第2話 特殊潜在能力研究所
七月十三日 千葉県鴨川市
JR外房線の終着駅である安房鴨川駅の一駅手前が安房天津駅である。駅から四百メートルほど先に二タ間海水浴場があり、電車を降りた二組の家族連れが真夏のジリジリとして陽光をものともせずに、大きな声ではしゃぎながら海に向かって歩いていく。海水浴客の姿が消えた駅前は閑散として蝉の鳴き声だけが響いている。
瞭は古い小さな駅舎の外に出ると、駅前の小さな広場にある路線バスの停留所で清澄山方面に向かうバスの時間を確認した。ジーンズにスニーカー、ポロシャツを着てリュックサックを担いだ瞭はちらりと時計を見て時間を確認すると、バス停のベンチに座り、額に吹き出してきた汗をタオルで拭った。時折海の方から潮の香りのする涼風がザアッと吹き抜ける。瞭はその都度、生き返ったように「ああ」と声を上げた。
四方木方面行の路線バスに乗車したのは瞭だけだった。バスは駅前の広場から細い県道に入り、清澄山に向けて二タ間川沿いにくねくねと山道を上る。五キロほど上ると青々とした木々に埋もれた日蓮宗千光山清澄寺が見えてきた。清澄寺は日蓮宗の大本山で、日蓮上人が出家得度および立教開宗した寺とされ、日蓮宗四霊場のひとつである。
清澄寺前の停留所でバスを降りた瞭は、清澄隧道に向かってゆっくりと歩き始めた。頭上を覆う木立から激しい夕立の雨音のように蝉の声が降ってくる。木々が陽光を遮っているとはいえ真夏のうだるような熱気が道路を覆っていて、瞭の額から玉のような汗がとめどなく噴き出してくる。
二百メートルほど先に清澄隧道がぽっかりと真っ黒な口を開けて瞭を待っていた。陽光に慣れた瞭の目には隧道の中は深淵のように真っ暗で、時折天井から染み出した地下水がポタポタと落ちてくる。隧道の中の空気はヒンヤリとしていて、瞭の額の汗が瞬く間に引いていく。
清澄隧道を抜けた五十メートルほど先に、清澄山の山中に向かって延びる細い脇道があり、入り口に『私道につき関係者以外の立ち入りを禁ずる 神宮寺商事』と書かれた小さな看板が立っていた。看板は覆いかぶさるように繁茂する雑草に半ば埋もれている。
瞭は横目で看板をチラリと見ると、ひとり頷き、左右を見回してから脇道に足を踏み入れた。
木立に埋もれた薄暗い隧道のような道を一キロほど上ると、いきなりぽっかりと開けた明るい高台に出た。周囲を山の尾根に囲まれた盆地の様な形状だ。
夏の陽光に炙られて表面からユラユラと陽炎が立ち昇る高いコンクリート塀と大きな鉄製の門が瞭の目に飛び込んできた。鉄製の門は錆が浮いて赤茶けており、表面には巨大な鉄格子のような文様が施されている。門には看板や表札らしきものは一切なく、周囲に人影はなかった。
瞭はコンクリート塀の周囲をぐるりと回ってみたが裏口らしきものも見当たらない。三メートルほどの高さのあるコンクリート塀の上には有刺鉄線が張り巡らされていて、とても乗り越えられそうにない。強制収容所のように見える外観は部外者の立ち入りを頑なに拒んでいるようだ。
瞭が鉄製の門の表面を撫でながら注意深く観察すると、門の横側に表面の文様にうまく隠された小さな潜り戸が付いていた。
瞭が潜り戸に触れようと手を伸ばしたとき、潜り戸がいきなり内側に開いた。瞭はハッと息を呑んだ。
「何か御用ですか」
潜り戸の向こうには二十歳位の若い女性が立っていて、瞭を大きな鳶色の瞳で睨んでいた。少し栗色掛かった肩までの髪を軽く後ろで束ね、色白の肌は皮膚の下の静脈が透けて見えるように透明感がある。すっきりとした鼻筋と少し受け口のぷっくりと膨らんだ唇も初々しい。
ここにきた目的も忘れて瞭が思わず見とれていると、もう一度声がした。
「何か御用ですか。脇道の入り口の看板に関係者以外立入禁止と書いてあったでしょう」
女性の声が尖っている。瞭を見る目付きも、いかにも迷惑気だ。瞭は慌ててポケットから名刺を取り出すと、とっておきの営業用スマイルを浮かべた。
「失礼しました。僕はフリーのジャーナリストで矢沢瞭といいます。ある事件の取材でお邪魔しました。ここは特殊潜在能力研究所で間違いないでしょうか」
「違います。そんな研究所なんて知りません」
女性は名刺を受け取るとそっけなく言った。瞭の営業用スマイルは全く効果がないようだ。木で鼻を括った様な女性の答えに、瞭はいささかムッとしたが、さすがに顔には出さない。
「でも脇道の看板に神宮寺商事とありましたよ。特殊潜在能力研究所は神宮寺商事の施設だと聞いていますが・・・それじゃこの物々しい施設は何なのですか」
「そんなこと、あなたにお答えする必要はありません。お帰り下さい」
女性はまるでケンカ腰だ。それでも瞭が食い下がる。ここで帰る訳にはいかないのだ。
「特殊潜在能力研究所の住所は鴨川市清澄六百四十二番地です。地図で確認してきたので、この場所で間違いないはずですが」
「違うと言ったら違います。何かの間違いでしょ」
女性はけんもほろろで取り付く島もない。
手の内を晒したくないが仕方がない、最後の手段だ。瞭はリュックサックの中から山田の部屋で見つけた佐渡博士たちの写っている写真を取り出し、女性に見せた。
「実は佐渡忠吉博士の古いお知り合いの方から紹介頂いたのです。佐渡博士と面会したいのですが、お取次ぎをお願いできませんか」
女性は写真を食い入るように見つめていたが、ふと顔を上げた。
「佐渡博士なんて人はここには居ません。お帰り下さい」
そう言うなり、女性は写真を放り投げるようにして瞭に返すと、潜り戸を閉めようとした。瞭は咄嗟に右足のスニーカーの先を潜り戸の隙間に差し入れた。閉まりかけた潜り戸の細い隙間の向こうから女性の怒ったような瞳が瞭を睨んでいる。
「ちょっと何をするんです! 警察を呼びますよ」
「いいですよ、呼んでください。この施設が何なのか警察から教えて貰いますよ」
「いい加減にしてください」
瞭と女性が潜り戸を挟んで言い争いを続けていると、一台の白い乗用車が脇道を上がってきて門の前に止まった。でっぷりと肥った老人と五十歳位のほっそりとした女性が車から降りた。
老人が瞭に向かって怒鳴った。
「何をやっているんだ君は! ここは私有地で関係者以外は立入禁止だ。しかも強引に中に入ろうとするなんて非常識な。すぐに帰りたまえ!」
