクトのあるもの、言い換えると、未来のバリエーションの中で多くに共通して発生するいわば発生確率が極めて高いものがあると、それは大きな波動を次元の全方位に波及させます。予知とはその波動を感得して未来の出来事のイメージを意識の上に構築することなのだそうです」
「未来の波動が時間を遡って過去に伝わってくるということでしょうか」
瞭はまだ首を傾げている。
これも佐渡博士から聞いた話だと前置きして幸子が続けた。
「時間というものは、みんな知っていて便利に使っていますけど自然界に存在するものではない、単なる概念です。例えばそれは数字のようなものです。時間の流れとは何かということを説明できません。
経過した現在の積み重ねが『過去』、そして『現在』、その先に無限のバリエーションという進路をもつ『未来』、これが次元という面の上で繋がっているだけです。これは川の流れのようなもので、『現在』が蓄積していくという流れは変えられませんし、流れを遡行することもできません。
例えば、川の中に大きな石を投げ込むとその波紋は川面を全方位に伝わっていきますよね。川下に投げ込まれた石が起こした波紋を上流の舟で感知する、これが予知なのです。でも川の流れに乗っている舟の進路が何らかの要因で変化して、大きな石が投げ入れられた場所を通らないこともあります。予知が外れるとはこのことです」
瞭は「分かりませんけど分かりました」と意味不明な言葉を口にしてから続けた。話を先に進めるにはこれしか言いようがないのだろう。
「そうすると、幸子さんが予知した人類の厄災とは、未来において非常に高い確率で発生する大きなインパクトのある出来事で、それが記憶生命体により引き起こされるということですか。そして多くの人類が厄災に巻き込まれると。その厄災とは具体的にどのようなものでしょうか」
幸子は頷くと軽く目を閉じた。
瞭の脳内に幸子が予知した厄災のイメージがテレパシーで転送された。瞭の脳内が厄災のイメージで埋め尽くされた。瞭はウワッと声を上げると頭を抱えて思わず目を閉じた。目耳鼻舌皮膚といった感覚器を経由せず、直接脳内に他者からの情報が伝達されるという初めての経験に、瞭の脳が驚いている。
必死になってイメージを整理した瞭は首を振りながら顔を上げると幸子を見た。
「まるで核戦争だ・・・イメージに浮かんだ男の狂気によって核戦争が引き起こされるのでしょうか」
明石が貧相な顔に苦悶の色を浮かべて言った。
「男の顔が融けて現れた光の束の集合体は・・・あれは私が神宮寺孝晴の脳内で感得した記憶生命体のイメージと同じなのです。幸子さんがおっしゃるとおり、人類の厄災は記憶生命体によって引き起こされるのでしょう」
「それでは、神宮寺孝晴の脳内に共生している記憶生命体が犯人だと、明石さんはおっしゃるのですか?」
瞭の問いに明石が首を横に振った。
「分かりません。他の記憶生命体とは接触したことがないので、何とも答えようがないのです」
明石は自信なさげに下を向いた。
早苗がテーブルをバンと叩いて声を上げた。大きな鳶色の瞳が怒りに燃えている。
「人類の厄災を引き起こすなんてとんでもない、絶対に阻止しなきゃ。記憶生命体をやっつければいいんでしょう。その世界賢人連盟とかのメンバーの脳内に共生しているやつらを」
早苗は興奮した顔で、どうだと三人を見回した。早苗の剣幕に、幸子と明石は顔を見合わせた。早苗の興奮を冷まそうとするかのように、瞭が静かに口を開いた。ここは一旦落ち着いて、頭の整理をする必要がある。
「幸子さんの予知が外れる・・・いや外すためには、元凶となる記憶生命体を消滅させるしかないでしょう。その点に疑いはない。
但し、その元凶となる記憶生命体が世界賢人連盟のメンバーのだれかひとりの脳内に共生している一体の記憶生命体なのか、それとも複数なのか、あるいはすべての記憶生命体が元凶なのかが分かりません。
