第12話 ブルー・ノート
春から夏へと移り変わる横浜の風は、潮の匂いに青さを混ぜていた。
タクトはノートパソコンを閉じ、深呼吸をした。
大学生活も二年目に入り、彼はとうとう自分で家庭教師を始めたのだ。
部屋の机には、生徒用のプリントやスケジュール表が並んでいる。
初めて受け持つ中学生は英語が苦手で、単語テストではいつも苦戦していた。
タクトは彼にこう言った。
「大丈夫。できた瞬間に“できた”って言葉にしてみよう。確認スタンプみたいに」
それは、かつてきょうこが自分に伝えてくれた言葉。
今度は自分が、生徒の未来に灯をともす番だった。
ある夕暮れ、授業を終えて街を歩いていると、港の方からジャズが聴こえてきた。
小さなライブバーの前で、サックスの音色が夜風に溶けていた。
看板には「Blue Note Yokohama」と書かれている。
——ブルー・ノート。
その言葉は、タクトの胸に深く響いた。
青は横浜の色であり、自分の青春の色。
ノートは勉強と恋を綴ってきた証。
その二つが重なり合い、未来へと続く旋律を奏でている気がした。
港の見える丘公園。
夕暮れのベンチに、きょうこが座っていた。
白いシャツにカーディガンを羽織り、いつもより少しだけ大人びた雰囲気を漂わせている。
「先生——じゃなかった。きょうこさん」
「ふふ。やっと呼んでくれたね」
彼女は笑いながら、タクトを迎えた。
「生徒はどう?」
「少しずつですが、“わかった!”って顔を見せてくれるんです。それが……嬉しくて」
「うん、それが家庭教師の醍醐味だよ。私も同じ気持ちだった」
二人の間に流れる空気は、もう“師弟”ではなく、“同じ道を歩む者”のものだった。
「思い出すんです。先生に言われたことを」
「どんなこと?」
「“比べちゃう自分と、どう付き合うか”。“迷う姿も勉強になる”。それが僕の教え方の軸になってます」
きょうこは目を細めて頷いた。
「そうやって私の言葉を繋いでくれるなら……私の存在も無駄じゃなかったんだな」
「無駄なんて、一度も思ったことありません」
そのとき、港の向こうに観覧車の灯りが点き始めた。
夜空に浮かぶ光の輪。かつて二人が約束した場所。
「……きょうこさん」
「なに?」
「僕、やっぱりあなたのことが好きです」
言葉はもう、涙と共にあふれるものではなかった。
大人として、未来を描くための告白だった。
きょうこはしばらく黙り、観覧車を見つめた。
やがて、静かに微笑んだ。
「私ね、ずっと怖かったの。先生と生徒の関係を壊してしまうことが。でも今は違う。タクトくんは、もう自分の足で立ってる。私と同じ場所に立ってる」
そう言って彼女は、そっとタクトの手を取った。
その温もりは、冬に震えていた頃の自分には決して届かなかったもの。
今ようやく、対等な位置で結ばれた証だった。
港の夜風が二人の間をすり抜けていく。
潮の匂いは、あの日と変わらない。
けれど景色の意味は、すべて変わっていた。
「タクトくん」
「はい」
「これからは、お互いの未来を一緒に描いていこう」
その言葉に、タクトは力強く頷いた。
港のネオンは揺れ、ジャズの音色が遠くで響いていた。
青い街、横浜。
その中で綴られていく“ノート”は、もう一人だけのものではない。
タクトときょうこの物語は、ここから新しい章へと続いていく。
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