瞭は老人の顔を見ると潜り戸から離れ、老人の前に立った。写真の姿よりもかなり老けて太っているが目の前の老人が佐渡博士に間違いない。瞭の後ろで潜り戸が大きな音を立てて閉まった。
瞭は丁寧に頭を下げると、老人に向かって名刺を差し出した。瞭の顔には再び営業用スマイルが浮かんでいる。
「大変失礼しました、怪しいものではありません・・・はは、少し怪しかったですか。受付の女性と少し行き違いがありまして・・・。僕はフリーのジャーナリストで矢沢瞭と申します。失礼ですが佐渡忠吉博士でいらっしゃいますね」
いきなり名前を呼ばれた老人はギョッと目を剝くと、身を固くして「うう」と唸った。その反応を見て、間違いないと瞭は確信した。ここぞとばかりに瞭が続ける。
「ここは神宮寺商事の所有する特殊潜在能力研究所で間違いありませんよね。受付の女性が頑なに否定するものですから押し問答になっていたのです」
瞭は老人の横の立っている女性にちらりと視線を投げかけた。女性は瞭の顔を見て吃驚したように目を見開いている。そして女性は老人の耳元で何かを囁いた。それを聞くと今度は老人が瞭の顔を驚愕して見つめ、ゴクリと生唾を飲み込んでから口を開いた。老人の声が震えている。
「君は矢沢と・・・本当に矢沢というのだね。信じられん。・・・でもそうか、よく似ている・・・」
老人は意味不明な言葉を呟いてから静かに言った。
「そうです、私は佐渡忠吉です。そしてここは特殊潜在能力研究所です」
十五分後、瞭は特殊潜在能力研究所の二階にある応接室のソファーに座っていた。目の前には佐渡博士と先程の中年の女性が座っている。そこへ、門のところで言い争いをした若い女性が、珈琲カップを載せたお盆を持って入ってきた。若い女性はテーブルの上に珈琲カップを置くと中年の女性の隣に座った。応接室に珈琲の甘い香りが広がり、無類の珈琲好きの瞭の表情が緩んだ。
瞭は背筋をスッと伸ばすと、佐渡博士の目を真っ直ぐに見た。
「改めまして、フリーのジャーナリストで矢沢瞭と申します。先程は大変失礼しました」
瞭は非礼を詫びるように深々と頭を下げた。
「佐渡忠吉です。そしてこちらが明日香幸子といってこの研究所の事務長で、その隣が事務長の娘の明日香早苗です」
瞭は顔を上げてふたりの女性を見た。なるほど親子と言われれば、確かに面差しが似ている。佐渡博士から紹介された幸子は頭を下げたが、早苗はプイと横を向いてしまった。気が強いのだ。
「早苗、矢沢さんに謝りなさい」
幸子が叱ったが早苗は横を向いたまま返事もしない。怒って横を向いた姿も絵になっている。美人なのだ。
「いや、僕の方が悪いんです。佐渡博士と面会をしようと強引でしたから。早苗さん、申し訳ありませんでした」
瞭が改めて頭を下げると、早苗も神妙な顔をしてコクリと頭を下げた。根は素直なようだ。
佐渡博士が穏やかな声で口を開いた。
「それで、取材というお話でしたが、私に何か聞きたいことでもあるのでしょうか」
瞭は小さく頷いた。いよいよ本題だ。瞭は逸る心を押さえながら、心もち身を乗り出した。
「実はある事件を取材していまして、その中で山田一郎という人物がその事件に関係していることが分かりました。佐渡博士が山田一郎のことをよくご存じだという情報を得まして、山田一郎についてお尋ねしようとお邪魔した次第です」
佐渡博士は首を傾げた。目に訝し気な色が浮かんでいる。
「山田一郎? そんな人は知りませんなあ。私がその人を知っているというは、どこからの情報ですか」
「情報源はお教えできないのですが、確かな情報です。そう、この写真の一番左の男性が山田一郎です。そしてこちらに写っているのは佐渡博士、あなたですよね」
瞭は山田の部屋で見つけた写真を佐渡博士の前に置いた。瞭は佐渡博士と幸子の両方の顔を見て頭の中に光が走った。
「そうか、そしてこの写真に写っている女性は幸子さん、あなたですね」
佐渡博士と幸子は眼の前に置かれた写真を覗き込むようにして見た。佐渡博士が「ああ」と呟いてから小さく頷いた。
「いや何とも懐かしい、こんな昔の写真がよくありましたねぇ。そうです、これは私でこちらは事務長です。そして一番左の男性は山田一郎ではなく明石哲朗です。山田一郎というのは偽名ですよ」
瞭は虚を突かれた。まったく想定していない答えに声が上ずる。
「偽名? なぜ偽名なんかを・・・」
佐渡博士は写真から目を上げると、瞭を見た。その目にはヒヤリとした冷たさが込められている。口にはできない秘められた理由でもあるのだろう。
「明石哲郎はその写真の当時はこの研究所に在籍していたのですが、その写真を撮ってから間もなく勝手に出て行ってしまい、その後は行方が分からなくなったのです。明石君が偽名を使っている理由は分かりません。明石君はいまも生きているのですか、どこに住んでいるのでしょうか」
ズバリと踏み込んできた佐渡博士に瞭は気圧された。
「ええ、山田、いや明石さんは元気でいらっしゃいますよ、たぶん・・・。住所はご勘弁ください」
答えたくても答えようがない。瞭の方が尋ねたいくらいだ。佐渡博士がムウウと顔をしかめた。瞭が隠していると誤解しているようだ。
「先程、明石さんが事件に関係しているとおっしゃいましたが、それはどのような事件でしょうか」
幸子は瞭に向かって身を乗り出すようにして尋ねた。声も早苗とよく似ている。
「いや、事件といっても警察沙汰になるようなものではありません。まあ、不思議な都市伝説がありまして、それに関係しているのではないかという程度でして・・・」
さすがに殺人事件に関係しているとは言えない。瞭はとっさに記憶屋の話にすり替えた。
「都市伝説とは?」幸子が畳み掛けるように尋ねる。
「いやまあ、何と言いますか、記憶をね・・・ええ、人の記憶を消したり都合よく変えたりしてくれる記憶屋という商売があると、まあ、そういった類の都市伝説ですよ。山田、いや明石さんもちょっとした引っ掛かりがあるというだけで・・・ええ、大したことではないんです。ははは」
瞭は笑って答えをはぐらかそうとしたが、幸子は瞭の目を真っ直ぐに見つめて静かに言った。幸子の目は笑っていない。
「明石さんはこの研究所にいたテレパスですよ。そうですか、テレパシーだけでなく記憶を操る能力も発現したということですか」
今日の天気を話題にするみたいに、さも当たり前のことのようにサラリと幸子は言った。