それに、元凶である記憶生命体を消滅させるために、宿主である世界賢人連盟のメンバーを一般人の僕らが殺すというのは現実的に無理です。ましてや、ターゲットとなる記憶生命体が特定できないからといって、世界賢人連盟のメンバー全員を殺すなんてできません」
瞭の反論に早苗は口を尖らせた。
「そりゃあ人殺しは無理だけど・・・」
瞭が続けた。
「となれば、宿主を殺さずに記憶生命体だけを消滅させるしかない。明石さんの力に頼るしかないということです」
瞭と早苗と幸子が、下を向いて話を聞いていた明石を見た。三人に見つめられた明石は、心もとないような表情で三人を見返した。明石には踏ん切りがつかないのだ。
「厄災の元凶となる記憶生命体ではない・・・『善良な』とでもいうのでしょうか・・・善良な記憶生命体も消滅させるのですか。そのう・・・元凶となる可能性があるから消滅させる、特定できないから全て消滅させるという理屈は、何だか人類の立場に寄り添い過ぎている気がするのです」
瞭はうっと呻くと下を向いた。痛いところを突かれた。明石の言うとおり、すべては人類側からの視点だ。
「それはそうですが・・・。ターゲットとなる記憶生命体を特定する方途を考える、あるいは、少なくとも特定する努力を怠ってはならないと明石さんはおっしゃるのですね」
明石が静かに頷く。人類の生存権を主張するのなら、記憶生命体の生存権も考慮しなければ片手落ちだ。
「とにかく、このまま何もしないで人類の厄災の日を迎える訳にはいかないわよ。やるしかないわ。人類でこのことに気付いているのは、私たちだけだもの」
早苗は大きな目をキラキラと光らせて瞭と明石を交互に見た。瞭はやるしかないと腹を括っている。明石はまだ踏ん切りの付かない様子で眉間にしわを寄せて腕を組んでいる。
幸子が静かな声で明石に語りかけた。
「世界賢人連盟のメンバーと接触を図る過程で、ターゲットとなる記憶生命体が特定できるような新しい情報が得られるかもしれませんし、何かを予知するかもしれません。接触して善良な記憶生命体であることが分かれば、こちらから協力を要請することもできるのではないでしょうか」
「分かりました、とにかくやって見るのです」
明石がやっと頷いた。
早苗は明石がやる気になったのを見て満足そうに言った。
「世界賢人連盟のメンバーの名前と住所は、お母さんが持ってきた佐渡博士のUSBメモリに入っていると思うわ。それじゃあ、私たちで人類の厄災を阻止するための記憶生命体の駆逐ミッションに取り掛かるということで決定ね。手始めは、一番近くに居る神宮寺孝晴よね。問題は、神宮寺孝晴の脳内に共生する記憶生命体が人類の厄災の元凶かどうかを、どうやって見極めるかよね」
早苗がどうしたものかと腕を組んだ。
神宮寺の名前を耳にして、瞭の表情が険しくなった。腹の底で怒りがムクリと頭をもたげた。
「神宮寺孝晴の脳内に共生する記憶生命体は、僕の先輩ジャーナリスト東山輝明の殺害を指示した首謀者です。明石さんが偽名で身を隠しているのも、こいつに命を狙われているからでしょう。こいつは人類の厄災との関係の有無にかかわらず、絶対に消滅させなければなりません。東山さんの敵討ちです。
実は僕と明石さんは、秘かに神宮寺をつけ狙っていたんです。二日前には羽田空港で接触を試みましたが失敗しました。神宮寺商事の本社ビルや神宮寺の自宅はセキュリティが厳しいですが・・・なあに、もう一度接触する方法を考えてみますよ」
瞭がそう言うと、羽田空港での失敗を思い出したのか、明石がしょんぼりと下を向いた。口の中でモゴモゴと何か呟いている・・・申し訳ないと謝っているようだ。
幸子は頼もし気に三人を見回した。幸子の頭の中にはある男の顔が浮かんでいる。