「あのぅ・・・おっしゃっているのは、あのテレパシーですか。山田、いや明石さんが超能力者だと?」
東山の遺した録音テープを聞いて研究所に関する予備知識を持っていた瞭だったが、面と向かって明石が超能力者だと言われるとさすがに驚いた。
佐渡博士は頷くと珈琲を一口啜ってから続けた。
「ここは特殊潜在能力研究所ですよ。いわゆる超能力の研究をしている民間機関です。もっとも、戦時中は陸軍の研究機関でしたがね」
写真の中で、佐渡博士と並んで立っていた山田、いや、明石の姿が瞭の脳裏に浮かんだ。ということは・・・。
「それでは事務長も超能力者なのですか」
瞭は幸子を見た。幸子は瞭に微笑みを返しながら小さく首を振った。
「写真の当時はテレパシーが発現していたのですが、早苗を妊娠するとその能力は消えました。私は元々心臓に疾患があるので激しい運動はできません。ですから早苗を産んでからは、ここで事務の仕事をお手伝いしています」
瞭は信じられないという顔をした。
「おふたりは超能力と簡単におっしゃいますが、そんな能力が本当に人類に備わっているのですか。それが確認されたのなら世紀の大発見じゃないですか。でも、世間には全く公表されていませんよね」
佐渡博士は禿げ上がった額を掌でつるりと撫でてから、瞭に向かって学生に講義するように淡々と話し始めた。
「超能力というと誰もがうさん臭く感じられるでしょうが、簡単に言えば人間の脳内に存在する特殊なニューロン、ネオニューロンと呼びますが、これの興奮の結果発せられる特殊な生体エネルギーにより生じる物理現象あるいは生理現象に他なりません。それを発現する原理さえ解明できれば良い、まさに科学の範疇ですよ。超常現象でもオカルトでもない。ただその原理が解明されていないから一般の人々には摩訶不思議な能力として感じられて『超能力』と呼ばれているのです。
このネオニューロンは人類の進化に伴ってやがては全ての人類が獲得するものなのです。進化の先にある能力、即ち超能力は人類の未発現・未覚醒の能力と言えるもので、何ら摩訶不思議な能力ではないのです」
佐渡博士の説明に瞭が首を捻った。理解できないというより、理性という常識が首を縦に振らないのだ。
「人類の誰もが備わっている能力なのですか?」
「進化した先にいる人類です。ですからいまの人類には、限られた者にしかネオニューロンが存在しないのです。進化の極めて初期の段階ですよ。我々の研究所ではこのネオニューロンの研究を通じて脳の進化のスピードを速める方法を研究しているのです。超能力自体を開発している訳ではありません。そしてこの研究内容は、社会混乱や差別を助長しかねない。いまの未成熟ともいえる人類に知らせるには未だ早すぎるのです」
佐渡博士の声は段々と熱を帯びてきた。その声には微かな狂気すら感じられる。瞭は熱心にメモを取りながら尋ねた。
「ネオニューロンが発する特殊な生体エネルギーですか、それによって得られる超能力には違いがあるのでしょうか」
「超能力とは、テレパシー(精神感応)、クレアボヤンス(透視)、プレコグニション(未来予知)、サイコメトリー(残留思念感応)などの『超感覚的知覚(ESP)』と、サイコキネシス(念動)やパイロキネシス(発火能力)などの『念動力(PK)』を合わせた、PSI(サイ)能力のことを意味します。予知能力や明石君の持つ記憶を操作する能力もテレパシーのバリエーションのひとつと言えるでしょう。
ネオニューロンが発する特殊な生体エネルギーがどのような超能力を発現するのか、その仕組みはまだ分かっていません。ネオニューロン自体に複数の種類があるのかもしれませんし、ネオニューロンが存在する脳の部位により違いが生じるのかも知れません。あるいは人の個体特性に起因するのかも知れません。
しかし、生体エネルギー自体がエネルギーの一種であり、それは念動波や思念波といった波動に置き換わることが可能であることから、念動波が物理的に作用するあるいは思念波が他人の発する思念波と共振する結果意識が伝わると言ったことは考えられます。なに、これもいずれ解明されますよ」
佐渡博士は疲れたようにフウと一息吐いて瞭を見た。
「当研究所のことを誤解されないように、簡単に活動内容をお話しておきましょう」
佐渡博士は研究所の歴史や組織、現在の活動などを瞭に説明した。
一時間ほどの佐渡博士の説明が終わると、佐渡博士は瞭に研究所内を見ていかないかと勧めた。瞭が喜ぶと佐渡博士は先に立って研究所内を案内した。事務長の幸子も後についてきたが、早苗はどこかに行ってしまい姿が見えなくなった。
「ここが能力発現実習室、いわゆるトレーニングルームです」
佐渡博士が案内した研究所の三階には、天井まで間仕切りされた四畳半ほどの独立ブースが沢山並んでいた。
その中のひとつを瞭がヒョイと見ると早苗が座っていた。早苗は頭に太い鉢巻のようなものを巻き付け瞑想している。鉢巻から数本のケーブルが延びてブースの横にある小さな四角い機械に繋がっている。機械の上面にはガラスが嵌め込まれていて、その中で小さな金属製の針が小刻みに揺れて記録紙の上に波形を描き出している。おそらく脳波測定器の一種なのだろう。
「あれ、あそこに早苗さんがいますが・・・」
瞭が佐渡博士に声を掛けると、佐渡博士は瞭の方を振り返った。
「ええ、早苗君もテレパスのひとりですよ。しかも強いテレパシー能力を発現している優秀なテレパスです」
そして佐渡博士は瞭に手招きをするとブースのひとつを指差した。
「どうです、簡単なテストをしてみませんか」
「危険はないでしょうね」
人体実験のことを思い出した瞭は心配そうな声を出したが、佐渡博士は笑って大丈夫だと繰り返した。佐渡博士は空いているブースに瞭を入れ、椅子に座らせると瞭の頭に鉢巻のようなものを巻いた。幸子がブースに入ってきて瞭の前に座ると、テスト用の道具の入った箱を机の上に置き、中からESPカードや筆記用具などを取り出した。
「始めましょう」
幸子の声と同時に、ブーンという羽虫の飛ぶような低い電子音がブース内に広がった。
二十分ほどのテストはESPカードの図柄当て、箱の中身の透視、スプーン曲げだった。瞭は必死になって意識を集中させたつもりだったが、ESPカードの図柄は何ひとつ当たらず、箱の中身は見当もつかず、スプーンはピクリともしなかった。