「もうひとり、助っ人を呼びましょう。サイコキネシスが必要な場面がきっと出てきます。それに、瞭さんのサイコキネシスの発現にも力になってくれるはずです」
サイコキネシスと聞いて明石が目を剝いた。
「まさか、城島竜次」
「そのまさかです」
幸子はニコリと笑った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神宮寺商事会長の神宮寺孝晴は、千葉市緑区にある神宮寺商事電子機器開発研究部第二研究棟の一室で意識不明の状態で発見され、直ちに帝都大学附属病院の特別室に収容された。佐渡博士の遺体は、千葉県四方木山中の崖下に転落して炎上した車の中から発見された。
神宮寺商事では、神宮寺が意識不明の状態で発見される前日に、神宮寺の手で全ての業務が新体制へ引き継がれていた。まるで、この事件が起こることを察知していたかのように。神宮寺商事の新会長と新社長以下、取締役会のメンバーはこの事件をもみ消すことにして、対外的には神宮寺は軽度の脳梗塞を発症したため役職を全て退き、現在は病院に入院して静養中と発表した。
神宮寺が発見された部屋で頭部にラジオペンチを突き立てられて死んでいた身元不明の男性の遺体は、神宮寺商事秘書室の手で秘かに千葉県の山中に埋められた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
七月三十一日 東京都
新宿区歌舞伎町二丁目にある雑居ビルの四階にバー『黒鳥の館』がある。店には狭いカウンターとボックス席がふたつ、それにショーを見せる小さな舞台があった。
白鳥リリーは接客の傍らクローズアップマジックを見せて客を喜ばせていた。
「よく見ていてね。こっちの手の中にコインを握るわよ、そしてこうやって手を軽く振ると・・・ほら消えた」
「すごーい。全然分かんなーい」
「じゃあ、あなたのグラスの下のコースターを上げてみて」
「こんな所に、いつの間に? すごーい」
真っ赤な牡丹の花を大胆にあしらった着物をキリッと着こなした裕子ママが近寄ってきて、リリーの肩に軽く手を乗せるとハスキーな声を掛けた。
「ほんと、リリーちゃんのマジックって凄いわ。この前店にきたプロのマジシャンが、種が分かんないって驚いていたもんね。プロが見てもよ、凄くない?」
「ママ、おだてないでよ。嫌ねぇ」
言葉では嫌がっているものの、リリーはまんざらでもない顔をして鼻の穴を広げている。マジックの種が分かるはずがないのだ。そもそも種はないのだから。
カランとベルの音がして店のドアが開いた。
「いらっしゃーい」
リリーが上機嫌な声を上げて、入口に立っているふたり組に近寄った。そして、客の顔を見た途端、リリーはその場で棒立ちになった。
客は明石と瞭だった。痩せて貧相な顔に笑みを浮かべて明石がリリーに声を掛けた。瞭は興味深げな顔で店の中を覗いている。
「城島くん、久しぶりなのです。元気そうなのです」
「明石・・哲朗・・」
城島と呼ばれたリリーは口を半開きにして呆然としていた。リリーを見た瞭は、明石の横に立ったまま眼を白黒させていて声が出ない。三人は店の入口で無言のまま固まっていた。
店の奥のカウンターに腰掛けていた裕子ママがリリーに声を掛けた。
「何よリリーちゃん、そんな所で突っ立ってないで。ほら、早くお客さんに中に入って貰いなさいよ、逃げられちゃうじゃない」
裕子ママは入口まで出てきて瞭の腕に自分の腕を絡ませると、有無を言わさず店の中に引っ張り込んだ。恐ろしい力に瞭の肩の関節が危うく脱臼するところだった。
「とにかく・・・いらっしゃいませ。リリーでーす。こちらへどうぞ」
リリーはぎこちない動きで先導するとふたりをボックス席に案内した。
ボックス席に座りおしぼりで手を拭きながら、隣に座ったリリーをチラリと横目で見た瞭が明石に小声で囁いた。
「こちらが城島竜次さん?」
「いやだ、やめてよ」
リリーは甲高い声で叫ぶと瞭の腿を思いきり抓った。瞭はペンチで抓まれたかと思うような痛さに飛び上がった。
リリーは肩まである金髪の巻き髪にフリルの付いたピンクのドレスを着ているが、がっしりとした体形とえらの張った顎にある濃い髭剃り跡は、どぎつい化粧でも隠せない。「どうぞ」と言って瞭に差し出した水割りのグラスを持つ真っ赤なマニキュアをした指は、太く節くれだっていて、ごつい毛が何本か生えている。
『黒鳥の館』は裕子ママが経営するニューハーフバーだった。
リリーはあっけらかんとした顔をして水割りをグイグイ飲み、勝手に注文したつまみのチキンバスケットをムシャムシャ食べ始めた。そしてしこたま水割りを飲みチキンを腹に納めると、小さなゲップをしてから、付けまつ毛で半ば隠れた目をギロリと上げて明石を睨んだ。
「明石ちゃん、何か用なの」
明石は両手を膝の上に置いたまま貧相な顔を上げた。目の前のテーブルの上の水割りは氷がほとんど溶けている。
「実は、城島くんの・・・」
リリーは慌てて手を振った。
「ちょっと、その名前は使ってないの。いまは白鳥リリーよ。リリーって呼んで頂戴」
リリーはきっぱりと宣言すると、明石の前に置かれているグラスを取って氷の融けた水割りをガブリと飲んだ。毒気を抜かれたような顔でリリーを見ていた瞭は思わずつられて手に持った水割りをグビリと飲んだ。
明石は了解したという意味でうんと頷いてから、リリーに向かって身を乗り出した。明石の貧相な顔には真剣な色が浮かんでいる。
「実はリリーさん、折り入ってお願いがあるのです。城・・リリーさんの力を貸してもらいたいのです。あの力を」
リリーはギョッとした顔で明石を見た。
「明石ちゃん、あんたまだあの研究所から追われているの? ヤバい状況? この色男は用心棒なの?」
リリーは瞭にチラリと目をやってから、瞭の腿をまた抓った。瞭は痛みで身を捩る。
「私だけではないのです。人類の厄災が近づいているのです。それを阻止するためにリリーさんの力が必要なのです」
リリーは信じられないという顔をして首を振った。金髪の巻き髪がそれに合わせて可憐に左右に揺れる。
「人類の厄災って、何か凄い話だけど、女のあたしで大丈夫かしら」
瞭がクスッと笑うと、鼻の穴を広げたリリーが瞭の腿をまたまた抓った。瞭がギャッと叫び声をあげる。瞭の腿には酷い痣が残るに違いない。
「とにかく、ここでは何ですから、これから私の部屋にきて話を聞いて欲しいのです。幸子さんも居ますから」
「何、あんた幸ちゃんと結婚したの?」
リリーが『ほう』という顔をしたが、明石は慌てて否定した。
「違うのです、幸子さんは私のところに避難してきたのです。私が言った人類の厄災とは幸子さんが予知したことなのです。そして幸子さんはリリーさんの力が必要になると言ったのです」
幸子の予知だと聞いたリリーは急に真面目な顔になった。
「分かったわ」
リリーはすっくと立ちあがりカウンター席の裕子ママのところにいった。そして瞭と明石の前に戻ってくると小さな紙切れを明石に差し出した。
「はい、お勘定。おふたりで合計四万円。端数はサービスしといたわ、つけはダメよ」
明石があんぐりと口を開けた。
二時間後、リリーは明石の部屋で粗末な椅子に腰掛けていた。隣には瞭が座りテーブルを挟んだ向かい側には明石と幸子が座っている。
化粧を落としたスッピンのリリーのえらの張った四角い顔は、沖縄の屋根にいるシーサーにどこか似ている。金髪のカツラは着けたままだった。リリーによるとこれは地毛らしい。
幸子の話を聞くと暫く俯いて何かを考えていたリリーは、吹っ切れたように顔を上げた。
「話は分かったわ。幸ちゃんの予知なら疑いようがないわね。一緒にやるわ」