「ハハハ、こんなもんです。まあ、僕は典型的な一般人ですから」
瞭が苦笑いをしながら鉢巻を外そうとしたとき、瞭の頭の中に突然、言葉が浮かんだ。
《明石さんの住所や電話番号は絶対に佐渡博士に教えないでください。もし教えると、明石さんの命が狙われます》
幸子が無言で瞭の目をじっと見つめていた。瞭はそれが幸子から瞭の脳内に直接伝えられたものだと理解すると、佐渡博士に気づかれないように小さく頷いた。
佐渡博士は瞭が研究所を後にするまで、しつこく明石の住所や現在の仕事などを聞いてきたが、瞭は答えなかった。
瞭は早苗の運転する車で安房天津駅に向かいながら明石のことを考えていた。なぜ研究所から逃げ出したのか。なぜ偽名を使って身を隠しているのか。東山の殺害にどのように関係しているのか。東山を殺害したのは明石なのか。明石はいまどこにいるのか・・・。
「何を考えているんですか」
早苗の声に我に返ると、瞭は早苗を見た。
「君もテレパスだって聞いたけど、テレパシーで僕が何を考えているのか分かるんじゃないの」
早苗は鳶色の瞳でいたずらっぽく瞭を睨んだ。
「そんなにいつも他人の頭の中を覗くことなんてしていません、というより、してはいけないんです。それに私の能力は未熟で強くなったり弱くなったりを繰り返しているんです。身体の一部が触れている状態だと良く感得できるんですけど、離れている状態だと未だうまく感得できないんです」
テレパスではない瞭にはその感覚が分からない。間の抜けた答えしか口から出てこない。
「へえ、そんなもんなんだ」
「でも、一度感得した人なら、何ていうか、その人固有の思念波のパターンとでもいうのかしら、それが分かっているので離れていても、多くの人の中にいてもハッキリと感得することができるわ。もっともこれはお母さんから聞いた話だけどね」
早苗は無邪気な顔をして、ペロリと舌を出してから笑った。とろけるような笑顔だ。瞭もつられて笑顔を見せた。美人には弱いのだ。
「さっきはごめんね。どうしても佐渡博士に会いたかったから強引なことしちゃって。普段はもっと紳士的なんだよ」
「いいんです・・。でも、佐渡博士ってよく分からない人なんです。何か怖くて。ここだけの話にして下さいね。実は母のテレパシー能力は元に戻っているんですが、それを佐渡博士には秘密にしています。母は何だか佐渡博士を見張っているようなんです」
瞭は佐渡博士が時折見せるヒヤリとした視線や、狂気すら感じさせる言動を思い浮かべた。狂気の天才科学者、マッドサイエンティストと呼ぶのがピッタリだ。
口を開こうとした瞭の目に道路脇からはみ出している工事用の黄色く塗られた看板が飛び込んできた。早苗は看板に気付かないのか、車は看板に向かって真っ直ぐ進んでいる。
「危ない! ブレーキ!」
瞭の叫び声に吃驚した早苗が慌ててハンドルを切り急ブレーキを掛けた。車は半ばスピンしながらギリギリのところで看板を回避し、何とかガードレールの手前で停まった。
「いや・・・危なかった。大丈夫かい、看板が見えなかった?」
早苗は暫くハンドルに突っ伏していたが、やっと顔を上げた。顔色が青ざめている。
「ごめんなさい。ああ驚いた。私、黄色がよく見えないんです。お医者さんから特殊な色盲だと言われていて、いつも気を付けているんです」
早苗はそう言うとゆっくりと車を発進させた。
瞭と早苗が研究所を出た後、幸子は佐渡博士の研究室のドアを叩いた。
佐渡博士は机に向かって資料を熱心に見ていたが、幸子を見ると興奮したように喋り出した。
「これを見てください。先程の矢沢君のテストデータですが強い念動波が検知されているのです。おそらく彼はサイコキネシスを扱える超能力者ですよ。能力は未発現ですがね。実に興味深い、何か口実を設けてもう一度研究所に呼びましょう」
新しい被験者の発見に顔を輝かせている佐渡博士に比べて、早苗は顔を曇らせている。
「佐渡博士。それではやはり矢沢さんは、あの301号室にいた妊婦さんの子供で間違いないのですね。最初に顔を見たときに似ていると思ったけど」
佐渡博士は心ここにあらずという風に、うわの空で頷いた。
「そうです、あの妊婦、森田秀子という名前ですが、彼女が出産後すぐに亡くなったので、私が生まれた赤ちゃんの里子の手配をしたのです。里子の先が矢沢さん夫婦でした。そうか、森田秀子の超能力は発現していたのか、それが子供に遺伝した・・・あるいは投与したSPD強化剤が直接胎児に影響して・・・」
佐渡博士の最後の言葉は幸子には聞き取れなかった。
「佐渡博士はまだ明石さんの行方を追っているのですか。行方不明になってからこんなに経つのに・・・もうそっとしておけばいいじゃないですか」
訴えるような幸子に向かって、佐渡博士はおざなりに答えた。佐渡博士の思考は既に別の方向に向かっているようだ。
「色々と事情があって、どうしても明石君を見つけ出さなければならないのです。あの矢沢君はきっと明石君の居場所を知っていますね。それに取材相手という以外に何か明石君と関係しているのかも知れません」
ちょっと電話を掛けるという佐渡博士の言葉で幸子は研究室を出た。佐渡博士は研究室のドアに鍵を掛けると電話の受話器を手に取った。
「もしもし、佐渡です。・・・はい。明石哲朗が見つかりそうです。・・・ええ。フリーのジャーナリストがいきなり取材にきまして、明石のことを調べていると・・・ええ、関係しているでしょう。住所は言いませんでしたが知っていますね。名前ですか、矢沢瞭です、住所は・・・。それと、驚いたことに矢沢瞭ですが、森田秀子の子供でした。ええ、あのときの里子ですよ。・・・はい。そちらで・・・。分かりました」
佐渡博士は受話器を置くとふっと息を吐いてから、禿げ上がった額に浮かんだ汗をハンカチで拭った。
七月十三日 東京都港区
瞭が東京都港区にある賃貸マンションの自分の部屋に帰り着いたのは午後九時を過ぎていた。シャワーを浴びてさっぱりしてから、部屋に帰る途中のコンビニで買った弁当とビールで遅い夕食を始めた。ビールの二口目を飲もうとしたときにインターホンが鳴った。
「はい?」
「宅配です。荷物をお届けに上がりました」
どこからだろうと思いながら瞭がドアを開けると、いきなり三人組の男が無言で押し入ってきた。
「何だお前ら!」
瞭が叫ぶと、先頭の男が無言で瞭の喉元にナイフを突きつけた。男たちはそのまま瞭の胸を乱暴に押すようにして部屋の中に土足で上がり込むと、瞭を椅子に座らせて手足をロープで縛った。
一番年長と思われる目つきの鋭い三十歳過ぎの男が瞭の前に立った。頬がこけた青黒い顔には額から右目の目じりの横まで刃物で切られた傷跡がある。
男は抑揚のない低い声で言った。こういうことに慣れているようだ。
「余計なことは言わねえ。俺は無駄なことが大嫌いでね、さっさと済ませちまおうぜ。明石哲朗の住所はどこだ」
「知らない」
瞭が答えた途端、眼から火の出るようなビンタが飛んできた。
「もう一度聞くぞ、明石哲朗の住所はどこだ」
「知らない」
二発目のビンタで瞭は口の中を切った。鉄臭い血の味が口の中に広がった。
「野郎、舐めるともっと痛い目に合うぜ」
「本当に知らないんだ」
瞭の腹に強烈なボディーブローが叩き込まれた。ぐふっという呻き声とともに瞭が思わず前に倒れ込むと、男は瞭の肩をつかんで引き戻し、もう一発ボディーブローを入れた。衝撃で息が詰まる。瞭は海老のように身体を折り曲げて喘いだ。
男は無表情のまま、背後に立っているふたりの男を怒鳴りつけた。
「勝也、真司、お前らボオッと突っ立って見てねえで、鞄の中とか机の中を調べろバカ。頭を使え」
勝也と呼ばれた二十歳過ぎの背の高い男が鞄の中身を床にぶちまけた。真司と呼ばれたもうひとりの肥った男は机の引出しを開けて中身を外に放り出している。瞭の足元の床に書類やメモが散乱した。
「さて、もう一回聞くぜ、明石哲朗の住所はどこだ。やつらふたりが見つけるのが早いか、お前が喋るのが早いか、競争だな。俺はどっちでもいいぜ」
男は瞭の髪の毛を掴んで後ろに引っ張った。のけ反った瞭と男の目が合った。瞭は肩で息をしながら声を絞り出した。
「お前ら、佐渡の使いか・・・」
男は顔色ひとつ変えない。
「佐渡、誰だそりゃ。そんなやつ知らねえな。それよりこっちの質問に答えな」
「知らないったら知らない」
「野郎・・・」
男の顔に初めて怒りの色が浮かんだ。男が瞭を殴ろうと胸ぐらをつかんで拳を固めたとき、インターホンが鳴った。
男は瞭の首筋にナイフを突きつけて「声を出すな」と凄んでから、書類を調べていたふたりに目配せをした。
勝也と真司は男に向かって無言で頷くとドアの前に立った。
「誰だ」
「矢沢さん、回覧板です」
勝也と真司は一瞬顔を見合わせてから、勝也がドアを開けた。
ドアの向こうには痩せた男が立っていて、回覧板らしき紙束を差し出しながら、片手で勝也の腕にさっと触れた。そして痩せた男は勝也の脇をすり抜けると、その横であっけに取られて立っている真司の腕を触った。
痩せた男は部屋の中を指差した。
「ほらあそこにいる」
痩せた男の声を聞いた勝也と真司は振り返って部屋の中を見ると、恐ろしい勢いで部屋の中に飛び込んだ。
「内藤、この野郎、俺の子供を轢き殺しやがって、殺してやる」
「俺の娘を玩具にしやがって、内藤、許さねぇ」
勝也と真司は口々に叫びながら、瞭の横に立っている男に殴りかかった。
「何だお前達、何を言ってる・・・バカ止めろ」
内藤と呼ばれた男は、たちまちふたりに殴り倒されて床に転がった。真司は内藤に馬乗りになって顔面を殴りつけ、勝也は足で内藤の腹を蹴りつけている。内藤が真司の脇腹にナイフを突き立てたが、真司は殴る手を緩めない。
内藤が鼻と口から血を流して失神すると、馬乗りになっていた真司は刺された脇腹を抑えながら横向きに倒れた。勝也は動かなくなった内藤と真司を暫く見ていたが、やがてその場にぺたんと座り込んでガクリと首を垂れると動かなくなった。
瞭は突然起こった目の前の出来事が理解できずに呆然と目を見開いていた。
「大丈夫ですか、矢沢さん」
瞭がハッと顔を向けると、そこにはくたびれた開襟シャツを着てよれよれの黒いズボンをはいた明石哲朗が、相変わらず貧相な顔をして立っていた。
十分後、瞭は明石の部屋の中で粗末な椅子に腰掛けて、濡れたタオルを頬に当てていた。明石の部屋は同じ賃貸マンションの一階下で、瞭の部屋の真下の部屋だった。明石はキッチンに向かって珈琲を淹れている。
瞭の部屋で動かなくなった三人は、あの後、明石が三人の腕に次々と触りながら何かを囁くと、脇腹を刺された真司を内藤と勝也が抱えてフラフラと部屋を出ていった。
明石は珈琲カップを持って瞭の前に座ると、珈琲を勧めた。
「珈琲をどうぞ。どうです、落ち着きましたか?」
瞭は珈琲カップを手に取ると、ハアと大きくため息を吐いた。行方を追っていると思っていた相手に、逆に見張られていたのだから、間抜けもいいところだ。
「まさか、真下の部屋に引っ越していたとは・・・僕の住所をどこで調べたんですか」
明石は頬のこけた貧相な顔を歪めてニヤリと笑った。
「あなたに教えて貰ったのです」
「そうか、舟の客になって記憶がなくなったときか・・・迂闊だった。全部気づかれていたのか」
瞭はガクリと首を垂れた。明石は何も答えずに無表情で珈琲を啜っている。瞭は顔を上げると明石に向かってペコリと頭を下げた。
「とにかく今日は助かりました。ありがとうございました。・・・でも、なぜ助けてくれたんです。それよりも、なぜ僕が襲われていることが分かったんですか・・・ああ、上の部屋の物音が聞こえたのか」
明石はテーブルの上に珈琲カップを置くと首を横に振った。
「違うのです、上の部屋の物音なんか聞こえないのです。幸子さんですよ、明日香幸子。あなたは今日取材で会ったでしょう。彼女から、あなたが襲われるので助けてやってくれと頼まれたのです」
瞭は意外だという顔をした。
「でも、幸子さんはあなたの住所も連絡先も知らないはずですが」
明石は苦笑すると、当たり前のことのように言った。
「テレパシーですよ。幸子さんも私もテレパスですから」
テレパスの資質のない瞭にとっては理解できない感覚だ。瞭は素朴な疑問を口にした。
「テレパシーで・・・しかし、鴨川市と東京ですよ、こんなに距離が離れているのにテレパシーは通じるんですか」
「テレパス同士が思念を相互に交感するのに距離は関係ないのです。問題は相手の思念波パターンを認識しているかどうかなのです。私があの研究所にいたときに、幸子さんはテレパシーの相互交感訓練の相手方でした。テレパスは、一度交感した相手の思念波パターンは脳に刻み込まれていますので、距離が離れていても多数の人の発する思念波パターンの中から相手方を探し出して、ピンポイントでテレパシーを送ることができるのです。電話番号とかメールアドレスが分かっているような感じなのです」