リリーはきっぱりと言った。幸子と明石はほっとした顔で頷いた。
特殊潜在能力研究所で生み出された三人の超能力者を前にして、瞭は調査結果を報告した。
「最初のターゲットである神宮寺孝晴ですが、現在の所在は不明です。神宮寺商事の発表によると、軽度の脳梗塞を発症して入院しているらしいんですが、妙にガードが固くてどこの病院なのかが分からないんです。僕のジャーナリスト仲間に声を掛けて、調べて貰っていますので、もう少し待ってください」
瞭が現状を説明すると、隣に座っているリリーが興味深げな顔で瞭を見た。
「ところで、このいい男は誰、紹介してよ。やっぱり用心棒?」
リリーがまた瞭の腿を抓ろうと手を伸ばした。瞭は慌てて飛び退いた。
「申し遅れました。僕はフリーのジャーナリストで矢沢瞭といいます。僕はある殺人事件の犯人を突き止めようとしてこの件に巻き込まれただけで、用心棒ではありません」
瞭は『巻き込まれた』という部分に力を込めた。
リリーが何だつまらないという顔をすると、幸子が慌てて付け加えた。
「城島、いやリリーさんも覚えているでしょう。あの当時、研究所の居住棟に居た妊婦さん。瞭さんは彼女の子供です。そしてリリーさんと同じ能力を持った超能力者です・・・いまは未発現だけど」
リリーは驚いたような顔をしてまじまじと瞭の顔を見た。やはりシーサーによく似ている。
巻き込まれた言う瞭も、その過去において特殊潜在能力研究所で明石や幸子やリリーと交差していた。瞭が巻き込まれたのは偶然ではない、必然なのだ。
そこに食料品の調達に出ていた早苗が両手に大きな買い物袋を抱えて帰ってきた。
「ただいま。ああ重かった、瞭に手伝って貰えばよかったわ。とりあえず二、三日はこれで何とかなるわ」
テーブルの上にドサリと買い物袋を置いた早苗は、リリーの姿を見てギョッとした顔をした。幸子は早苗と並ぶと「娘の早苗です。私と同じテレパスなの」とリリーに紹介した。
早苗はおずおずと頭を下げた。頭の中は千々に乱れている。
「初めまして、明日香早苗です。えっと・・・白鳥・・・リ・・・リリーさん? あの・・・ニューハーフ?・・・」
早苗の挨拶は最後の方がうまく聞き取れなかった。リリーがニッコリと笑った。
「あら可愛い、幸ちゃんの若い頃に生き写しじゃない。ウフフ、白鳥リリーです。よろしくね。リリーって呼んで頂戴」
リリーは金髪のカツラを被り直して早苗にウインクした。
「幸っちゃんの子供か・・・ときの経つのは速いわね。こうなると、明石ちゃんの子供も出てきそうね」
リリーの呟きを聞いた瞭が笑った。
幸子はテレパシーで明石とリリーにだけメッセージを送った。
《厄災を予知したとき、明石さんとリリーさんの顔が見えたの。何者かと戦っていたわ。そして・・・・》
明石とリリーは幸子からのメッセージの意味を理解すると表情を引き締め、黙って頷いた。特殊潜在能力研究所で生み出された三人の超能力者は、何かに腹を括ったようだ。
リリーはあっけらかんとした声を出した。
「それじゃあ、瞭ちゃんのサイコキネシスを試させてもらおうかしら」
リリーは、今度は瞭に向かってウインクした。瞭は慌てて手を振った。
「幸子さんは僕が超能力者の遺伝子を受け継いでいるとおっしゃいますが、僕自身はそんな能力をこれっぽっちも感じたことはありません。サイコキネシスなんてとんでもない」
リリーがフンと鼻で笑った。
「未発現の状態ならトレーニングしなきゃ。いつ瞭ちゃんのサイコキネシスが必要になるか分からないもんね。よし、それじゃあ、あたしが手本を見せようかしら」
リリーは台所から金属製のスプーンを一掴み持ってきた。サイコキネシスを初めて目にする早苗も瞭の隣に座って興味津々で目を光らせている。
「まずは簡単な奴から」
リリーはスプーンを一本手に取った。
「見てて頂戴」