瞭は明石の言葉が十分に理解できない、いや、理解はできているが理性が了解できないまま、取り敢えず分かったような顔をしてなるほどと頷いた。
「さっきの三人組は、突然おかしくなったんですが、あれは明石さんが・・・」
明石は小さく頷くと、大したことではないとでも言いたげな口ぶりで話し出した。
「ドアの所にいた勝也に『内藤はお前の子供を飲酒運転で轢き殺して救護もせずに逃げて死なせた男だ。憎い仇だ』、真司に『内藤はお前の娘を強姦して挙句の果てに殺した男だ。憎い仇だ』という記憶を与えたのです。目の前に憎い仇が現れたのですから、ふたりは内藤に襲い掛かったのです。あのままだとあなたに迷惑でしょうから、最後に三人には酒の上での口論からケンカになって内藤が真司を刺したという記憶を与えて、警察に出頭させたのです。あなたを襲ったという記憶は消してね」
瞭は驚いて明石の顔を見た。そんな馬鹿なという言葉を呑み込むと、瞭の脳裏に亜希子の顔が浮かんだ。そうだ、明石なら可能なのだ。
「そんなことが・・・そうか、記憶を操ることのできる明石さんならできるのか。しかし、明石さんは彼らの腕を触っただけですよね。そんな一瞬で記憶の書き換えや消去ができるのですか・・・いや、そもそも記憶とは何なんですか」
明石はもう一度珈琲カップを手に取って、珈琲で口を湿らせてから静かな口調で話し出した。さすがの珈琲中毒の瞭も、珈琲を飲むことすら忘れて聴き入っている。
「目鼻耳皮膚舌などの外部刺激の受容体が感知した視覚・嗅覚・聴覚・触覚・味覚といった情報は電気信号、いわゆる生体電気パルスに置き換わり、それがニューロン(神経細胞)を伝達していきます。
脳内に数百億から一千億個以上あるニューロンは互いに軸索を複雑にからめ合って重層的な網の目状のネットワークを作っています。外部刺激による生体電気パルスはこの重層的なネットワークを稲妻に似た形状を作りながら複層的に伝達されていくのです。一度刻まれた伝達パターン自体はネットワークに生じた傷のような物で消えることがありません。
この複層的な生体電気パルスの伝達経路のパターンは、脳内の海馬を経由して視覚野や聴覚野などと連結しています。例えば視覚情報であれば、視覚野に到達した生体電気パルスがネットワーク上に付けた傷と紐づけられた形で視覚野に蓄積されます。
記憶とは、過去に刻まれた生体電気パルスの伝達パターンと結びついている視覚・嗅覚・聴覚などの情報を意識上に引き出してきて、一定の画像やストーリーを再構築することなのです。
新しい生体電気パルスが生じてニューロン間の伝達が始まると、過去の伝達経路のパターンの痕跡との照合が行われ、同じ又は近似の経路を辿ることで、過去と同じ視覚野や聴覚野などの部位に到達します。そうすると過去に経験した視覚・嗅覚・聴覚などの刺激情報が活性化して意識上に蘇り、過去の記憶として認識されるのです」
明石は『ここまでは理解したか』という顔で瞭を見た。瞭は必死に理解しようと頭をフル回転させている。明石は話を続けた。
「人間の脳内にある記憶フィールドには時間の概念がないのです。私の思念波が相手方の脳に伝わると、私には相手の脳内にあるニューロンに刻まれている生体電気パルスの過去の伝達パターン、いわば古い傷跡のような物ですが、それを感得できるのです。
ニューロンが構築する網の目のようなネットワークに刻まれた生体電気パルスの伝達経路のパターンのひとつひとつに視覚・嗅覚・聴覚などの情報が紐づいていて、その形をなぞることで記憶を再現することができますし、その伝達経路パターンを別の情報に繋げ直すことで記憶を書き換えることができるのです。生体電気パルス伝達経路のパターンの紐づけを断ち切れば記憶自体が消去されるのです。
ひとつひとつの伝達経路パターンと情報の紐づけを確認しながらの作業ですので時間は掛りますが、それはあくまでも脳内の記憶フィールドにおける話であり、現実の時間経過とはリンクしないのです。記憶フィールドから出ると現実の時間は経過していない、時間の概念がないとはそういうことなのです。
すごく長い物語の夢を見ていたが、目覚めるとほんの一瞬のうたた寝の中で見た夢だったということは良くありますよね。そういうイメージなのです」
何とか理解しようと明石の言葉を頭の中で反芻しながら、瞭はポツリと呟いた。それは瞭の素直な感想だ。
「一般人の僕には理解しがたい感覚ですね」
それを聞いた明石は違うとばかりに首を横に振った。
「矢沢さん、あなたはご自分のことを理解されていないのです。あなたも超能力者なのです」
瞭は口元に持っていこうとしていた珈琲カップを危うく落としそうになった。
「何を言うんですか。僕にはそんな能力は有りませんよ。今日も研究所で超能力テストとやらを受けましたけど、散々な結果でした」
瞭の脳裏には一ミリも曲がらなかったスプーンの姿が浮かんでいる。
「それは超能力が未発現の状態だからなのです。でも今日のテストの結果では顕著な数値の念動波が測定されたと幸子さんが伝えてきたのです。それともうひとつ、あなたにとって大変重大な事実を」
次から次へと開示される情報に、瞭は混乱している。しかも、その情報は瞭の常識の範囲をはるかに超えた情報なのだ。混乱するもの無理はない。
「僕にとっての重大な事実? 何ですかそれは」
瞭の口調は半ば投げやりだ。こうなりゃあ、矢でも鉄砲でも持ってこいという心境なのだ。
「矢沢さん、あなたは矢沢家のご両親の実子ではなく、生まれてすぐに矢沢家に貰われてきた里子ですよね」
「僕の出生の秘密ですか。そうか、僕の記憶を読んだときに・・・」
瞭の言葉を明石が遮った。
「違うのです。あなたが生まれて直ぐの目も開かない頃のことですから、あなたが記憶している訳がないのです。
いいですか、あなたの実の母親はあの研究所で人体実験を受けた森田秀子という超能力者なのです。
私や幸子さんが研究所の居住棟に入っていたときに同じ階に居て、そのときは既に人体実験により脳に損傷を受けて意思の疎通が困難でしたが、森田秀子さんは妊娠していたのです。私はその後すぐに脱走しましたからよく知りませんが、幸子さんが出産まで面倒を見ていたそうです。