リリーがスプーンの柄の部分を持って目の前に掲げて少し眉をひそめた途端、スプーンの首から上の部分がグニャリと後ろに倒れた。
「曲がった!」
「すごい!」
瞭と早苗が揃って子供のような歓声を上げた。リリーは得意気に鼻の穴を広げている。
「こんなの朝飯前よ」
リリーは持ってきた五本のスプーンを次々に曲げた。瞭と早苗は曲がったスプーンを手に取ると、曲がった部分を指で擦ったり、曲がりを元に戻そうと力を込めたりしている。
「ダメだ、硬くて元に戻らない。こんな硬いスプーンを持っただけで曲げるなんて・・・」
瞭はどうやっても元に戻らないスプーンをテーブルの上に放り投げた。瞭と早苗が称賛の目でリリーを見ているその横で、明石が渋い顔で「スプーンが使えなくなったのです」とぼやいた。
「フン、直せばいいんでしょ」
リリーは口を尖らせて言い返すと、今度は曲がったスプーンを手に取って次々と元に戻した。元の状態に戻ったスプーンには傷ひとつ付いていない。早苗がスプーンを二本手に取って打ち合わせるとチンチンと硬質な金属音がした。これは手品ではない、種も仕掛けもないのだ。早苗がウウムと感嘆の息を漏らした。
次にリリーはポケットからコインを一枚取り出すと、右の掌に載せて瞭と早苗に見せた。
「今度はちょっと難しいわよ。よく見ていてね。いくわよ」
リリーの両目が少し中央に寄り、顔面が紅潮した。一瞬コインが揺れたかと思うと、リリーの右の掌からコインがフワリと十センチほど浮いた。
「浮いた!」
瞭と早苗の目はコインに釘付けになっている。早苗はコインと掌の間の空間に指を差し入れて、間に何もないことを確認すると感心したようにホウッと息を吐いた。
「こんなもんじゃないのよ」
リリーがそう言うと、リリーの掌の上でゆっくりと回転していたコインは、突然すごいスピードで前方に飛んだ。コインは激しい勢いで壁に衝突した。コインが半分壁にめり込んでいる。まるで銃弾だ。
「凄い! これが本物のサイコキネシスですか!」
瞭が声を上げた。明石はコインのめり込んだ壁を見て憮然とした顔をしている。
「修繕費を払って貰うのです」
明石のボヤキを完全に無視してリリーは瞭に声を掛けた。
「じゃあ瞭ちゃん、やって見て」
リリーが瞭にコインを一枚渡した。瞭はコインを掌に乗せると、息を止め意識を集中させたが何の変化もない。ぷはっと息を吐いて駄目ですと首を横に振った。
「どういう風に念じればいいんでしょうか・・・浮かべ、浮かべという感じで?」
リリーはバカねと言ってから真面目な顔をして答えた。その顔はやはりシーサーに似ている。
「念じるんじゃないのよ。コインが宙に浮いた姿を思い浮かべて、それを目の前の現実と意識の中ですり替えるのよ。意識内の仮想空間と現実空間の置き換えね。額の内側がチリチリと音を立てるように痺れてきて、目の前にふたつの景色が重なり合って見えてきたら、変えたい方の景色をより鮮明に意識にして前に引き出すのよ」
リリーは自分の額を指差した。そして持っていたコインを瞭に渡した。
「さあ後はトレーニングね」
瞭は受け取ったコインを握りしめると頷いた。
「サイコキネシスでどれくらいの重さの物まで動かせるんでしょうか」
「仮想空間と現実空間を念動力で置き換えるんだから、重さや大きさは関係ないの。問題はその物の重さや大きさを自分で経験的に学習しているから、重いとか大きいとかを意識してしまうことで仮想空間を思い浮かべることができないことが問題なの。だから『地球の自転を止める』なんてことは、いくら何でも無理よね。想像できないもん」
そう言ったリリーが横を向き右手をスウッと上げると、壁の脇の大きな本棚がフワリと宙に浮いた。
(第三話おわり)
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