森田秀子さんは子供を出産してすぐに亡くなったそうなのです。その子供の里子の手配をしたのが佐渡博士で、赤ちゃんのあなたを矢沢家に届けたのも佐渡博士なのだそうです。あなたは超能力者の遺伝子を受け継いでいるのです」
瞭は椅子の背もたれにぐったりと身体を預けると目を閉じて上を向いた。実の母親? 超能力者の遺伝子? 瞭の頭の中を明石の言葉がグルグルと渦を巻いている。
明石が言葉を続けた。
「それにあなたが超能力者であることは、テストなどしなくても私には分かっていたのです。あなたが最初に私を尾行してきたときのことを覚えていますか? 汐留駅の改札口の手前でした。尾行者がいないかどうかを確認するために私が周囲の人々にテレパシーを送って意識を調べたら、ひとりだけ私のテレパシーを撥ね退けたのです。それがあなたなのです。
それと、あなたが私の店に客を装ってきたとき、私はあなたの記憶を操作しようとしましたが、記憶フィールドに入った私の思念波は、ニューロンが構築するネットワークに刻まれた伝達パターンを操作しようとした途端にブロックされてしまったのです。これはあなたが自己防衛のために無意識に念動波を発して私の思念波を打ち消したのです」
瞭は思わず明石に向かって身を乗り出した。
「しかし、僕は『舟』にいってから一月ほど間の記憶が全くないんですよ。明石さんが記憶を消したのではないんですか」
明石は違うと首を振った。
「私の思念波とあなたの念動波が強く交錯しましたから、あなたのニューロンが一時的にマヒしたのでしょう。強い光を受けると暫く目が見えなくなるように、あなたのニューロンは、情報伝達はできるが一時的に記憶ができない状態になったのです。だから生活はできているのにその間の記憶がないのです」
瞭は先程からずっと疑問に思っていたことを明石にぶつけた。
「明石さんはなぜ研究所を脱走したんですか。それと佐渡博士が明石さんをしつこく追いかける理由は何なのですか」
明石は暗い顔をして暫く俯いていたが、やがて顔を上げるとポツリポツリと話し始めた。
「私は中学生のときに両親を交通事故で亡くし、その後は親戚の家に引き取られていましたが、高校卒業を機に親戚の家を飛び出してひとり暮らしを始めたのです。
私が特殊潜在能力研究所に入ったきっかけは、渋谷の駅前で開催されていたイベントの中にあったカード当てゲームでした。昭和五十年ですから私が二十一歳のときです。興味本位で参加して、裏返しにされているカードの模様を面白いくらいに当てたのです。帰ろうとした私に声を掛けたのが研究所で佐渡博士の助手をしていた雨宮さんで、研究所の研修生になれば衣食住付きで更に月給まで貰えるという話に私は飛びつきました。
研究所ではESPカードの模様や箱の中の物を当てる透視訓練、ふたり一組で行う意思疎通訓練、遠方の風景を想像して絵に描くイメージトレーニング、瞑想、脳波測定などが行われました。休みの日も自由な外出は禁止されましたが、私にとって研究所の生活は苦にはなりませんでした。
研究所に入って二か月ほど経った日に、雨宮さんから簡単な実験に協力してくれと言われました。実験開始前に薬を飲まされて意識を失った私が再び意識を取り戻したのは実験から一か月も後でした。その実験こそがネオニューロンの増殖を強制的に促すSPD強化剤投与による超能力発現実験だったのです。
あなたの母親の森田秀子さんはこの実験により脳に障害を負った、そう、人体実験の犠牲者なのです。
私に施された実験は成功して、私にはテレパシー能力の発現が確認されました。私は研究所内の別棟の居住棟兼実験棟に移されましたが、そこは人体実験により超能力の発現が認められた研修生を隔離して、更に能力の向上訓練を行わせる施設でした。そこで知り合ったのが明日香幸子と城島竜次というふたりの超能力者です。ふたりとも私と同じ二十歳前後で、幸子さんはテレパシーが、城島くんはサイコキネシスが発現していました。
私と幸子さんと城島くんの三人は、佐渡博士の下で能力向上訓練を続けていたのですが、そこに研究所の上部組織である神宮寺商事の神宮寺孝晴会長が研究成果の視察に訪れたのです。佐渡博士の案内で訓練の様子を視察していた神宮司会長の手に私の手が触れたのは偶然でした。
私の手が神宮寺会長の手に触れた瞬間、私は神宮寺会長の脳内のニューロンが織りなす重層的なネットワークを感得したのです。それは複雑な網目のように絡み合い、宇宙に浮かぶ渦巻星雲に似た形状をしていて、時折激しい稲妻に似た光の痙攣があちこちで明滅を繰り返すのが見えました。
そして、その光の塊には生体電気パルスの複層的な伝達経路のパターンが痕跡として無数に刻まれていることを認識できたのです。私はそのときに、自分のテレパスとしての能力が他人の脳内の生体電気パルス伝達経路のパターンを感得することができ、それによって他人の記憶が認識できるとともに、生体電気パルス伝達経路のパターンを操作することで記憶の抹消や改変ができる可能性に気が付きました。
神宮寺会長の生体電気パルス伝達経路のパターンを感得したとき、私はニューロンの重層的なネットワークが形作る光の星雲の影に、モヤモヤと蠢く光の束の集合体の形状をした『何か』が潜んでいることに気が付いたのです。それは確かに意思を持って私を見ていました。私はその『何か』に向かって意識の触手を伸ばしました。そして私の意識の触手がその『何か』に触れたとき、私はそれが独立した生命を宿した記憶の集合体であることを感得しました。記憶生命体とでも呼ぶのでしょうか、それが神宮寺会長の脳内に共生していたのです。
私がそれを感得した瞬間、光の星雲も記憶生命体も消えました。神宮寺会長が私の手を激しく振り払ったのです。
神宮寺会長は、驚愕した顔で私を見つめると、くるりと背を向けて出ていってしまいました。神宮寺会長が何に気を悪くしたのか分からないまま、その後の視察日程はすべてキャンセルとなったのです。
神宮寺会長を乗せたベンツが研究所の敷地を出るまで、佐渡博士と私たちは玄関前に並んで見送った。その様子を雨宮さんがカメラで撮影していました。私の部屋にあったあの写真はそのときのものですよ。
その夜、幸子さんと城島くんが私の部屋にきました。このままだと『私が殺される』ことを幸子さんが予知したと告げられたのです。おそらく、神宮寺会長の脳内に共生している記憶生命体を見てしまったことが原因でしょう。私は城島くんの手助けで研究所を脱走しました。それから私は山田一郎と名前を変えて、神宮寺会長の追手から逃げていたのです」
明石の長い話が終わった。ネットリとした静寂が室内に満ちている。呆然とした顔で明石の話を聞いていた瞭が口を開いた。
「それじゃあ、明石さんを狙っているのは佐渡博士ではなく、黒幕は神宮寺商事の会長ということですか」
瞭の言葉に明石が頷いた。
「恐らくそうなのです。神宮寺会長の頭の中にいる記憶生命体が私に怯えているのです」
「超能力に怯える記憶生命体ですか」
「全ての超能力に怯えている訳ではないのです。テレパスの幸子さんやサイコキネシスを操る城島くんには害意はなさそうなのです。それに研究所ではその後も超能力の研究が進められていますしね。ですから私の持つ記憶を操る能力が問題なのでしょう」
長い話に喉が渇いたのか明石は冷めた珈琲をガブリと飲んだ。瞭は一般人の理解を超える話に半ば圧倒されていた。しかし、これは事実なのだろう。
瞭は顔を上げて明石を見た。これだけは聞いておかねばならない。
「東山輝明というフリージャーナリストが刺殺されました。旧日本陸軍の特殊潜在能力開発室で研究されていた特殊能力兵器に関する取材をしていた矢先のことです。明石さんはこの件に関係しているのですか」
小さく頷いた明石は、遠くを見るような目をした。その顔には悲しみが浮かんでいる。
「東山さんが以前、記憶屋という都市伝説の取材をしていたことはご存じですか。その取材の過程で私と東山さんは知り合いました。そのときは単に取材を受けただけでした。その後、東山さんは新興宗教団体の信者に襲われて怪我をし、妻の亜希子さんも監禁されて怪我をしました。
亜希子さんは重度の心的外傷後ストレス障害を発症して半年ほど入退院を繰り返していましたが症状は悪化の一途をたどり、自殺未遂にまで至りました。東山さんは藁をもすがる思いで、亜希子さんを伴って『舟』にきたのです。彼女のトラウマである恐怖の記憶を消してほしいという頼みでした。私は亜希子さんの記憶を改変しました。亜希子さんはそれで心的外傷後ストレス障害を克服したのです。それ以降、東山さんは月に一回か二回、フラリと『舟』に立ち寄って世間話をするようになったのです。
あの日、東山さんは特殊能力兵器開発計画の立案者である神宮寺商事会長の神宮寺孝晴と面会して取材をしたのです。取材を終えた東山さんは神宮寺会長と握手をしたそうですが、そのときに東山さんは神宮寺会長の脳内の生体電気パルス伝達経路のパターンを感得し、脳内に潜む『何か』を認識したのです。
東山さんは私と同じ記憶を操る能力を秘めた潜在的超能力者だったのです。
神宮寺商事を後にした東山さんは『舟』に立ち寄って、自分の感得したものを私に伝えました。私は東山さんに言いました、『それは記憶生命体です。記憶自身が生命を宿した存在なのです』と。そして『あなたも潜在的超能力者なのです』と。東山さんは私が言ったことが納得できなかったようです。私は言いました、『神宮寺孝晴にそのことを気付かれた以上、あなたの命が危ない。身を隠しなさい』と。私が命を狙われているように、東山さんも神宮寺孝晴に、いや、彼の脳内に共生する記憶生命体に命を狙われるでしょう。東山さんは『分かった』といって舟を後にしましたが、やはり、心の底から分かってはいなかったのです。その夜、東山さんは神宮寺の雇った殺し屋に刺殺されたのです」
瞭は両手で顔を覆った。
「それじゃあ、東山さんは神宮寺会長の脳内に共生する記憶生命体の存在に気付いたから殺されたというんですか」
明石は違うと首を振った。
「彼が潜在的超能力者とはいえ、私と同様に記憶を操る能力を秘めていること、即ち記憶生命体の存在を脅かす可能性を有していることが理由なのです。もちろん、その能力がなければ記憶生命体の存在に気付くこともないのですが」
瞭はガクリと首を垂れた。東山の死の謎が解けた、しかし、こんなことを警察に話しても、誰も信じてくれないだろう。
「最後にもうひとつだけ。亜希子さんの記憶を改変したのは、明石さんですね」
「彼女の精神はズタズタに引き裂かれていましたから。あのままでは衰弱死するか自殺するかのどちらかでしょう。東山さんの刺殺記事を見て心配になったのです。東山さんは救えませんでしたが、せめて亜希子さんだけでも救いたかったのです」
「・・・ありがとうございます」
瞭は絞り出すように礼の言葉を口にすると、唇を噛んで下を向いた。そうなのだ、亜希子を救うには記憶の改変しかなかったのだ。
明石は申し訳なさそうに頭を下げた。
「矢沢さん、あなたも私と繋がりがあると考える神宮寺会長に狙われているのです。住所が知られていますので、暫くはこの部屋に身を隠していた方がいいでしょう」
明石の言葉に瞭は頷くしかなかった。
「そうですね、少し様子を見てから新しい部屋を探すまでお世話になります。しかし・・・」
「しかし?」
瞭はキッと顔を上げると、明石の顔を正面から見据えた。
「いつまでも逃げてばかりでは何も解決しません。神宮寺孝晴と対決するんです。明石さんの手が神宮寺孝晴の身体に触れさえすれば、彼の脳内に共生している記憶生命体を消去できるんでしょう? 神宮寺孝晴のスケジュールや行動パターンを調べて、接触方法を考えるんですよ。こちらから攻めるんです」
明石の顔には明らかに怯えの色が浮かんでいる。
「神宮寺孝晴は人の命を何とも思っていないのです。もし失敗して捕まったら、東山さんのように殺されてしまうのですよ」
「危険は承知の上です。だからといって、このままじゃ何も変わりません。やってみる価値は十分にありますよ。それに東山さんの敵討ちをしなきゃならないでしょう」
明石は心配そうな顔をして瞭を見ていたが、東山の敵討ちと聞くと瞳が揺れた。
「僕はフリージャーナリストですよ、張込みや行動調査はお手の物です。任せてください」
瞭は自信ありげに笑った。神宮寺孝晴を警察に突き出すのは無理だ、それならば、僕が東山の敵討ちをしてみせる、と瞭は心に誓った。
(第二話おわり)
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